松尾芭蕉の旅 鹿島紀行
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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鹿 島 紀 行 旅の行程









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資料 資料
行程地図 芭蕉発句集 自準亭連句 旅の句集 観月の句集 仏頂を尋ねて 鹿島 布佐 ひろ野の情景 筑波山について 鎌ヶ谷 八幡 行徳 旅の同伴者 旅立ち
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鹿島紀行
旅立ち、旅の同伴者、行徳










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洛の貞室須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。 京都の貞室が、須磨の浦の月を見に行って「松かげや月は三五夜中納言」と吟じたそうである。その風狂の人の昔のことが懐かしく思われたので、この秋、鹿島で月見をしようと思い立った。
伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧 同行の者二人。一人は浮浪の士で、もう一人は行脚の僧である。
々(僧)はからすのごとくなる墨の衣に三衣の袋を衿に打かけ、出山の尊像を厨子にあがめ入てうしろにせおひ、引ならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩して出ぬ その僧は、烏のように黒い墨染めの衣に、三衣の袋を衿首にかけ、出山釈迦像を厨子に安置して背負い、kk01.gif (848 バイト)杖を引き鳴らし、かの無門の大道に通じる路の関を障(さわ)りなく通れるほどの悟りを開き、天地に独歩して旅立った。
今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島にもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳と云処に至る。 もう一人の旅人である私は、僧でもなく俗人でもなく、同じように鳥とも鼠ともつかない蝙蝠(こうもり)が、都合のよい「鳥なき島」に渡るように、鹿島を目指し、草庵の門前から舟に乗って、行徳というところに到着した。

[語 釈]

洛の貞室
「洛」は「都」の意で、特に京都のこと。後漢以後、洛陽に数国の都が置かれたことに因む。
「貞室」は京都の紙商、安原正章。1610〜1673。通称、鍵谷彦右衛門。江戸前期の俳人で、松永貞徳の高弟。貞室、一嚢軒などを号す。
須磨の浦
「須磨」は歌枕。風光明媚で、明石とともに古くから月の名所として知られる。「一の谷」は当地の古戦場。海辺の「須磨の浦」は白砂青松の名所で、蕪村が「春の海終日のたりのたりかな」の句を詠んだ所と伝えられる。


芭蕉は、貞享五年の「笈の小文」の旅で須磨、明石を訪ね「
かたつぶり角ふりわけよ須磨明石」の句を詠み遺した。
松かげや月は三五夜中納言
「三五夜」は仲秋十五夜。白楽天の「三五夜中新月色 二千里外故人心」(和漢朗詠集)の詩句を踏み、「三五夜中納言」の「(夜)中」は、「中納言」の「中」に掛けたもの。


「中納言」は在原行平のこと。行平は、文徳天皇の頃に須磨に閑居したことがある。
  田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり
  侍りけるに、宮の内に侍りける人に遣はしける。
  在原行平朝臣、
  わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻鹽たれつつ侘ぶと答へよ
  (古今和歌集)


「松陰や月は三五夜中納言」の句意は「須磨の裏の白砂に、美しく松のかげを落とす月はと見上げれば、時あたかも十五夜の月であるよ。その昔、須磨に閑居した中納言行平もこの月を眺めたのだろうなあ」。これは安原貞室の句として本文に掲げられたものだが、真の句形は「松にすめ月も三五夜中納言」(玉海集)。
狂夫
風狂の人。風雅に徹する人。
ままに
(理由・原因を表して)〜なので。
かしまの山
「かしま(の山)」は、鹿島神宮が所在する常陸国鹿島郡の地。現在の茨城県鹿嶋市。
浪客の士
浮浪流離の士、浮浪する人。ここでは、河合曽良のこと。
水雲の僧
行雲流水の僧、行脚の僧。ここでは、深川芭蕉庵の隣人、僧宗波(そうは)のこと。「栞集」に「隣菴の僧宗波たびにおもむかれけるを 
古巣只あはれなるべき隣かな」とある。
三衣の袋
「三衣(さんえ)」は、僧侶が着る三種の袈裟(大衣、上衣、内衣)。「三衣の袋」は、それらを携帯するための袋。
出山の尊像を厨子にあが(崇)め入て
「出山(しゅっさん)の尊象」は、修行の山を下る釈迦牟尼の像。出山釈迦像。
「厨子」は、仏像などを安置する仏具。ここでは、出山釈迦像を安置し携帯した箱。
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しゅじょう。ちゅうじょう。僧が携える杖。主に禅宗の僧が用いる杖をいう。
無門の関もさは(障)るものなく、あめつち(天地)に独歩して出ぬ
宋の禅僧・無門慧開が、古人の公案四十八則を評釈した仏書「無門関」の自序にある頌(じゅ)「大道無門、千差有路、透得此関、乾坤獨歩」を踏まえたもの。その意は「大いなる道(悟り)に入る門といった物は無いが、それに通じる路は限りなくある。この路にある関門を努力して通り抜けることができれば、天地を問わず独りで歩いて行ける」。


