松尾芭蕉の旅 野ざらし紀行
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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野ざらし紀行
吉野山、西行の面影を慕って




独吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、煙雨谷を埋んで、山賤(やまがつ)の家処々に小さく、西に木を伐音東に響き、院々の鐘の声は心の底にこたふ。 独りで吉野の奥に、道に迷いながら入っていくと、まことに山深く、白雲が峰に重なり、霧雨が谷をすきまなく覆い、木こりの家がところどころに小さく見え、谷の西側で木を伐る音が、東側に反響し、院々で打ち鳴らす鐘の音は、心の底に深く感じられる。
昔よりこの山に入て世を忘たる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土(もろこし)の廬山といはむも、またむべならずや。 昔から、この山に入り、俗世間を離れた人の多くは詩を作り、歌を詠んで心を専らにし、世事を忘れようとした。いやまさに、吉野を唐土(中国)の廬山と言いたくなるのも、もっともなことではないだろうか。
  ある坊[資料]に一夜を借りて ある宿坊に一夜を借りて
_碪打て我に聞かせよや坊が妻 宿坊の妻よ、秋の夜のしじまに、哀愁を帯びた、かの碪(きぬた。砧)を打つ音を響かせてはくれまいか。
西上人の草の庵の跡[資料]は、奥の院より右の方二町計分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。 西行上人の草の庵の跡は、奥の院から右の方に二町(約二百メートル)ばかり分け入ったところに、柴刈りの人が通る道だけが、かろうじて有り、険しい谷を隔てて聳える奥山の様子は、大変尊いものである。
とくとくの清水[資料]は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。 かのとくとくの清水は、昔と変わらないと見えて、今もとくとくと雫が落ちている。
_露とくとく試みに浮世すすがばや とくとくの泉が、昔と変わらずに雫を落とし続けている。ためしに、この清水で浮世のけがれをすすいでみたいものであるよ。
若これ扶桑に伯夷あらば、必口をすすがん。もし是許由に告ば、耳を洗はむ。 もし、わが国に伯夷がいたら、清い水なのだから、必ずや口に含みすすいだろうし、許由に教えたなら、きっとこの水で耳を洗い清めたことだろう。
山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々見残して、先後醍醐帝御廟を拝む。 山を登り、坂を下ると、既に秋の日は傾いてしまっている。所々の名所旧跡を見残したのだが、何はともあれ、後醍醐天皇の墓を拝むことにする。
_御廟年経て忍は何をしのぶ草 吉野の山中で、風雨を忍びながら、三百五十年の歳月を暮らした後醍醐天皇のお墓の、その傍らに、ほどよくしのぶ草が育っているよ。
[語 釈]
いでや
この「いで」は、感動を表して「いやもう、実に」。「や」は強意。
廬山
ろざん。中国江西省の北部にある。景勝かつ仏教霊跡の地。中国山水詩の原点とも言うべき名山で、数々の名僧文人が幽栖した山として知られる。
むべ
宜、諾。「うべ」とも。もっともなこと。
碪打て
きぬたうちて。「碪(砧)を打つ」は、植物繊維で織った布を柔らかくするために、布を、砧と称する木製の台(古くは石製)の上にのせて木槌で打つ作業のことで、これを「衣を打つ」、「擣衣(とうい)」ともいう。別には、絹織の布を打って光沢のある衣に仕立てる作業や、洗濯後の乾燥でこわばった布を打って柔らかくする作業も同様に言う。


特に、夜のしじまに哀愁の帯びた音が響く「砧(碪)打ち」の音は、李白の「子夜呉歌」中の「万戸打衣声(万戸衣ヲ打ツノ声)」の一節や、参議雅経の「み吉野の山の秋風さ夜更けてふるさと寒く衣打つなり」(百人一首、新古今和歌集)に見るように、古くから様々な詩歌に詠み込まれている。
伯夷
周の武王が殷を討つという不義を諌め、それが容れられなかったことから周の粟を食するのを潔しとせず、首陽山(中国陝西省の山)に隠れて蕨で飢えをしのいだが、終には餓死したとされる高士。
許由
中国の伝説上の帝、尭から聞かされた皇帝の座を譲るという話に、不本意なことを聞いて汚れたとして、耳を潁川(えんせん。中国河南省の川)で水を洗ったとされる。節義を曲げなかった高潔の士として知られる。
後醍醐帝御廟
吉野山にある山後醍醐天皇(鎌倉末期・南北朝時代)の墓。後醍醐天皇の即位は1318年。1331年、倒幕の計画が漏れ隠岐に流されるが1333年に脱出。同年に幕府が滅び、京都に帰還。同じ年、尊氏離反で吉野(南朝)に移り尊氏(北朝)と対立。尊氏が征夷大将軍になった翌年の1339年に死去。五十二歳。

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