松尾芭蕉の旅 野ざらし紀行
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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野ざらし紀行 旅の行程









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資料 資料 十五 十五 十四 十三 十三 十三 十二 十一
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新年
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野ざらし紀行
旅立ち、箱根の関越え、旅の同伴者








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千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。 荘子は、千里の旅をする者は、三ヶ月も前から食料を用意すると言っているが、わたしは道中食を持たずに、ただ「夜更けの月明かりのもと、俗世間を離れ仙境に入る」という古人の言葉をよりどころとして、貞享元年の秋八月、いよいよ隅田川のあばら屋を旅立つ。荒れ野を通り抜けていく風の音を聞くと、つい、薄ら寒い思いに駈られることである。
_野ざらしを心に風のしむ身かな  道々行き倒れ、頭骨を野辺にさらそうともと、覚悟しての旅ではあるが、風の冷たさが、むやみにこたえる我が身であるよ。
_秋十年却て江戸を指故郷 江戸住まいもかれこれ十年になる。故郷に向かう旅ながら、かえって江戸が恋しくなってしまうとは。
関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。 箱根の関所を越える日は雨降りで、山はみな雲に隠れてしまっている。
_霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 今日は霧が深くかかって、草庵から幾たびもながめたあの富士山が見られない。けれども、こうして霧の中に聳える富士を思い描くというのも一興であるよ。
何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、朋友信有哉、此人。 何某千里という人が、この度、道中の助けとなってくれて、あれこれといたわり、真心を尽くしてくれている。わたしとはふだんから交わりが深い人で、友に対して信義を守ってくれる方ですよ、この人は。
 深川や芭蕉を富士に預行  千里 とうとう、深川が遠くに思われるところまでやって来たなあ。芭蕉庵での翁の生活を、みんな霊峰富士に預かってもらって、旅を続けることにしよう。

[語 釈]

千里に旅立て、路粮を包まず
荘子の逍遥遊篇に「適千里者三月聚糧」がある。千里二適(ゆ)ク者ハ三月糧(かて)ヲ聚(あつ)ム。
「路粮(路糧)」は道中の食料。
三更月下無何に入
中国の禅僧広聞の句に「路不粮笑復歌、三更月下入無何」(江湖風月集)がある。路粮(かて)ヲ齋(つつ)マズ笑ツテ復(ま)タ歌フ。三更月下無何二入ル。


「三更」は、日没から日出までを五等分した中の三つ目の時刻を指す。午後十一時ごろから午前三時ごろ。「無何」は、「無何有(むかう)」と同義。自然のままで何のこしらえもしないこと。
甲子
こうし、かっし。十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と十二支(子、丑、寅、卯、・・・)とを組合せた干支(えと)の第一番目。貞享甲子は貞享元年。貞享二年の干支は乙丑。
野ざらし
髑髏(どくろ)、しゃれこうべ。
莫逆
ばくげき、ばくぎゃく。極めて親密な間柄。
朋友信有哉
ほうゆうしんあるかな。
「論語」の「学而」に「曽子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎」がある。曽子曰ク、吾レ日二三タビ吾身ヲ省ル、人ノ為二謀(はか)リテ忠ナラザルカ。朋友ト交ワリテ信ナラザルカ。


孟子の説いた五倫にも。「父子親有、君臣義有、夫婦別有、長幼序有、朋友信有」。父子親(しん)アリ、君臣義アリ、夫婦別アリ、長幼序アリ、朋友信アリ。
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野ざらし紀行
富士川のほとりの捨て子








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富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。 富士川のほとりを旅していると、三歳ばかりの捨て子が、悲しそうに泣いている。親は、この子を川の早瀬に投げ込んで、自分たちだけ浮世の波を乗り越えて生きてはいけない、わずかでもこの子の命がある間はこのままにして、との思いで、人知れず捨て置いて立ち去ったのだろう。
小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、 小萩に吹きつける冷たい秋の風に、今夜のうちに命を散らしてしまうのか、明日にもしおれてしまうのかと哀れに思いながら、たもとから食べ物を取り出して投げ与え、通り過ぎる時に、一句を吟じて、
_猿を聞人捨子に秋の風いかに 猿の声に悲愁を聞く詩人たちは、この冷え冷えとした秋風の中に捨てられた子のあわれみならば、どのように詠むことであろうか。
いかにぞや、汝父に悪まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。 坊や(江戸時代は男児、女児のいずれにも用いた)、一体どうしたというのだ。父親に憎まれたのか、母親に嫌われたのか。いや、そうではあるまい。父親がお前を憎んだのでも、母親が嫌ったわけでもない。これは、ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ。
[語 釈]
富士川
山梨県と静岡県を貫流して駿河湾に注ぐ。最上川、球磨川と共に日本三急流の一つ。歌枕。
捨子
「野ざらし紀行」の山口素堂序に「富士川の捨子は惻隠(あわれみ)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとはおもはざらまし。見にかふる物ぞなかりきみどり子はやらむかたなくかなしけれども(金葉和歌集の「大路に子を捨てて侍りける押し含みに、書き付けて侍りける 身にまさる物なかりけり緑児は、やらんかたなくかなしけれども」を引用。序で「(身に)まさる」を「かふる」と誤る)と、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや」とある。
猿を聞人
ここでの「猿」は、「断腸」の語源となっている「人間に我が子をさらわれた母猿が深く悲しみ、死後、母親の腹を割いてみると腸が千切れ千切れになっていた」という中国の故事中の猿を言い、この母猿の切ない鳴き声は、古来多くの漢詩文中で取り上げられている。


「猿を聞人(猿を聞く人)」は、「猿の声に悲愁を聞く詩人たち」の意。杜甫の「秋興八首」に「聴
猿実下三声涙」がある。猿ヲ聴キ実二下ル三声ノ涙。
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野ざらし紀行
大井川越え、小夜の中山








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  大井川越る日は終日雨降ければ、 大井川を越える日、終日雨降りなので、一句詠んで、
 秋の日の雨江戸に指折らん大井川 千里 この雨降りの秋の日に、江戸の人々は日にちを指折りかぞえ、今日は大井川あたり、川止めにあってはいないかなどと、みんなで話しているのではないかな。
  馬上吟 馬上で詠んだ句
_道のべの木槿は馬に食はれけり むくげの花を馬の上から眺めていると、あれよという間に、その花を馬が食べてしまったよ。そうでなくても短命な花であるのに。
廿日余の月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢小夜の中山に至りて忽驚 未明の空に二十日月がかすかに見えて、山の麓あたりがたいそう暗い中を、鞭を垂れたまま馬の足取りにまかせ、数里を旅してきたが、いまだ、鳥の鳴き声が聞こえてこない。杜牧が「早行」の詩に詠んだあの夢見心地のまま、馬に揺られ小夜の中山まで来たところで、やにわに目が覚めた。
_馬に寝て残夢月遠し茶の煙 馬上でうとうとしながら旅を続けて、やにわに夢見心地から覚めると、有明の月が遠くに見え、もう、村里に朝茶を炊く煙がたなびているよ。
[語 釈]
大井川
静岡県中部を流れ、駿河湾に注ぐ川。戦国(元亀以降)、江戸期は、洪水で流れが変わった場合も、この川をもって駿河と遠江(とおとうみ)の境とした。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川は、江戸時代、架橋や渡船が許されず、川越えは、肩車や輦台(れんだい)で行われ、日常的な降雨でも川止めとなるなど、東海道一番の難所と言われた。
杜牧が早行の残夢
「早行」は唐の詩人杜牧の詩。これに「残夢(見残した夢、または、目が覚めても残る夢見心地の気分)」を詠み入れた「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴、林下帯残夢、葉飛時忽驚」がある。鞭ヲ垂レテ馬二信(まか)セテ行ク、数里未ダ鶏鳴ナラズ、林下残夢ヲ帯ビ、葉飛ンデ時二忽チ驚ク。
小夜の中山
さや(さよ)のなかやま。歌枕。佐夜の中山とも。静岡県掛川市と金谷町との境にある峠道。峠からつづら折の坂を下ると、江戸から二十五番目の日坂(にっさか)宿に至った。芭蕉が馬上で見た「茶の煙」立つ集落は、この日坂の宿。
忽驚
たちまちおどろく。「驚く」に「はっとして目が覚める」の意味がある。
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野ざらし紀行
伊勢神宮参詣、西行谷、茶店にて








