松尾芭蕉の旅 鹿島紀行
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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鹿島紀行
八幡、鎌ヶ谷、筑波山について






舟をあがれば、馬にものらず、細脛(ほそはぎ)のちからをためさんと、かち(徒歩)よりぞゆく。 舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。
甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはた(八幡)と云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。 甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。
小名木川
家康の命で開削された運河。これより行徳の塩や奥州米が江戸に運ばれた。
木下道
鹿島道、銚子道、江戸に魚が運ばれたので鮮魚道とも。現在の県道市川・印西線にあたる。
布佐
我孫子市内。柳田邦夫が少年時代をすごした町。利根川を遡った物資はこの港で陸揚げされ、江戸に運ばれた。
秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。 この広大な様は、古の詩にある「秦甸之一千(余)里」のようであり、遥か彼方まで見渡すことができる。
筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり 筑波山が、向う正面に、二峰を高く並べて立っているのが見える。かの中国にも双剣の峰があると聞くが、これは、中国山水詩の母たる廬山の一隅に存するものである。
 雪は申さずまづむらさきのつくば哉 雪を頂く姿が見事なのは言うまでもないが、春立つ頃の、山紫に霞みたなびく筑波山は格別のものであるよ、
と詠しは、我門人嵐雪が句なり。 と詠んだ句は、我門人嵐雪によるものである。
すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり 総じてこの山は、日本武尊と火守り老人との問答唱和が伝えられて、連歌の起源に関わる山とされ、初の連歌撰集の題にも名付けられた。
和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。 筑波山を眺めながら、和歌を詠まないことはあってはならない、また、句を詠まずに通り過ぎてはならない。まことに愛すべき山の姿ではある。
[語 釈]
舟をあがれば
芭蕉一行は、深川芭蕉庵の門前から舟で小名木川、新川を東進し、江戸川に入ってこれをさかのぼり、行徳で舟を上がった。
甲斐国
現在の山梨県。芭蕉は、天和二年十二月に芭蕉庵を焼失したことから、翌年の夏、秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで一時甲斐の谷村に移り、五月まで逗留した(陰暦の夏は、立夏から立秋まで、四、五、六の三ヶ月)。また、貞享二年、「野ざらし紀行」の折にも当地を訪ねている。
かまかいが原
「かまがい(鎌谷)」は「鎌ヶ谷」の地。
秦甸の一千里
「秦甸(しんでん)」は、秦の国の王都付近の地。「甸」は、王都から四方千里から千五百里以内の地を言う。ちなみに、五百里までは「畿」で、五百里から千里までは「侯」、四千里から四千五百里までは「蕃」。


藤原公任撰「和漢朗詠集」(寛弘九年頃)に、「秦甸之一千余里、凛々氷鋪、漢家之三十六宮、澄々粉飾」の一節がある。秦甸ノ一千余里、凛々トシテ氷鋪(し)キ、漢家(かんか)ノ三十六宮、澄々(ちようちよう)トシテ粉(ふん)ヲ飾レリ。


また、鎌倉中期の「東関紀行」(仁治三年)に「秦甸の一千余里を見渡したらむ心地して、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望み、いかならむとゆかしくおぼゆ。茂れる笹原の中に、あまた踏み分けたる道ありて、行末も迷ひぬべきに、故武藏の前司、道のたよりの輩に仰せて、植ゑ置かれたる柳も、いまだ陰と頼むまではなけれども、かつがつ、まづ道のしるべとなれるもあはれなり」がある。
筑波山
歌枕で筑波、筑波嶺、筑波の山とも。茨城県南西部の山で日本百名山の一つ。二峰に分かれ、西が男体山(八七〇メートル)、東が女体山(八七六メートル)。昔から、「西の富士、東の筑波」と言われ、また、朝、夕、季節によって山肌の色合いが変化し、その美しさから「紫の山」、「紫峰」とも称される。
かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり
世界遺産「廬山」は、中国山水詩の母たる山で、江西省九江市にある。李白、白楽天、白居易ら名立たる文人墨客が慕い、訪れた。主峰の大漢陽峰のほか、本文中、筑波山の二峰に比された双剣峰や上霄峰、香炉峰など、大小百七十一の峰々が聳え立つ。
雪は申さずまづむらさきのつくば哉
蕉門嵐雪の、山紫に霞みたなびく春立つ頃の筑波山を称えた句。


白居易の詩に、廬山の一角を成す香炉峰の雪姿を称えた「遺愛寺鐘欹
枕聴、香炉峰雪撥簾看」の一節がある。遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峰ノ雪ハ簾(すだれ)ヲ撥(かか)ゲテ看ル。

「かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり」に続けてこの嵐雪の句を叙していることから、芭蕉は、初句「雪は申さず(雪を頂いた姿の素晴らしさは言うに及ばず)」を、上の白居易の詩を念頭に置いたものと捉えていたのだろう。
すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり
「日本武尊のことばをつたへて」は、日本武尊が東国遠征からの帰りに、甲斐の国の酒折(さかおり)の宮で、お供の火守りの老人との間で成された片歌問答を指す。それは、
 にひばり筑波を過ぎて幾夜か寝つる
  (新治<常陸国>や筑波の地を過ぎて、幾夜旅寝をしたことだろう。)
 日々並(かがな)べて夜には九夜(ここのよ)日には十日を
  (日数を重ねて、夜で数えれば九、昼で数えれば十になります。) 
 (「古事記」の「景行紀」)


「連歌する人のはじめにも名付たり」は、上の片歌問答が連歌の始まりとされることから、二條良基による我が国初の連歌撰集のタイトルが、日本武尊の「にひばり筑波を過ぎて・・・」にちなみ「菟玖波(つくば)集」と名されたことを指す。


和歌が「敷島の道」と称されるの対して連歌が「筑波の道」と称され、また、「酒折」が連歌発祥の地とされるのも、上の片歌問答が連歌の始まりとされることによる。

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