これより、上は「かの無門の大道に通じる路の関を、障なく通れるほどの悟りを開き、天地に独歩して旅立った」の意。
鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島にもわたりぬべく
「鳥鼠の間に名をかうぶり」の「かうぶり」は、「かうもり(コウモリ。蝙蝠)」が、鳥でも鼠でもなく、その間の子として名を「かうむる(こうむる。蒙る)」物として、この二語を掛け表したもの。「鳥鼠の間」の蝙蝠は、我が身を序した「僧にもあらず俗にもあらず」に関連している。


「鳥なき(島)」は、「鳥なき里の蝙蝠(優れた人のいない所で、つまらない者が幅をきかすたとえ)」の諺に触れたもので、「鳥なき島にもわたりぬべく」は「(蝙蝠が)自分にとって都合のよい、鳥のいない島に渡るように」の意。
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鹿島紀行
八幡、鎌ヶ谷、筑波山について










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舟をあがれば、馬にものらず、細脛(ほそはぎ)のちからをためさんと、かち(徒歩)よりぞゆく。 舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。
甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはた(八幡)と云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。 甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。
小名木川
家康の命で開削された運河。これより行徳の塩や奥州米が江戸に運ばれた。
木下道
鹿島道、銚子道、江戸に魚が運ばれたので鮮魚道とも。現在の県道市川・印西線にあたる。
布佐
我孫子市内。柳田邦夫が少年時代をすごした町。利根川を遡った物資はこの港で陸揚げされ、江戸に運ばれた。
秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。 この広大な様は、古の詩にある「秦甸之一千(余)里」のようであり、遥か彼方まで見渡すことができる。
筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり 筑波山が、向う正面に、二峰を高く並べて立っているのが見える。かの中国にも双剣の峰があると聞くが、これは、中国山水詩の母たる廬山の一隅に存するものである。
 雪は申さずまづむらさきのつくば哉 雪を頂く姿が見事なのは言うまでもないが、春立つ頃の、山紫に霞みたなびく筑波山は格別のものであるよ、
と詠しは、我門人嵐雪が句なり。 と詠んだ句は、我門人嵐雪によるものである。
すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり 総じてこの山は、日本武尊と火守り老人との問答唱和が伝えられて、連歌の起源に関わる山とされ、初の連歌撰集の題にも名付けられた。
和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。 筑波山を眺めながら、和歌を詠まないことはあってはならない、また、句を詠まずに通り過ぎてはならない。まことに愛すべき山の姿ではある。
[語 釈]
舟をあがれば
芭蕉一行は、深川芭蕉庵の門前から舟で小名木川、新川を東進し、江戸川に入ってこれをさかのぼり、行徳で舟を上がった。
甲斐国
現在の山梨県。芭蕉は、天和二年十二月に芭蕉庵を焼失したことから、翌年の夏、秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで一時甲斐の谷村に移り、五月まで逗留した(陰暦の夏は、立夏から立秋まで、四、五、六の三ヶ月)。また、貞享二年、「野ざらし紀行」の折にも当地を訪ねている。
かまかいが原
「かまがい(鎌谷)」は「鎌ヶ谷」の地。
秦甸の一千里
「秦甸(しんでん)」は、秦の国の王都付近の地。「甸」は、王都から四方千里から千五百里以内の地を言う。ちなみに、五百里までは「畿」で、五百里から千里までは「侯」、四千里から四千五百里までは「蕃」。


藤原公任撰「和漢朗詠集」(寛弘九年頃)に、「秦甸之一千余里、凛々氷鋪、漢家之三十六宮、澄々粉飾」の一節がある。秦甸ノ一千余里、凛々トシテ氷鋪(し)キ、漢家(かんか)ノ三十六宮、澄々(ちようちよう)トシテ粉(ふん)ヲ飾レリ。