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松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとどむ。 六月に江戸で別れたばかりの松葉屋風瀑を伊勢に訪ねて、十日ばかり足をとどめた。
腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢をかけて、手に十八の玉を携ふ。僧に似て有、俗に似て髪なし。 私の姿は、腰に脇差を身につけず、襟に頭陀袋をかけ、手に十八珠の数珠を持ち、僧形の身なりはしているが俗人であり、俗人に似て剃髪をしている、といったぐあいである。
我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事を許さず 僧ではないのだが、(神官は)私を僧侶の類と見て、(内宮の)神前に入って参詣することを許さない。
暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほの暗く、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風身にしむ計深き心を起して、 一の鳥居の背後はほの暗く、御燈が所々に見えて、西行が「また上もなき峰の松風」と詠んだ御山から吹き寄せる松風をしみじみと感じ、深い信仰心を起して、次の一句を詠んだ。
_三十日月なし千年の杉を抱あらし 天空に三十日の月は見えず、神路山から下りてくる風は、樹齢千年ほどの神杉(かむすぎ)を抱くように吹き撓(たわ)めている。
西行谷[資料]の麓に流あり。女どもの芋洗ふを見るに、 西行谷の麓に流がある。女たちの芋洗うのを見て、
_芋洗ふ女西行ならば歌よまむ[資料] 西行ならば、きっと芋洗う女たちに歌を詠み掛けるだろう。
其日の帰途、ある茶店に立寄けるに、てふと云ける女、「吾が名に発句せよ」と云て、白き絹出しけるに書付侍る。 その日の帰り道、ある茶店に立ち寄ったところ、てふという女が、「わたしの名を詠み込んだ発句を作ってください」と言って白い絹布を差し出したので、一句書き付けた。
_蘭の香や蝶の翅に薫物す[資料] 芳(かぐわ)しい蝶のよ。蘭の香が、薫物をしたように、うつり香となって。
  閑人の茅舎を訪ひて 閑居する人の草庵を訪ねて
_蔦植て竹四五本のあらし哉[資料] 庭先を占めている竹四、五本が興趣を増して美しく、蔦の葉を彩った秋の風も、竹の緑葉は、見向きもせずに吹き抜けていくばかりである。
[語 釈]
松葉屋風瀑
まつばやふうばく。蕉門。伊勢国、宇治山田大世古町の人で、伊勢神宮の年寄師職家。江戸の出店で諸俳人と交流。「一楼賦」(貞享二年刊)、「丙寅紀行」(貞享三年刊)を編著。


芭蕉は「野ざらし紀行」に旅立つ二ヶ月ほど前の貞享元年六月中旬、江戸から伊勢に帰る風瀑に「風瀑を餞別す 忘れずば佐夜の中山にて涼め(歌枕の佐夜の中山の峠を越える時、当地を詠んだ古歌を思い出しましたら、一涼みしながら一句捻ってみなさい)」の餞別句を送っている。
寸鉄
小さい刃物。小刀、脇差。
十八の玉
珠数が十八個の数珠。この他、三十六個、百八個などの数珠もある。禅宗の携帯用数珠は十八珠のもの。

ちり。浄土に対して俗世間、僧に対して俗人。
浮屠
ふと。「浮図」とも。仏寺、僧侶の意。
神前に入事を許さず
濱森太郎著「松尾芭蕉の1200日 第三章 野ざらし紀行画巻の試み」(三重学術出版会)に、「内宮参詣を志し、神官に境内で禁足された。剃髪し、手に数珠、首に袋を懸けた主人公の装束が、俳諧師よりも乞食僧に近かったからである。(中略)そこで彼は、仕方なく六キロ余りの道のりを引き返すと、日暮れ時に外宮の一の鳥居付近にたどり着いた」とある。
華表
かひょう。「花表」とも。神社の鳥居。中国では城郭や官庁、墓所の入口に建つ門をいう。
また上もなき峰の松風
西行の歌「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」(千載集)からの引用。本歌の詞書に「高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山(かみじやま)ともうす。大日如来の御垂迹(仏や菩薩が仮の姿で現れること)と思ひてよみ侍りける」とある。歌中の「この上もなき」は、大日如来の垂迹とする神路山を称えたもの。
閑人
閑居する人の意。五味蟹守編「杖酒」では、その名を「杉本正英」、支考編「笈日記」(元禄八年奥書)の前書では「廬牧」と記す。
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野ざらし紀行
伊賀上野に帰る








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長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、同胞の鬢白く、眉皺寄て、只命有て、とのみ云て言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老たり、としばらく泣きて、 九月の初めに故郷へ帰ると、既に母は亡くなっていて、母の堂に見られた萱草も霜に枯れ果て、今ではその跡すら残っていない。何事も昔と変わってしまってい、身内の者の髪は白くなり、眉に皺が寄り、ただ、「お互いに存命で何より」とのみ言い合って言葉はなく、兄は、母の白髪を納めた守り袋をほどいて「母を拝みなさい。この髪を見ると、浦島太郎が突然白髪になったように思われるだろう。お前の眉毛も大部白くなったなあ」と言い、あとは二人でしばらく泣き、
_手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜 白髪に変わっていた母の遺髪を手にとると、熱い涙がこぼれ落ち、秋の霜にも似た形見が、消えてしまうように思えるよ。
[語 釈]
長月の初
「長月」は陰暦九月のこと。土芳の「芭蕉翁全伝」に「九月八日の夜尾張の駅より此所に移、四、五日の間」とある。
北堂の萱草も霜枯果て
「北堂」は、中国で、家の北に建つ母親が住まいとした堂。転じて「母」。「萱草(けんそう)」は忘れ草。「詩経」に「焉得
、言樹之背
」(衛風作「伯兮」より。「背北堂也」の註)の一節がある。イズクンゾ草(萱草)ヲ得テ、言(ここ)ニ之ヲ背(北堂)ニ樹(う)エン。
「北堂の萱草も霜枯果て(母の住まいに植えてあった忘れ草が霜枯れ果てた)」は、「母の死」の意を内包する。芭蕉の母は、「野ざらし紀行」の旅の前年(天保三年)、六月二十日に死去。上野農人町の愛染院に葬られている。戒名「梅月妙松信女」。
同胞
同じ民族の意もあるが、ここでは兄弟姉妹の意。
浦島の子
万葉集などに見る浦島太郎のこと。
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野ざらし紀行
千里の故郷を訪ねて










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大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は彼千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。[資料] 大和の国に行脚して、葛下の郡の竹の内というところは、かの千里の故郷なので、幾日か滞在して足を休めた。
_綿弓や琵琶に慰む竹の奥 繰綿(くりわた)を打つ弓の音が、竹薮の奥にひっそりと佇むこの家に、琵琶語りのように鳴り響いているよ。
二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡千歳も経たるならむ、大いさ牛を隠す共云べけむ。かれ非情といへども、仏縁に引かれて、斧斤の罪を免がれたるぞ、幸にしてたつとし。 二上山の当麻寺に詣でて境内の松を見ると、およそ千年の歳月も経ているように思われる。この大きさは、荘子の「大イサ牛を隠す」ほどと言っていいだろう。木に喜怒哀楽の情が無いといっても、仏の縁に導かれて斧で切り倒されることはなかったのであるから、この木にとっては幸いなことであり、尊いことだ。
_僧朝顔幾死返る法の松 僧は、朝顔が何度も死と生を繰り返すように、代々引き継がれて変わったが、仏法の教えは、千年も生き続ける松のように、いつまでも変わることはない。
[語 釈]
葛下の郡竹の内
「蕉影余韻」所収の「野ざらし紀行」(真蹟)に「葛城の下の郡」とあることから「葛下(かつげ)」はこれの略と見られている。現在の奈良県北葛城郡。「竹の内」は、現在の當麻町の竹内地区。芭蕉は、同行の千里の案内で竹の内を訪ね、千里の実家近くの興善庵に寄居した。
綿弓
わたゆみ。「綿打ち弓」ともいう。種を取り除いただけの繰綿(くりわた)をはじき打って精製するための道具。打つときに琵琶を弾いたような音が出る。
二上山
雄岳(517m)と雌岳(474m)が2こぶの稜線を描く二上山は、大和・河内の境目にあたり、奈良盆地の西を南北に走る金剛連峰の一角をなす。
当麻寺
當麻寺(たいまでら)。芭蕉は、竹の内に滞在中、當麻寺に参詣。當麻寺は、用明天皇の皇子麻呂子王が、兄聖徳太子の教えにより、河内の国に建てた万法蔵院禅林寺にはじまり、その後、麻呂子王の孫當麻国見により現在地に移された。寺歴1300年を越す大和の名刹。
大いさ牛を隠す
「大い」は「大き」のイ穏便で、「大いさ牛を隠す」は、「『大き』さが牛を隠す(ほど)」の意。荘子の「人間世篇」に「見櫟社樹、其大蔽、繋之百囲」がある。櫟社(神木を社としたもの)ノ木ヲ見ル二、其ノ大イサ牛ヲ蔽フ。
斧斤の罪
ふきんのつみ。斧(おの。斤)で切り倒される罪。荘子の逍遥遊篇に「不斤斧、物無害者」がある。斤斧(きんふ)二夭(よう。「早死に」の意)セラレズ、物ノ害スル者無シ。
僧朝顔幾死返る法の松
僧と朝顔、仏法と松を対比させて詠んだもの。「和漢朗詠集」に松と槿花(むくげの花、または朝顔の花)を対比させた「松樹千年終是朽。槿花一日自為栄」がある。松樹千年終(つひ)二是朽(く)ツ、槿花一日自カラ栄(えい)ヲ為セリ。
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野ざらし紀行
吉野山、西行の面影を慕って