また、鎌倉中期の「東関紀行」(仁治三年)に「秦甸の一千余里を見渡したらむ心地して、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望み、いかならむとゆかしくおぼゆ。茂れる笹原の中に、あまた踏み分けたる道ありて、行末も迷ひぬべきに、故武藏の前司、道のたよりの輩に仰せて、植ゑ置かれたる柳も、いまだ陰と頼むまではなけれども、かつがつ、まづ道のしるべとなれるもあはれなり」がある。
筑波山
歌枕で筑波、筑波嶺、筑波の山とも。茨城県南西部の山で日本百名山の一つ。二峰に分かれ、西が男体山(八七〇メートル)、東が女体山(八七六メートル)。昔から、「西の富士、東の筑波」と言われ、また、朝、夕、季節によって山肌の色合いが変化し、その美しさから「紫の山」、「紫峰」とも称される。
かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり
世界遺産「廬山」は、中国山水詩の母たる山で、江西省九江市にある。李白、白楽天、白居易ら名立たる文人墨客が慕い、訪れた。主峰の大漢陽峰のほか、本文中、筑波山の二峰に比された双剣峰や上霄峰、香炉峰など、大小百七十一の峰々が聳え立つ。
雪は申さずまづむらさきのつくば哉
蕉門嵐雪の、山紫に霞みたなびく春立つ頃の筑波山を称えた句。


白居易の詩に、廬山の一角を成す香炉峰の雪姿を称えた「遺愛寺鐘欹
枕聴、香炉峰雪撥簾看」の一節がある。遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峰ノ雪ハ簾(すだれ)ヲ撥(かか)ゲテ看ル。

「かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり」に続けてこの嵐雪の句を叙していることから、芭蕉は、初句「雪は申さず(雪を頂いた姿の素晴らしさは言うに及ばず)」を、上の白居易の詩を念頭に置いたものと捉えていたのだろう。
すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり
「日本武尊のことばをつたへて」は、日本武尊が東国遠征からの帰りに、甲斐の国の酒折(さかおり)の宮で、お供の火守りの老人との間で成された片歌問答を指す。それは、
 にひばり筑波を過ぎて幾夜か寝つる
  (新治<常陸国>や筑波の地を過ぎて、幾夜旅寝をしたことだろう。)
 日々並(かがな)べて夜には九夜(ここのよ)日には十日を
  (日数を重ねて、夜で数えれば九、昼で数えれば十になります。) 
 (「古事記」の「景行紀」)


「連歌する人のはじめにも名付たり」は、上の片歌問答が連歌の始まりとされることから、二條良基による我が国初の連歌撰集のタイトルが、日本武尊の「にひばり筑波を過ぎて・・・」にちなみ「菟玖波(つくば)集」と名されたことを指す。


和歌が「敷島の道」と称されるの対して連歌が「筑波の道」と称され、また、「酒折」が連歌発祥の地とされるのも、上の片歌問答が連歌の始まりとされることによる。
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鹿島紀行
ひろ野の情景、布佐、鹿島










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萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都のつとに持せたるも、風流にくからず。 ひろ野に萩の花が咲く景色は、錦を地面に敷いたようであり、むかし、陸奥に下った橘為仲が、萩の花を長櫃に折り入れて、都への土産に持たせて帰ったというのも、風流なことで、慕わしく思われる。
きちかう・女郎花・かるかや尾花みだれあひて、小男鹿のつまこひわたる、いとあはれ也。 桔梗・女郎花・刈萱・尾花が乱れ合って花を開き、牡鹿が妻を恋い慕って鳴いているのは、たいそう哀れ深いものである。
野の駒、処えがほ(得顔)にむれありく、又あはれ也。 野飼いの馬が、好みの所を探し得て、満足げに群れ歩く様も、同じように情趣に満ちている。
日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。 日が既に暮れはじめるころ、利根川のほとりの布佐という所に着いた。
此川にて鮭のあじろと云ものをたくみて、武江の市ひさぐものあり。 この川で、網代という仕掛けを工夫して鮭を捕り、これを江戸の市で売る人がいる。
宵のほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。 宵の間、その漁師の家で休息した。夜の宿は、魚の匂いや体臭が入り混じり生臭い。
月くまなくはれけるままに、夜ふねさし下して、鹿島に至る。 月が翳(かげ)りなく晴れたので、夜舟を下して利根川を行き、鹿島に到着した。
ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。 昼より雨がしきりに降って、十五夜の月は見られそうもない。
[語 釈]
為仲が長櫃に折入て、都のつとに持せたる
鴨長明「無名抄」の「為仲宮城野の萩ほりてのぼる事」の条に、「この為仲、任果ててのぼりける時、宮城野の萩をほりて、長櫃十二合に入れてもちてのぼりければ、人あまねくききて、京へいりける日は二條大路にこれを見ものにして、人多く集りて、車などあまたたてりけりとぞ」とあるに依る。
きちかう
きちこう。桔梗(ききょう)の異称。
かるかや
刈萱。イネ科の多年草。
尾花
ススキの花穂、またはススキ。
小男鹿
さおしか。さ牡鹿。上の桔梗、刈萱、尾花と同じ「秋」の季語で、牡鹿が秋に牝鹿を呼ぶ声は、古くから詩歌に詠まれる。「さ」は語調を整えるための接頭語。
武江の市
武蔵国江戸の市。
ひさぐ
販ぐ。売る、商うの意。
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鹿島紀行
仏頂禅師を尋ねて、観月の句集