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独吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、煙雨谷を埋んで、山賤(やまがつ)の家処々に小さく、西に木を伐音東に響き、院々の鐘の声は心の底にこたふ。 独りで吉野の奥に、道に迷いながら入っていくと、まことに山深く、白雲が峰に重なり、霧雨が谷をすきまなく覆い、木こりの家がところどころに小さく見え、谷の西側で木を伐る音が、東側に反響し、院々で打ち鳴らす鐘の音は、心の底に深く感じられる。
昔よりこの山に入て世を忘たる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土(もろこし)の廬山といはむも、またむべならずや。 昔から、この山に入り、俗世間を離れた人の多くは詩を作り、歌を詠んで心を専らにし、世事を忘れようとした。いやまさに、吉野を唐土(中国)の廬山と言いたくなるのも、もっともなことではないだろうか。
  ある坊[資料]に一夜を借りて ある宿坊に一夜を借りて
_碪打て我に聞かせよや坊が妻 宿坊の妻よ、秋の夜のしじまに、哀愁を帯びた、かの碪(きぬた。砧)を打つ音を響かせてはくれまいか。
西上人の草の庵の跡[資料]は、奥の院より右の方二町計分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。 西行上人の草の庵の跡は、奥の院から右の方に二町(約二百メートル)ばかり分け入ったところに、柴刈りの人が通る道だけが、かろうじて有り、険しい谷を隔てて聳える奥山の様子は、大変尊いものである。
とくとくの清水[資料]は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。 かのとくとくの清水は、昔と変わらないと見えて、今もとくとくと雫が落ちている。
_露とくとく試みに浮世すすがばや とくとくの泉が、昔と変わらずに雫を落とし続けている。ためしに、この清水で浮世のけがれをすすいでみたいものであるよ。
若これ扶桑に伯夷あらば、必口をすすがん。もし是許由に告ば、耳を洗はむ。 もし、わが国に伯夷がいたら、清い水なのだから、必ずや口に含みすすいだろうし、許由に教えたなら、きっとこの水で耳を洗い清めたことだろう。
山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々見残して、先後醍醐帝御廟を拝む。 山を登り、坂を下ると、既に秋の日は傾いてしまっている。所々の名所旧跡を見残したのだが、何はともあれ、後醍醐天皇の墓を拝むことにする。
_御廟年経て忍は何をしのぶ草 吉野の山中で、風雨を忍びながら、三百五十年の歳月を暮らした後醍醐天皇のお墓の、その傍らに、ほどよくしのぶ草が育っているよ。
[語 釈]
いでや
この「いで」は、感動を表して「いやもう、実に」。「や」は強意。
廬山
ろざん。中国江西省の北部にある。景勝かつ仏教霊跡の地。中国山水詩の原点とも言うべき名山で、数々の名僧文人が幽栖した山として知られる。
むべ
宜、諾。「うべ」とも。もっともなこと。
碪打て
きぬたうちて。「碪(砧)を打つ」は、植物繊維で織った布を柔らかくするために、布を、砧と称する木製の台(古くは石製)の上にのせて木槌で打つ作業のことで、これを「衣を打つ」、「擣衣(とうい)」ともいう。別には、絹織の布を打って光沢のある衣に仕立てる作業や、洗濯後の乾燥でこわばった布を打って柔らかくする作業も同様に言う。


特に、夜のしじまに哀愁の帯びた音が響く「砧(碪)打ち」の音は、李白の「子夜呉歌」中の「万戸打衣声(万戸衣ヲ打ツノ声)」の一節や、参議雅経の「み吉野の山の秋風さ夜更けてふるさと寒く衣打つなり」(百人一首、新古今和歌集)に見るように、古くから様々な詩歌に詠み込まれている。
伯夷
周の武王が殷を討つという不義を諌め、それが容れられなかったことから周の粟を食するのを潔しとせず、首陽山(中国陝西省の山)に隠れて蕨で飢えをしのいだが、終には餓死したとされる高士。
許由
中国の伝説上の帝、尭から聞かされた皇帝の座を譲るという話に、不本意なことを聞いて汚れたとして、耳を潁川(えんせん。中国河南省の川)で水を洗ったとされる。節義を曲げなかった高潔の士として知られる。
後醍醐帝御廟
吉野山にある山後醍醐天皇(鎌倉末期・南北朝時代)の墓。後醍醐天皇の即位は1318年。1331年、倒幕の計画が漏れ隠岐に流されるが1333年に脱出。同年に幕府が滅び、京都に帰還。同じ年、尊氏離反で吉野(南朝)に移り尊氏(北朝)と対立。尊氏が征夷大将軍になった翌年の1339年に死去。五十二歳。
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野ざらし紀行
近江路に入って美濃へ、不破の関、大垣








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大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る今須・山中を過て、いにしへ常盤の塚有伊勢の守武が云ける「義朝殿に似たる秋風」とはいづれの所か似たりけん。我も又、 大和から山城を経て、近江路に入り、美濃に至る。今須・山中を過ぎたところに、いにしえの常磐御前の墓がある。伊勢の荒木田守武が句に詠んだ「義朝殿に似たる秋風」の句の、義朝と秋風とは、どこがどう似ているのだろうか。私は私なりに次の一句を吟じて、
_義朝の心に似たり秋の風 枯葉を払いながら、もの淋しく吹き荒(すさ)ぶ「秋風」は、頼りとした譜代の家来に殺された義朝の、哀れの情念と通じるものがあることだよ。
  不 破 不破の関跡で一句詠んで
_秋風や藪も畠も不破の関 秋風寄せる中山道から不破に掛かると、「不破」を冠して手堅く守った関所も、今は、跡形もなく、その身を、藪や畠に委ねるばかりの有様となっていた。
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ、 大垣に泊まった夜は、朋友の木因の家を宿にした。武蔵野を出る時、野ざらしも覚悟し、「野ざらしを心に風のしむ身かな」を矢立て初にしての旅だったので、
_死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 どうやら、道中、死にもせず大垣の友の家にたどり着いたと、感慨も一入(ひとしお)で迎えた秋の夕暮れであるよ。
 

【参考資料】 桑名への途次、多度権現で詠んだ句

  又いかなる時にか侍りけんたどの権現を過るとて
 宮人よ我名を散らせ落葉川 (笈日記)
 (宮人よ、川が落葉を掃き流すように、私の名が見えるこの落書きも川に流し、
  散らせてしまってくれないか)
「桜下文集」の編者木因が、本句の初案にあたる「宮守よわが名を散らせ木葉川」が詠まれた経緯について、次のように記している。
伊勢の国多度権現のいます清き拝殿の落書。

武州深川の隠泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召され候へ。伊勢人の発句すくはん落葉川 木因

  右の落書をいとふのこころ
 宮守よわが名を散らせ木葉川 桃青
[語 釈]
大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る
今の奈良県から、京都府の南部を経て、近江路に入り、岐阜県の南部に至る。「近江路」は、三条大橋から柏原宿までの区間、中仙道と重複する。その間、大津宿、草津宿、守山宿、武佐宿、愛知川宿、高宮宿、鳥居本宿、番場宿、醒井宿の九つの宿があった。
今須・山中
「今須(います)」は中山道の宿場町で、不破の関の西、滋賀との境界近くに位置する。山中は、今須のやや東。
いにしへ常盤の塚有
「常磐」は、もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕で、源義朝の妻。源義経の母。義朝が平治の乱に敗死後、一時、今若、乙若、牛若の三子とともに大和に身を隠すが、子の命を救うために京都に引き返し、平清盛に付き従う。後、藤原長成に再嫁。芭蕉が墓参した常磐の塚は、現在の関が原町にある。死因については山中で賊徒に殺されたとの言い伝えがある。「源義経物語」参照
伊勢の守武
荒木田守武。1473〜1549。俳諧連歌師。伊勢神宮の神官荒木田守秀の九男として生まれ、宗祇に連歌を学ぶ。後、独吟「守武千句」を成すなど俳諧連歌の確立に努め、山崎宗鑑とともに「俳諧の祖」とされる。
義朝殿に似たる秋風
荒木田守武の独吟「守武千句」中にある次の付句を指す。
 月見てや常磐の里にかかるらん
 (月を見ながら歩いていると、常磐の里を通り掛かった)
   義朝殿に似たる秋風
   (常磐の里に寄せる秋風なら、「常磐」御前に心を寄せた義朝殿と似ている)
義朝の心
義朝は、1156年の保元の乱で平清盛とともに後白河天皇方について父の軍を主力とする崇徳上皇方を破り、その三年余後、藤原信頼と平治の乱を起こすが、平清盛のために破れ、東国に逃れる途中、尾張で譜代の家来に謀殺された。


芭蕉は、無念にも、頼りにした譜代の家来長田忠致に殺された「義朝の心」を、物淋しく吹き荒(すさ)ぶ「秋風」と似ている、と見たのだろう。
不破の関
歌枕。徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦った関が原にあり、古代、畿内防衛の為、伊勢の「鈴鹿の関」、越前の「愛発(あらち)の関」とともに設置された「三関」の一つ。平安京遷都後は、愛発関を外し逢坂関または勢多関を加えて三関と言ったが、平安期の内に三関ともに廃止されている。白河の関、勿来関、念珠関についても「三関」の称がある。
木因
谷木因(たにぼくいん)。大垣船町の船問屋に生まれる。芭蕉とは京都北村季吟の相弟子で朋友。芭蕉は、大垣で「おくのほそ道」の旅の疲れを癒し、元禄二年九月、木因亭前から舟で大垣を立った。舟には、如行などの門人も乗り込んで三里見送り、木因は、長島まで見送って送別の句を吟じた。


六日 同。辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上尅、杉江ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遅シ。七左・由軒来テ翁ニ遇ス。(曽良随行日記)


ばせを、伊勢の国におもむけるを舟にて送り、長島といふ江に寄せて立ち別れし時、
 荻伏して見送り遠き別れ哉(木因)
_
野ざらし紀行
桑名、熱田、名古屋








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  桑名本当寺にて 桑名本当寺(本統寺)にて
_冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 千鳥を聞きながら、雪中に牡丹とは、なかなか見られない光景であるよ。今の今まで、牡丹とくればほととぎす、と思っていたのに。
草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て、 旅寝にあきて、まだほの暗いうちに浜辺に出かけて行って、
_明ぼのや白魚白きこと一寸 白みはじめた伊勢の浜辺に、幼い白魚が一寸ほどの生涯を終えて、白く横たえているのは、神々(こうごう)しくも、美しくも見えるものであるよ。
  熱田に詣 熱田神宮に参拝する
社頭大いに破れ、築地は倒れて叢に隠る。かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。蓬・忍、心のままに生たるぞ、中々にめでたきよりも心とどまりける。 社殿の周囲はたいそう荒廃し、築地は倒れてくさむらに隠れる有様である。あちらに縄を張って末社の跡地をしるし、こちらには石をすえてその神に見立てている。よもぎや、しのぶ草が、自由に広がり生えているのが、かえって、りっぱな佇まいであるよりも、心がひきつけられる。
_しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉
 [熱田で]
熱田神宮に参拝したのだが、荒廃をつくして、むかしを想うよすがの、しのぶ草まで枯れていたよ。帰りに、茶店に立ち寄って、時の移りを儚く想いながら餅を食べたことである。
  名古屋に入(いる)道の程風吟す 名古屋に入る道すがら、句を詠んで
_狂句木枯の身は竹斎に似たる哉[資料]
 [名古屋で]
木枯らしに吹かれ、あちらへこちらへと、狂句を吟じながら漂泊を続ける私の身の上は、かの竹斎と似ていることであるよ。
_草枕犬も時雨るか夜の声
 [名古屋で]
時雨の夜の静けさを破って、犬の声が聞こえてくる。あの犬も、仮寝のあわれを嘆いているのだろうか。
  雪見に歩きて 雪見に歩いて
_市人(いちびと)よ此笠売らう雪の傘
 [名古屋で]
わたしのこの破れ笠も、雪をかぶるとなかなか趣があってよいものです。町の人、よろしかったら、わたしと旅寝を共にしてきたこの笠を売りますよ。
  旅人を見る 旅人を見る
_馬をさへながむ(詠)る雪の朝哉
 [名古屋に入る前に、熱田で]
一面の新雪に朝日がきらめいて、あまりに美しいものだから、通りがかりの旅人、そして馬さえも、この景色の中に詠み入れてしまうしまことだ。
  海辺に日暮して 海辺に日が暮れて 
_海暮れて鴨の声ほのかに白し
 [名古屋からの帰りに、熱田で]
宵やみの海辺に淋しくたたずんでいると、さざなみの音のかなたより、夜の入りから取り残されたように、鴨の鳴き声がほの白く聞こえてくるよ。
【参考資料】 芭蕉が熱田で詠んだ句(作句順に表示)
(1)「野ざらし紀行」で取り上げていないが、芭蕉は、熱田到着の日、止宿した桐葉亭における句会で、次の発句を詠んでいる。連衆は、芭蕉、桐葉、東藤、叩端、如行、工山。芭蕉は、共に旅した草鞋と笠を海に捨てんとまで叙し、桐葉に深い信頼を表意した。
   旅亭桐葉の主、志浅からざりければ、しばらく留まらむとせしほどに

  此海に草鞋捨てん笠時雨    芭蕉翁
   剥くも侘しき波のから蠣   桐葉 (以下略)
  (六吟表六句歌仙。東藤編「熱田皺筥物語」<元禄八年跋>)
(2)次は、(1)の翌日、閑水亭で巻いた四吟一巡歌仙の発句。連衆は、芭蕉、閑水、東藤、桐葉。「熱田皺筥物語」に、本歌仙が、(1)の翌日に巻かれたとして「次の日」の注を記す。
  
馬をさへ詠る雪の朝かな    翁
   木の葉に炭を吹おこす鉢   閑水 (以下略)
  (四吟一巡歌仙。「熱田皺筥物語」)
(3)熱田神宮に参詣して詠んだ発句で、これに、桐葉が脇句を付けている。
   熱田に詣

  しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉 翁
   皺び付したる根深大根    桐葉
  (発句・脇。「熱田皺筥物語」)
(4)本句は、名古屋からの帰りに熱田に立ち寄り、芭蕉、桐葉、東藤、工山を連衆として巻かれた四吟歌仙の発句。闌更編「俳諧蓬莱島」(安永四年刊)に、「貞享元年朧月十九日」と付記されている。
   
尾張の国熱田にまかりける比、人々師走の海見んとて船さしけるに
  海暮れて鴨の声ほのかに白し  翁
   串に鯨を炙(あぶ)る盃    東藤 (以下略)
  (貞享元年十二月十九日。四吟歌仙。「熱田皺筥物語」)
[語 釈]
桑名本当寺
桑名市は、揖斐川の河口に開けた、もと松平十一万石の城下町。東海道五十三次の四十二番目の宿駅。熱田・宮宿からの七里を船で往来したことから、この間の海路を「七里の渡し」と呼んだ。
「本当寺」は、真宗大谷派・東本願寺別院の「本統寺」のこと。桑名御坊ともいう。芭蕉が訪ねたときの住職は大谷琢恵(俳号古益)だった。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
冬牡丹は、春に蕾、夏に葉を摘み取り、人工的に冬期に咲かせるもので、寒牡丹ともいう。
本句は、本統寺に招かれた折のもので、木因の脇句「釜たぎる夜半や折々浦千鳥」も参考にして詠句時の情況を読むと、「時は夜。俳席の場から薄雪をかぶる庭が眺められ、その一角に円錐形をした藁の雪囲いがあって、中で季節はずれの牡丹が咲いている。それが薄明かりに照らし出され、折々、海辺の方から千鳥の鳴く声が聞こえてくる」といったところ。
本句における芭蕉の感動は、本来ならば夏に咲くはずの牡丹を、雪や千鳥を背景にして冬に愛でることができたという意外性にあり、句中の「ほととぎす」は、[牡丹→夏]から、冬の千鳥に対する夏の鳥としてイメージしたもの。


以下は、木因編「桜下文集」から。
 桑名の本当寺は、牡丹に戯れ給ふ、一会の句、
 
  冬ぼたん千鳥よ雪の郭公  はせを
   釜たぎる夜半や折々浦千鳥 木因
 海上に遊ぶ日は、手づから蛤をひろふてしら魚をすくふ。
 逍遥船にあまりて地蔵堂に書す。
 
  雪薄し白魚しろき事一寸  はせを
   白うをに身を驚くな若翁  木因
明ぼのや白魚白きこと一寸
「白魚」は、川水と海水が混じる河口付近や内湾に生息し、春、成魚で十センチほどになる。幼魚で過ごす冬場は、本句にあるようにかなり小さく、したがって、「白魚一寸」は冬(初冬)の季語となる。水中では、透明がかって見えるが、死後、白色に変化する。