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麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。 根本寺の山の麓に、当寺の前の和尚の仏頂禅師が、今は俗世をのがれ閑居しておられるということを聞いたので、訪ねて泊まらせてもらった。
すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。 「人をして深省を発せしむ」、すなわち、奉先寺において、杜甫が、人に深い悟りの心を抱かしめると詠んだ折の心境は、和尚のこの清閑な佇まいの中で、しばし得られる清浄な心と、すこしく似ている。
暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。 明け方の空にやや晴れ間があったので、月見は今こそと和尚が起こしてくださると、人々は皆起き出でた。
月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし 月の光、雨の音といった情景がしみじみと心に感じられ、相応しい言葉が見つからず、句を案じることができない。
はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ はるばると月を見に来た甲斐がないというのは、実に残念なことである。
かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。 かの清少納言であっても、田舎の光景や習俗、馳走に心を奪われて、時鳥の歌を詠みそびれたというので、私にとって、清少納言は心強い味方ということになるだろう。
おりおりにかはらぬ空の月かげもちぢのながめは雲のまにまに 和尚 その折その折も変わらぬ天空の月ではあるのだが、流れ移る雲のまにまに、種々さまざまに変化した姿を見せてくれるのであるよ。
_月はやし梢は雨を持ながら
              桃青
雲足が速いので、梢の雨滴の先に輝ける今夜の月は、天を駆けているように見えるよ。
_寺にねてまことがほなる月見かな
              桃青
寺に宿し、師とともにする月見は、日ごろに興じる会席の折と異なって、気が付けば、悟りを得たような顔つきで、天を仰いでいるよ。
 雨にねて竹おきかへる月見かな
              曽良
雨と諦めて寝入ったが、雲が切れたと聞かされて、雨後に起き返る竹のように蒲団から立ち上がり、月見をしたことである。
 月さびし堂の軒端の雨しづく
              宗波
しみじみと月を眺めている傍らで、堂の軒端から雨しづくが落ちている。静かにひびき伝うその音に、満了した月の寂しさを聞く思いがするよ。
[語 釈]
麓に
「麓」は、むかし鹿島城があった城山の麓。城山は根本寺の北東、五百メートルほどのところにある。芭蕉一行は「麓に」仏頂和尚を訪ねたが、当時、和尚は根本寺を退き、山内にある北寺の塔頭に住まっていた。一行は、この塔頭に止宿した。
仏頂和尚は、寛永十九年(一六四二)常陸国(茨城県)に生まれ、八歳で冷山和尚の根本寺に入り禅門の道を歩んだ。明暦元年(一六五五)、十四歳の春、諸国の名僧との出合いを求めて旅に出、延宝二年(一六七四)、三十三歳の時、根本寺を受け継ぎ二十一世住職となっている。
根本寺
臨済宗妙心寺派、瑞甕山根本寺。推古天皇の勅命により、聖徳太子が創建。開祖は高麗の僧正恵潅。初めは三輪宗、後に法相宗、天台宗となり、貞治二年に禅宗となった。鎌倉期は、幕府の庇護を受けて武家の信仰を集め、文永、弘安の蒙古襲来の折は、後宇多天皇の命で追討の祈祷を行った。南北朝の頃、一時衰退したが、貞和二年に鹿島氏の支援により教外徳蔵和尚が修営し、以後同氏の氏寺として栄えた。天正十九年の鹿島氏滅亡後、当地を知行地とした佐竹氏一族の東義久が寺領を寄進した。江戸時代は、徳川氏より鹿島神領のうち朱印地百石を寺領として給されていた。
(すこぶる)人をして深省を発せしむ
杜甫の詩「遊龍門奉先寺」中の「令人発深省(人ヲシテ深省ヲ発セシム)」による。
已従
招提遊、更宿招提境、陰壑生虚籟、月林散清影、天闕象緯逼、雲臥衣裳冷、欲覚聞晨鍾、令人発深省
已ニ招提ノ遊ビニ従イ、更ニ招提ノ境ニ宿ス、陰壑ハ虚籟ヲ生ジ、月林ハ清影ヲ散ズ、天闕ニ象緯逼リ、雲ニ臥スレバ衣裳冷ヤヤカナリ、覚メント欲シテ晨鍾ヲ聞ク、人ヲシテ深省ヲ発セシム。
おこし驚し
「驚(おどろか)す」に、起す、目を覚まさせるの意あり。
いふべきことの葉もなし
「あはれなるけしき」を前にして「これを詠む句がなかなか思い浮かばない」の意。
ほいなきわざなれ
「ほいなき」は「本意無き」で、不本意、残念に思う意。「わざ」は、事、ありさま。
かの何がしの女すら、時鳥の歌えよ(得詠)まで帰りわづらひし
「かの何がしの女」は清少納言。「時鳥の歌えよまで帰りわづらひし」は、枕草子の「五月の御精進のほど」に書かれた話を引いたもの。これには、清少納言が、退屈まぎれに「徒然なるを時鳥の声尋ねありかばや」と話したのに女房たちが同調し、四人ばかりで賀茂の社の奥に出向く。そこで明順の朝臣の家を訪ね、希望通りにホトトギスの鳴き声を聞くことができたのだが、田舎の光景や習俗、馳走に心を奪われて、結局歌を詠むことが出来なかったことが記されている。
荷担の人
力添えをしてくれる人、味方する人。
寺にねてまことがほなる月見かな
本句は、同じ句形で「続猿蓑」にも所収。その前書に「鹿島に詣ける比、宿根本寺」とある。「宿根本寺」としたのは、芭蕉一行の鹿島の宿泊先、すなわち仏頂禅師の住まいが、根本寺山内の北寺の塔頭だったことに依る。
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鹿島紀行
旅の句集、自準亭連句