上の資料に見るように、句会の席では上五を「雪薄し」としている。これを「明ぼのや」に改めた理由については、強調したかった白魚の、絶命した後の「白色」が、「薄雪」の白に埋没してしまうのを避けるためと考えられるほか、「明ぼのや」とすることによって、まず、朝色に染まりつつあるダイナミックな浜辺の様子が心象風景として浮かび、そこに、命果てた一寸ほどの白魚が補色的点景として強く見えてくることから、上五の改変は、情景描写の句に抒情詩的要素を加えるためと、推測することもできる。
熱田に詣
「熱田神宮に参詣する」の意。熱田神宮は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)をご神体に、名古屋市の南部「熱田の社」に鎮座する。芭蕉が貞享元年の「野ざらし紀行」で参詣した当時は、本文に見るように、かなり荒廃が進んでいたが、三年後の「笈の小文」の旅では、「熱田御修復 磨直す鏡も清し雪の花(笈の小文)」とある通り、修復を終えたばかりの真新しい社殿が芭蕉を迎えた。
竹斎
「竹斎」は物語の主人公。従者の「にらみ(睨)の介」を伴い、怪しげなる医術を施し狂歌を詠みながら諸国を漂泊。名古屋では、とある小さな町に宿を借り、「天下一藪くすし(藪医者)」の看板の傍らに「扁鵲(へんじゃく。中国の戦国時代の名医)や耆婆(ぎば。釈尊時代、王舎城の名医)もまさる竹斎を知らぬ人こそあはれなりけり」なる歌を書いて開業し、三年間滞在する。
時雨る
しぐるる。「しぐれ」は、本来の意のほかに、古来より「涙」を暗示し、「しぐれる」は、「涙を催す(ほどに、つらい、悲しい)、涙が流れる」の意にも用いられてきた。
市人よ此笠売らう雪の傘
本句は、名古屋の抱月亭で巻かれた三つ物(発句・脇・第三)の発句の決定稿。抱月は、名古屋の俳人。推敲段階のものとして、他に(2)、(3)の句形も見られる。
(1)三つ物の発句。
  抱月亭
 
市人にいで是売らん笠の雪  芭蕉
  酒の戸たたく鞭の枯梅   抱月
 朝顔に先立つ母衣を引ずりて 杜国
 (笈日記)

(2)「芭蕉翁発句集」所収の句。
  雪見にありきて、抱月亭
 
市人にいで是売らん雪の笠

(3)「蕉翁句集草稿」に見る句。
  雪見に歩きて
 
市人に此笠の雪うらん
海暮れて鴨の声ほのかに白し
「野ざらし紀行」では、「海辺に日暮して」と前書きしているが、東藤編「熱田皺筥物語」(元禄八年跋)に「尾張の国熱田にまかりける比、人々師走の海見んとて船さしけるに」の前書があり、支考編「笈日記」(元禄八年奥書)の尾張部「悼芭蕉翁」の文中で「やみに舟をうかべて浪の音をなぐさめれば」に続けて本句を記し、両者ともに「海上で詠んだ句」としている。
_
野ざらし紀行
伊賀上野で越年









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爰に草鞋を解き、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、 こちらで草鞋のひもを解き、あちらで杖を手放して旅寝をつづけるうちに、年の暮れを迎えたので、
_年暮ぬ笠きて草鞋はきながら 笠を着け、草鞋をはいて、実に長い旅であった。こうして、甲子の年が暮れたのであるよ。
といひいひも、山家に年を越て、 などと言い言いしながら、故郷の山家で新年を迎えて、
_誰が聟ぞ歯朶に餅負ふ丑の年 背に餅を負った牛が歩いているなあ。そういえば今年は丑の年であるよ。はて、牛追いをしているのは、どこの家の婿だろうか。そこかしこに、さまざまに想い出がよみがえる故郷の正月であることよ
 
[語 釈]
誰が聟ぞ歯朶に餅負ふ丑の年
貞享二年の歳旦吟。石河積翠園の「芭蕉句選年考」(寛政四年)に「按ずるに、在辺にて舅(しゅうと)のかたへ初春のことぶきに、鏡餅を祝ひて贈るなり」とあって、かつて伊賀上野周辺に、正月を祝って、妻の親許に鏡餅を贈る習俗があったことを伝えている。


本句にある「歯朶に餅負ふ」は、葉裏の白を白髪に例えて長寿、めでたいものとして正月飾りにも使われるウラジロ(歯朶、羊歯)に鏡餅を載せ、その餅を牛に背負わせて妻の実家に運ぶ、故郷の習わしについて触れたもの。


鏡餅には、ウラジロのほかに、代々の繁栄を願って「ダイダイ」や、新しい葉が生長した後に古い葉が譲って落ちることから子孫繁栄を祈願して「ユズリハ」や、「喜ぶ」に掛けた「コンブ」が添えられるなど、正月には、このような掛詞、縁語などの言語文化を最大限に活用し、数々の縁起物が用意された。


本句において、芭蕉は、こうした伝統文化にあやかり、貞享二年が乙丑(きのとうし)の年であることに因んで「牛」に掛け、更に、「牛追い」からの牛の縁語「追い、追ふ」を「負ふ」に掛けており、古風たる貞門俳諧を源流とする芭蕉の、当句に寄せる本情が「此古体(古風な詠み方)に人のしらぬ悦有(よろこびあり)」(服部土芳編「三冊子<赤雙子>」安永五年序)の言葉で明らかにされている。
_
野ざらし紀行 十一
奈良へ、二月堂








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  奈良に出(いづ)る道のほど 奈良に出る道すがら
_春なれや名もなき山の薄霞 春になったのだなあ。見過ごしてしまいそうな山ではあるけれども、かすみが薄くたなびいているさまは、風情があってなかなかのものであるよ。
 
  二月堂に籠りて 二月堂にお籠りをして
 
_水取りや氷の僧の沓の音 二月堂に参詣し、お水取りの儀式を拝したが、冷え冷えとした寒さの中で、白の紙衣をまとい修法に打ち込む練行衆の姿や、高鳴りする「沓の音」は、まさに冷厳を極むものであるよ。
[語 釈]
春なれや
「なれや」は、指定の助動詞「なり」の已然形+詠嘆の間投助詞「や」で、意は「春だなあ」。ただし、紀貫之の「屏風のゑなる花をよめる 咲きそめし時よりのちはうちはへて世は春なれや色の常なる(屏風に描かれた花を詠んで 咲き始めた後、ずっと色がかわらずにいるのは、屏風の中が年中春だからだろうか)」(「古今和歌集」巻十七)の「春なれや」と同じく「や」を疑問の系助詞と見て「春だからだろうか」とする捉え方もある。
水取りや氷の僧の沓の音
「水取り」は、東大寺二月堂で行われる「東大寺修二会(しゅにえ)」という法行の一部で、若狭から二月堂脇の良弁杉(ろうべんすぎ)の下に、遠敷(おにゆう)明神を勧請(かんじょう)し、大松明を持った僧(練行衆<修二会に参加する東大寺の僧>)が、杉の根元に建つ閼伽井屋(あかいや)の中の井戸・若狭井(わかさい)から、香水なる水を汲み堂の中に運ぶ儀式のこと。


本句の「前書」にある「籠(こも)りて」は、法会の期間、特に許された参詣者が二月堂の内陣近く(外陣、局)まで立ち至り、練行衆が本尊の十一面観音に祈願している様を拝する行為を指しており、芭蕉自らが修二会に臨み参籠した、ということではない。


「沓(くつ)の音」は、練行衆が、法行中、差懸(さしかけ)という歯のない下駄を履いて出す甲高い音を指し、「氷の僧」については、冷え冷えとした寒さの中で、白の紙衣をまとい修法に打ち込む練行衆の姿や高鳴りする「沓の音」が、冷厳を極むものだとして「氷」を用いて表したもの、と受け取られる。


この「氷の僧」については、「籠りの僧」が正しいが芭蕉がこれを聞き違えて「氷の僧」とした、とする見方があって、蝶夢編「芭蕉翁発句集」(安永三年刊)には「水とりやこもりの僧の沓の音」の句が示されている。しかし、芭蕉真蹟本に「氷の僧」とあるので、蝶夢の書き誤りということになるのだろう。
_
野ざらし紀行 十二
京都へ、伏見西岸寺








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京に上りて、三井秋風が鳴滝の山家を訪ふ。 京に上り、鳴滝にある三井秋風の山荘を訪ねる。
  梅林 梅林
_梅白し昨日ふや鶴を盗れし 白梅が見事に咲いて、宋代の詩人林和靖の庵に居るようであるよ。しかし、それに付き物の鶴は、昨日にでも盗まれてしまったのだろうか。
_樫の木の花にかまはぬ姿かな 樫の木は、美しく咲き誇っている花々をよそに、この家の主に見習って、悠々と聳え立っているよ。
伏見西岸寺任口上人に逢て 伏見西岸寺の任口上人に逢って
_我が衣に伏見の桃の雫せよ 八十歳を迎えられましたが、益々お元気であられて、上人が、桃の花の雫のように垂られる有難い教えの一つ一つを、私の心に沁み込ませてください。 
[語 釈]
三井秋風
1646〜1717。秋風は俳号で、名は六右衛門時次。京都の富豪。編著に「打曇砥」がある。
梅白し昨日ふや鶴を盗れし
「白梅が見事に咲いているが、昨日盗まれたらしく鶴が見当たらない」というのだが、この「鶴」は、中国北宋の詩人林和靖(りんなせい。967〜1028)が愛した「鶴」に因むもの。林和靖は浙江省抗州の人で、西湖の孤山に庵を結んで隠棲した。故事「梅妻鶴子」は林和靖を言ったもので、林和靖は、梅を妻に、鶴をわが子に見立てて慈しみ、一生涯を独身で通したという。

本句は、京都鳴滝の三井秋風の山荘に長期滞在した折の作で、「白梅が見事で、まるで林和靖の庵にいるようです。林和靖といえば鶴ということになりますが、鶴が見当たらないのは、昨日にでも盗まれてしまったのですか」と詠んだ挨拶句。秋風は、これに恐縮し、「そのようなたいそうなものではありません。ただ、スギナに身をこすりつけるばかりの牛が二頭、馬が一頭いるだけの住まいです」という意味の脇を付けている。竹人著「芭蕉翁全傳」(宝暦十二年序)によれば、芭蕉は、当所に約半月間逗留したという。

  鳴滝秋風子之梅林に遊ぶ
 梅白し昨日ふや鶴を盗れし  桃青
  杉菜に身擦る牛二ツ馬一ツ 秋風
(真蹟懐紙)
樫の木の花にかまはぬ姿かな
これも、上の句と同じ秋風への挨拶句で、世事にとらわれず、悠々と過ごしている秋風を称えたもの。「樫の木は、美しく咲き誇る花々をよそにして、ご主人に見習い悠々と聳え立っていますね」の意。秋風は、本句に「家する土を運ぶ燕(つばくら<つばめ、つばくろ>)」の脇を付けて、芭蕉に謝した。

 樫の木の花にかまはぬ姿哉  桃青
  家する土を運ぶ燕     秋風
(真蹟懐紙)
伏見西岸寺任口上人
「伏見西岸寺(さいがんじ)」は、浄土真宗本願寺派の寺で正式には油懸山地蔵院西岸寺という。山号と院号の由来は、石の地蔵菩薩に油をかけてお参りするところにあり、これより「油懸地蔵」とも称する。本堂に、親鸞上人の自作と伝えられる草鞋懸立像を安置する。
「任口(宝誉)上人」は、西岸寺の三世住職で、松江重頼門下の俳人。1606〜1686。芭蕉が伏見に訪ねた翌年に、81歳の生涯を閉じた。若き日の蕪村が、宗鑑、守武、貞徳、貞室、梅翁、芭蕉などの錚々たる十四人の俳士を描いた「俳仙群会図」に、晩年、談林派の長老として慕われ、敬重された任口上人も一座している。
我が衣に伏見の桃の雫せよ
「伏見の桃」は、江戸時代、伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから、伏見が、「桃山」と呼ばれるほどの桃の名所となったことに因んでいる。「桃」は、芭蕉が訪ねた時期から言って「花」。「桃の雫」の意は、「上人が、桃の花の雫のように垂られる有難い教えの一つ一つ」。この時、上人、八十歳。本句は、上人への挨拶吟であると同時に励ましの吟。
_
野ざらし紀行 十三
大津、辛崎、水口








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  大津に至る道、山路を越えて 京都から大津へ至る、逢坂山越えの道を歩いて
_山路来て何やらゆかしすみれ草 どのくらい山道を歩いたかな。一休みと思って足もとを見ると、すみれ草が咲いている。ひっそりたたずむ姿に、つい心が重なって、どことなく懐(ゆか)しさを覚えてしまうことであるよ。 
  湖水の展望 湖水の展望
_辛崎の松は花より朧にて うす明かりが琵琶湖の水を照らしている。その中に、幽かに映る辛崎の松は、朧月夜の花よりも更に風情があっていいものだ。
  水口にて、二十年を経て故人に逢ふ 水口にて、二十年を経て旧友に逢う
_命二つの中に生たる桜哉 お互いに、今日のこの日まで、よく命長らえて生きてきたことよ。今が盛りと咲いている、この桜のように。
[語 釈]
大津に至る道、山路
逢坂山越えの道。逢坂山の山中に、平安京遷都後に「三関」の一つに数えられた逢坂関があった。
山路来て何やらゆかしすみれ草
芭蕉は、「野ざらし紀行」の旅の最終段階を迎えた三月二十七日、熱田の白鳥山法持寺に参詣し、この折に、芭蕉、叩端、桐葉を連衆とする三吟歌仙が催された。

法持寺は、天長年間(824〜834)弘法大師空海が熱田神宮に参詣した折、大和武尊を慕って小社を建て、自ら本尊延命地蔵菩薩を彫って祭ったのに始まる。文明期(1469〜1487)になって熱田・円通寺二世明谷義光和尚によって曹洞宗に再興され、熱田神宮大宮司千秋家代々の菩提所となった。また、桐葉の菩提寺でもある。

当日巻かれた歌仙により、「野ざらし紀行」に所収する本句の初案が、次の発句に見る句形であったことが窺われる。

  
何とはなしに何やら床し菫草 芭蕉
   編笠敷きて蛙聴居る    叩端
  田螺割る賤の童の暖かに   桐葉
   
公家に宿貸す竹の中道   芭蕉 (以下略)
  (三吟歌仙 「熱田三歌仙」)

法持寺の由緒書きに、「何とはなしに何やら床し菫草」の句に因む記事があり、これによれば、林桐葉の次女「佐与」が幼くして亡くなったことから、芭蕉は、佐与が元気だったころを思い出し、道端の菫(すみれ)草にその姿を重ねて、可憐だった佐与を懐かしんで詠句したものという。この話は、文献では散見しないが、法持寺に纏わる人々や地元の俳士の間で代々受け継がれてきたものと思われる。

このことから、「山路来て」の句は、もともと桐葉の娘を哀悼するものであったが、これを、「大津に至る道、山路を越え」る折に詠んだものとして、初句を「山路来て」に変え、道の端にひっそりと根を下ろすスミレに、つい己の生き様を重ね合わせ、「何やらゆかし」と詠懐する句に改案した、ということになるのだろう。

改案の時期については、芭蕉の貞亨二年五月十二日付千那宛書簡に「山路来て」の句形が見られるので、江戸に帰着して二十日ほどの間に、決定稿が上がったことになる。
  貴墨辱拝見、御無事之由珍重奉存候。其元滞留之内得閑語候而珍希申候。
  (あなたの手紙をかたじけなく拝見し、ご無事で何よりと存じます。御宅
    <又は大津>に逗留の間、めずらしく、ゆっくりお話をして過ごすことが
  できました。)
  一、愚句其元に而之句
    (愚句ですが、この句は、御宅<この「其元」は「大津」なら特に記
    す必要がないことから「千那亭」>からの眺めを詠んだものです。)
   辛崎の松は花より朧にて
    と御覚可下候。
    (といった句形にしましたのでご承知ください。)
   山路来て何やらゆかしすみれ草
   (以下省略)

その後、芭蕉は、俳人で歌人でもある師北村季吟の長子湖春から「菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧なりといへども、歌学なきの誤なり」(去来抄)と、本句を避難されている。これに対し去来は「山路に菫をよみたる証歌(証拠として取り上げる歌)多し。湖春は地下(ちげ。宮中に仕えない一般の人)の歌道者なり。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし」(同)と抗し、支考は、自著「葛の松原」(元禄五年刊)の中で、大江匡房の「箱根山薄むらさきのつぼすみれ二しほ三しほ誰か染めけむ」(堀河百首)を証歌として取り上げ、「山路に菫とつづけ申されしを、ある人おぼつかなしと難じけるは、有房卿(正しくは匡房)の『はこねやま薄むらさきのつぼすみれ』といへる歌を、不幸にして見ざりけむ人の心こそ、おぼつかなけれ」と抗している。
辛崎の松は花より朧にて
享保十年刊の千梅編「鎌倉海道」に、この句の初案にあたる「
辛崎の松や小町が身のおぼろ」の句が採録されている。本句は、大津に迎えてくれた千那に対する挨拶句。