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   神前    神前
_此松の実ばえせし代や神の秋
              桃青
境内に聳える見事な松を眺めていると、これが実生えした頃のことが、遥かに思い遣られる神前の秋であるよ。
 ぬぐはばや石のおましの苔の露
              宗波
神社の奥に入り、神が降臨したという御座(おま)しの石を拝観する。その石の苔に下り降った露ならば、手で拭ってみたいものであるよ。
 膝折やかしこまりなく鹿の声
              曽良
神社の森に、鹿の鳴き声がやわらかく響き渡っている。神前では、どうやら鹿さえも膝を折ってうやうやしく鳴くもののようである。
   田家    田家
_かりかけし田面の鶴や里の秋
              桃青
稲を刈りかけた田んぼで、鶴が餌をついばんでいるよ。こうしたのどかな秋の情趣に浸れるのも、田舎ならではである。
 夜田かりに我やとはれん里の月
              宗波
里の夜空に月が皓々(こうこう)と照っている。こうした夜なら、私も雇ってもらい、月見をしながら稲刈りをしてみたいものだ。
_賤の子や稲すりかけて月をみる
              桃青
月明かりをたよりに、百姓の子が庭先で籾摺りをしているなあ。照らなければ仕事ができないのだから、手休めにながめ遣る名月は、この子にとっては、実に尊いものだろう。
_芋の葉や月まつ里の焼ばたけ
              桃青
焼畑に育っている里芋は、今こそ自分の出番と言いたげに、名月が掛かるのを心待ちにしているよ。
   野    野
 ももひきや一花すりの萩ごろも
              曽良
萩が一面に咲く野の原を歩いて行くと、股引が、秋の趣をたっぷりと吸い込んで、花摺衣(はなずりごろも)のように、萩色に染まってしまいそうであるよ。
 花の秋草にくひあく野馬かな
              曽良
野飼いの馬は、花盛りの秋草を飽きるほど食して、今は、戯れ遊ぶばかりであるよ。
_萩原や一夜はやどせ山の犬
              桃青
粗野に吼え立つ山犬よ、一度はこの優美な萩の原に宿をとって、夜を過ごしてみないか。
   帰路自準に宿す    帰路自準に宿す
 塒(ねぐら)せよわら干宿の友すずめ
              主人
[発句] 友雀の方々よ、藁(わら)干しをして巣を整えたような粗末な家だが、今夜はゆっくりと休んでください。(自準)
  秋をこめたるくねのさし杉
              客
[脇句] 秋までには是非とも、と挿し木された生垣の杉が、順調に育っていて実に見事であるよ。(芭蕉)  
 月見んと汐ひきのぼる舟とめて
              曽良
[第三] 月を見るために、綱を引いて動かす舟を呼び止めて、(海から入り込んでいる)潮をのぼって行くよ。
 貞享丁卯仲秋末五日  貞享四年八月二十五日
[語 釈]
神前
鹿島神宮の神前。
石のおまし(御座)
鹿島神宮・奥宮の南奥にある「要石」のこと。鹿島の神が降臨したときに座した石と言われ、地震を起こす大なまずの頭を抑えているとも。
田家
でんか。いなかの家、いなかの意。
花すり
萩や露草の花を衣にこすりつけて染色すること。
自準
常陸潮来の医師本間道悦とする説と、行徳の神職小西似春(じしゅん)とする説がある。