  辛崎の松や小町が身のおぼろ 芭蕉
   山は桜をしほる春雨    千那
  (発句・脇。「鎌倉海道」)

上に掲げた千那宛書簡の「
辛崎の松は花より朧にて と御覚可下候」は、旅の折の挨拶句「辛崎の松や小町が身のおぼろ」を「辛崎の松は花より朧にて」に改案した上で世に送り出すことを、予め千那に知らせたもの。千那は、大津・堅田の本福寺第十一世住職で、尚白、青亜とともに「野ざらし紀行」の旅の間に芭蕉門に入った。

以上のことから、初案の句が本福寺で詠まれ、のちに本句に改案されたと考えるのが妥当と考えられるが、其角編「雑談集」(元禄四年刊行)所収の本句に「大津尚白亭にて」の前書があり、また、尚白編「忘梅」に「名にし、辛崎の松は花より、と聞えしも、此家にての発句にして、其短冊を珍蔵せり」と記されてある。

「辛崎の松」は歌枕で、室町時代に、比良の暮雪、堅田の落雁、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、石山の秋月、瀬田の夕照、矢橋の帰帆とともに「唐崎の夜雨」として「近江八景」に選ばれた。現在の松は三代目。芭蕉が見た二代目の松は、天正十九年に植え継がれてから百年ほど経過した樹勢で、その百五十年ばかり後に、歌川広重が、枝先を湖水に浸らすほどの大松を浮世絵に描き、更にその名を広めた。

芭蕉が、本福寺から琵琶湖の南方を眺めたとすると、「辛崎の松」は北方約十キロほどの彼方にあり、また、もう一つの近江八景「三井の晩鐘」として知られ、本句内の「花」や千那の句の「桜」の地と認められる三井寺観音堂まではそれ以上の距離があって、両者ともに視認することは到底できない。したがって、「辛崎の松は花より朧にて」の「辛崎の松」も「花」も、本福寺に向う途中の景を拠り所にした心象風景ということになる。

心象風景なら、時間は昼であっても夜であっても構わないが、対象の情景が「唐崎の夜雨」であり「朧」であることを考慮すると、芭蕉の心は夜にあったとみていいだろう。こうしたことを踏まえると、「うす明かりが琵琶湖の水を照らしている。その中に、幽かに映る辛崎の松は、朧月夜の花よりも更に風情があっていいものだ」ほどの意となる。
故人
旧友の意で、芭蕉と同じ伊賀上野出身の服部土芳のこと。1657〜1630。芭蕉は、東海道五十番目の宿、水口(みなくち)宿で、同郷の土芳と二十年ぶりに再会し、土芳は、この後に芭蕉の門人となった。

土芳の「芭蕉翁全伝」に「是は水口にて土芳に玉(賜)る句也。土芳此年は播磨に有て、帰る頃は、はや此里を出られ侍る。なほ跡をしたひ、水口越に京へ登るに、横田川にて思はず行逢ひ水口の駅に一夜昔を語し夜の事也。明けの日より中村柳軒と云医のもとに招れて又此の句を出し、二十年来の旧友二人挨拶したりと笑れ侍る。蓮花寺と云寺に折ふし伊賀の大仙寺の嶽淵あり。各昼夜四、五日談じて発句あり歌仙有。又多賀某と云老医、翁に旧き因有。もてはやし有。これよりなごやへ出られし也」とある。
命二つの中に生たる桜哉
許六と去来が元禄十、十一年に交わした書簡の集「俳諧問答」(天明五年刊)に、本句についての記述「是『命二つの』と字あまりなり、予ばせを庵にて借用の草枕(野ざらし紀行)にたしかにのノ字入あり、のノ字入て見れば夜の明たるが如し」がある。
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野ざらし紀行 十四
大顛和尚の訃報、熱田








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伊豆の国蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我が名を聞て、草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡を慕ひ来りければ、 伊豆の国、蛭が小島出の僧もまた、去年の秋から行脚していたのだが、わたしの名を聞いて、一緒に旅をさせてくださいと、尾張の国まで、跡を追ってきたので、
_いざともに穂麦喰はん草枕 穂麦を食べる覚悟ができていれば大丈夫です。さあ、一緒に旅をつづけましょう。
此僧予に告げていはく、円覚寺の大顛和尚今年睦月の初化し玉ふよし。まことや夢の心地せらるるに、先道より其角が許へ申遣しける この僧がわたしに言うには、円覚寺の大顛和尚が今年の正月の初めに、遷化せられたとのこと。ほんとうに、夢の中のことと思われたが、ともあれ、旅先から其角のもとへ手紙を遣わした。
_梅恋ひて卯花拝む涙哉 大顛和尚と和尚が愛した梅の花を恋い慕い、わたしは今、折節の卯の花を眺めながら、涙するばかりである。
  杜国に贈る 杜国に贈る
_白芥子に羽もぐ蝶の形見哉 当地を離れ、貴殿と会えなくなるのは、羽を休めていた白芥子の花に、蝶がその羽をもぎ取って、形見に残して行くほどの辛さがありますよ。
二たび桐葉子がもとに有て、今や東に下らんとするに、 ふたたび桐葉のもとに留まり、いよいよ関東に下ろうとするときに、
_牡丹蘂深く分出る蜂の名残哉 たいへんお世話になりました。私の今の心のうちは、牡丹の花びらの奥でたっぷりと蜜を押しいただき、そこから名残おしげに飛び立っていく蜂とおなじです。
【参考資料】 江戸へ旅立つ前の芭蕉の動向
三月二十六日
熱田で、木因宛書簡を執筆。本書簡に「本統寺様に三日逗留」とあることから、水口から熱田に至る間に、桑名本統寺に三日間滞在したことが分る。本書簡を熱田の何処で執筆したかは不明。また同書簡に、「尾張・熱田にて五、三日休息。何とぞ独(ひとり)木曽路の御無事に御坐候哉」とある。
三月二十七日
熱田の白鳥山法持寺で、芭蕉、叩端、桐葉を連衆とする三吟歌仙あり。
  
何とはなしに何やら床し菫草 芭蕉
   編笠敷きて蛙聴居る    叩端
  田螺割る賤の童の暖かに   桐葉
   
公家に宿貸す竹の中道   芭蕉 (以下略)
  (三吟歌仙 「熱田三歌仙」)


熱田で、桐葉、芭蕉、叩端、閑水、東藤、工山、桂楫を連衆とする七吟歌仙あり。
  つくづくと榎の花の袖に散る 桐葉
   
独り茶を摘む藪の一家   芭蕉
  日影山雉子の雛を追はへ来て 叩端
   清水をすくふ馬柄杓に月  閑水 (以下略)
  (七吟歌仙 「熱田三歌仙」)
四月四日
鳴海の知足を訪ね(桐葉・叩端、同道)、一宿(知足斎々日記)。芭蕉、知足、桐葉、叩端、ぼく言、自笑、如風、安信、重辰を連衆とする九吟二十四句あり。
  
杜若我に発句の思ひあり   芭蕉
   麦穂波寄るうるほひの末  知足
  二つして笠する烏夕暮れて  桐葉
   帰さに袖を漏れし名所記  叩端 (以下略)
  (九吟二十四句 「幽蘭集」)
四月五日
熱田に戻り、其角宛の書簡を執筆。
「知足斎々日記」の当日条に「桃青宮へ今朝御帰り」とある。
四月九日
鳴海の知足を訪ねて一宿。
「知足斎々日記」の当日条に「江戸深川本番所森田惣左衛門殿御屋敷松尾桃青芭蕉翁一宿、如意寺にて俳諧歌仙有」とある。


    芭蕉行脚のころ
  
夏草よ東路まとへ五三日   知足
   笠もてはやす宿の卯の雪  芭蕉
  (発句・脇 「千鳥掛」)
四月十日
鳴海の知足亭から江戸へ発つ。
「知足斎々日記」の当日条に「桃青丈江戸へ御下り」とある。
[語 釈]
蛭が小島
源頼朝が、島流しで、十四歳の時から約二十年間過ごしたところ。静岡県田方郡韮山町。
円覚寺の大顛(だいてん)和尚
鎌倉円覚寺第百六十四世。其角参禅の師。俳号、幻吁。
其角が許へ申遣しける
芭蕉が、其角に遣わした書簡内容は、次の通り。

草枕月をかさねて、露命恙もなく、今ほど帰庵に趣き、尾陽熱田に足を休る間、ある人我に告て、円覚寺大顛和尚、ことし睦月のはじめ、月まだほの暗きほど、梅の匂ひに和して遷化したまふよし、こまやかに聞え侍る。旅といひ、無常といひ、悲しさいふかぎりなく、折節の便りにまかせ、先一翰投
机右而巳(先づ一翰机右に投ずるのみ)。
  