本間道悦は、芭蕉に「医術免許状」を書き与えたと伝えられる人物。本間家に「鹿島詣」の真蹟が伝わり、これを秋瓜が宝暦十年に板行。また、文化十年にも五世本間自準によって「鹿島詣」として板行されており、本書では、末尾の連句で、「主人」が自準の別号の「松江」に、「客」が「桃青」になっている。


小西似春は、京都から江戸に移住した談林系の俳人で、延宝三年、東下中の西山宗因を歓迎する百韻俳諧に、芭蕉とともに一座している。
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鹿島紀行 資料
芭蕉発句、読み方、季語









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1 月はやし梢は雨を持ながら つきはやし/こずゑはあめを/もちながら
2 寺にねてまことがほなる月見かな てらにねて/まことがほなる/つきみかな
3 此松の実ばえせし代や神の秋 このまつの/みばえせしよや/かみのあき
4 かりかけし田面の鶴や里の秋 かりかけし/たづらのつるや/さとのあき 秋、田を刈る
5 賤の子や稲すりかけて月をみる しづのこや/いねすりかけて/つきをみる 稲摺る、月を見る
6 芋の葉や月まつ里の焼ばたけ いものはや/つきまつさとの/やけばたけ 芋の葉、月
7 萩原や一夜はやどせ山の犬 はぎはらや/ひとよはやどせ/やまのいぬ
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鹿島紀行 資料 行程地図
深川−行徳−八幡−布佐−利根川−鹿島
 







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「鹿島紀行」の底本

掲載している「鹿島紀行」の底本は、
「宝暦二年版鹿島詣」です。

章段は、LAP Edc. SOFTが任意に本文を区切って設けたものです。

句読点や章段ごとの見出しは、LAP Edc. SOFTが
任意に付したもので、本文に存在するものではありません。
 

 
参考文献

定本芭蕉大成(編著:尾形仂ほか/三省堂/昭和43年)
新編芭蕉大成(編著:尾形仂ほか/三省堂/平成12年)
日本名著全集-芭蕉全集(発行:日本名著全集刊行会/昭和4年)
芭蕉句選年考(編著:藤村作・笹川種郎・尾上八郎/博文館/昭和4年)
芭蕉全発句 上下巻(編著:山本健吉/河出書房新社/昭和49年)
芭蕉 その鑑賞と批評(編著:山本健吉/新潮社/昭和54年)
芭蕉文集の詳解と鑑賞(編著:岩田九郎/交蘭社/昭和8年)
芭蕉講座 第八巻(編著:小宮豊隆・横沢三郎/三省堂/昭和23年)
芭蕉年譜大成(編著:今栄蔵/角川書店/平成6年)
芭蕉文集 去来抄(編著:井本農一・村松友次・栗山理一/小学館/昭和60年)
芭蕉全傳(編著:山崎藤吉/建設社/昭和16年)
芭蕉俳句集(編著:中村俊定/岩波書店/平成7年)
<以上、順不同>



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