梅恋て卯花拝む涙かな はせを
   四月五日
 其角雅生
杜国
杜国は、坪井氏で名古屋の人。富裕な米商に生まる。貞享元年、名古屋に於ける「冬の日」五歌仙に一座。元禄三年三月没す。享年三十余歳。

貞享二年、杜国は空米売買に連座して家財没収のうえ所払となって三河の畠村に逼塞し、のち保美に隠棲した。芭蕉は、貞享四年の「笈の小文」の旅次、杜国と伊良古崎で再会し、次の句を吟じている。本句は、芭蕉が杜国をしばしば夢に見ていたが、その夢が現実となった喜びを、「いらこ鷹」に託して表現したもの。

   杜国が不幸を伊良古崎にたづねて、鷹のこゑを折ふし聞て、    
  夢よりも現の鷹ぞ頼母しき
  (鵲尾冠)

杜国に「
白芥子に羽もぐ蝶の形見哉」の句を贈ったのが、名古屋で面談の上か否かは不明。
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野ざらし紀行 十五
甲斐の山中、旅の終り








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甲斐の山中に立よりて 甲斐の山中に立ち寄って
_行駒の麦に慰むやどり哉 旅の助けとなってくれている馬を休ませてあげよう。馬が、麦の穂をいただいてくつろいでいる姿を見ていると、わたしまで、疲れが癒されるようであるよ。
卯月の末、庵に旅の疲れをはらすほどに、 四月の末、芭蕉庵に帰って、旅の疲れを晴らすうちに、
_夏衣いまだ虱を取り尽さず 秋風を聞きながらの旅立ちであったが、こうして、夏衣をまとい、無事、草庵に戻ることができたよ。虱は、しばらく取り尽くさずにおいて、旅寝の名残を楽しむことにしよう。
[語 釈]
甲斐の山中
芭蕉は、天和二年十二月に芭蕉庵を焼失したことから、翌年の夏、一時甲斐の谷村に移り、その折も、甲斐名産の「駒」の句を詠んでいる。
  
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉
  (水の友)
   甲斐の郡内といふ処に到る途中の苦吟
  
馬ぼくぼく我を絵に見る心かな
  (俳諧一葉集)
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野ざらし紀行 資料
芭蕉発句、読み方、季語









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1 野ざらしを心に風のしむ身かな  のざらしを/こころにかぜの/しむみかな 身にしむ
2 秋十年却て江戸を指故郷 あきととせ/かへつてえどを/さすこきよう
3 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き きりしぐれ/ふじをみぬひぞ/おもしろき 霧しぐれ
4 猿を聞人捨子に秋の風いかに さるをきくひと/すてごにあきの/かぜいかに 秋の風
5 道のべの木槿は馬に食はれけり みちのべの/むくげはうまに/くはれけり 木槿
6 馬に寝て残夢月遠し茶の煙 うまにねて/ざんむつきとをし/ちやのけぶり
7 三十日月なし千年の杉を抱あらし みそかつきなし/ちとせのすぎを/だくあらし 三十日月
8 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ いもあらふおんな/さいぎょうならば/うたよまむ
9 蘭の香や蝶の翅に薫物す らんのかや/てふのつばさに/たきものす
10 蔦植て竹四五本のあらし哉 つたうゑて/たけしごほんの/あらしかな
11 手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜 てにとらば/きえんなみだぞあつき/あきのしも 秋の霜
12 綿弓や琵琶に慰む竹の奥 わたゆみや/びはになぐさむ/たけのおく 綿弓
13 僧朝顔幾死返る法の松 そうあさがほ/いくしにかへる/のりのまつ 朝顔
14 碪打て我に聞かせよや坊が妻 きぬたうちて/われにきかせよや/ぼうがつま 碪打つ
15 露とくとく試みに浮世すすがばや つゆとくとく/こころみにうきよ/すすがばや
16 御廟年経て忍は何をしのぶ草 ごべうとしへて/しのぶはなにを/しのぶぐさ しのぶ草
17 義朝の心に似たり秋の風 よしともの/こころににたり/あきのかぜ 秋の風
18 秋風や藪も畠も不破の関 あきかぜや/やぶもはたけも/ふはのせき 秋風
19 死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 しにもせぬ/たびねのはてよ/あきのくれ 秋の暮
20 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす ふゆぼたん/ちどりよゆきの/ほととぎす 冬牡丹、千鳥、雪
21 明ぼのや白魚白きこと一寸 あけぼのや/しらうをしろき/こといつすん 白魚一寸
22 しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉 しのぶさへ/かれてもちかふ/やどりかな 枯忍
23 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 きょうくこがらしの/みはちくさいに/にたるかな 木枯
24 草枕犬も時雨るか夜の声 くさまくら/いぬもしぐるるか/よるのこゑ 時雨る
25 市人よ此笠売らう雪の傘 いちびとよ/このかさうらう/ゆきのかさ
26 馬をさへながむる雪の朝哉 うまをさへ/ながむるゆきの/あしたかな
27 海暮れて鴨の声ほのかに白し うみくれて/かものこゑ/ほのかにしろし
28 年暮ぬ笠きて草鞋はきながら としくれぬ/かさきてわらぢ/はきながら 年暮る
29 誰が聟ぞ歯朶に餅負ふ丑の年 たがむこぞ/しだにもちおふ/うしのとし 歯朶 新年
30 春なれや名もなき山の薄霞 はるなれや/なもなきやまの/うすがすみ
31 水取りや氷の僧の沓の音 みづとりや/こほりのそうの/くつのおと 水取り
32 梅白し昨日ふや鶴を盗れし うめしろし/きのふやつるを/ぬすまれし
33 樫の木の花にかまはぬ姿かな かしのきの/はなにかまはぬ/すがたかな
34 我が衣に伏見の桃の雫せよ わがきぬに/ふしみのももの/しづくせよ
35 山路来て何やらゆかしすみれ草 やまぢきて/なにやらゆかし/すみれぐさ すみれ草
36 辛崎の松は花より朧にて からさきの/まつははなより/おぼろにて 花、朧
37 命二つの中に生たる桜哉 いのちふたつの/なかにいきたる/さくらかな
38 いざともに穂麦喰はん草枕 いざともに/ほむぎくらはん/くさまくら 穂麦
39 梅恋ひて卯花拝む涙哉 うめこひて/うのはなおがむ/なみだかな 卯花
40 白芥子に羽もぐ蝶の形見哉 しらげしに/はねもぐてふの/かたみかな 白芥子
41 牡丹蘂深く分出る蜂の名残哉 ぼたんしべふかく/わけいづるはちの/なごりかな 牡丹
42 行駒の麦に慰むやどり哉 ゆくこまの/むぎになぐさむ/やどりかな
43 夏衣いまだ虱を取り尽さず なつごろも/いまだしらみを/とりつくさず 夏衣
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野ざらし紀行 資料 行程地図1、2
1.関東・東海 [貞享元年]








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2.中部・近畿 [貞享元年]
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野ざらし紀行 資料 行程地図3
3.中部・近畿 [貞享二年]
 







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「野ざらし紀行」の底本

掲載している「野ざらし紀行」の底本は、「波静本甲子吟行」です。

章段は、LAP Edc. SOFTが任意に本文を区切って設けたものです。

句読点や章段ごとの見出しは、LAP Edc. SOFTが
任意に付したもので、本文に存在するものではありません。
 

 
参考文献

定本芭蕉大成(編著:尾形仂ほか/三省堂/昭和43年)
新編芭蕉大成(編著:尾形仂ほか/三省堂/平成12年)
芭蕉句選年考(編著:藤村作・笹川種郎・尾上八郎/博文館/昭和4年)
芭蕉全発句 上下巻(編著:山本健吉/河出書房新社/昭和49年)
芭蕉 その鑑賞と批評(編著:山本健吉/新潮社/昭和54年)
芭蕉年譜大成(編著:今栄蔵/角川書店/平成6年)
野ざらし紀行評釈(編著:尾形仂/角川書店/平成10年)
三冊子総釈(編著:南信一/風間書房/昭和39年)
芭蕉文集 去来抄(編著:井本農一・村松友次・栗山理一/小学館/昭和60年)
芭蕉を尋ねて(編著:荻原井泉水/春秋社/昭和3年)
近江路の芭蕉(編著:山村金三郎/東京四季出版/平成2年)
芭蕉全傳(編著:山崎藤吉/建設社/昭和16年)
芭蕉俳句集(編著:中村俊定/岩波書店/平成7年)
<以上、順不同>



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