松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道
室の八島の章段










室の八嶋に詣す。 室の八島に参詣する。
同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。 同行の曽良が言うには、「ここの祭神は木花咲耶姫の神と申して富士山と同じ神です。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。 咲耶姫は無戸室(うつむろ。四方を塗りふさいで、出入り口をなくした室)に入って火を放ち、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと身の潔白を誓い、燃え盛る炎の中、無事火々出見のみことをお生みになったことから、ここを室の八島と申します。
煙を読習し侍もこの謂也」。 また、室の八島の歌に煙を詠む習わしがあるのもこの謂れからです」と。
将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。 それからまた、ここでは「このしろ」という魚を食することを禁じている。こうした縁起の趣旨が世に伝わることもあるようである。
 
【参考資料】 「義経記」に見る源義経の旅のルート
下野から平泉まで/「伊勢三郎初めて義経の臣下になる事」からの抜粋
下野の室の八島を余所(よそ)に見て、宇都宮の大明神(二荒山神社)を伏し拝み、行方(ゆきがた)の原にさしかゝり、実方の中将の、あたりの野辺の白真弓、おしは(押張)りすびき(素引)し肩にかけ、なれぬ程は何れをそれん、馴れての後はそるぞくやしきと詠めけん、あたりの野辺を見て過ぎ、浅香の沼の菖蒲草、影さへ見ゆる浅香山、まづまづなれにし信夫の里のすり衣など申しける名所々々を見給ひて、伊達郡あつかし(阿津賀志)の中山越え給ひて、まだ曙の事なるに、道行き通るを聞き給ひて、今追ひついて物とはん、この山は当国の名山にてあるなるにとて、追ひついて見給へば、御先に立ちたる吉次にてぞありける。商人の習ひにて、爰かしこにて日を送りける程に、九日先に立ち参らせたるが、今追ひつき給ひける。吉次、御曹司を見付け参らせて、よに嬉しくぞ思ひける。御曹司も御覧じて、嬉しくぞ思召さる。
吉次「諸陵(みささぎ)が事は如何に」と申しければ、
義経「頼まれず候ふ間、家に火をかけて散々に焼き払ひ、是まで来たるなり。」
と仰せられければ、吉次、今の心地して恐しくぞ思ひける。
吉次「御供の人は如何なる人ぞ。」と申せば、
義経「上野の足柄の者ぞ。」と仰せられける。
吉次「今は御供も入るまじ。君御著き候うて後尋ねて下り給へ。跡に妻子の歎き給ふべきも痛はしくこそ候へ。自然の事候はん時こそ御供候はめ。」とて、やうやうに止めければ、伊勢の三郎をば上野へぞかへされける。それよりして治承四年を待たれけるこそ久しけれ。かくて夜を日についで下り給ふ程に、武隈の松、阿武隈川と申す名所々々を過ぎて、宮木野(宮城野)の原、躑躅の岡を詠めて、千賀の鹽竈へ詣で給ふ。あたりの松、籬の島を見て、見仏上人の旧跡松島を拝ませ給ひて、紫の大明神(松島・高城)の御前にぞ参り給ひ、御祈誓申させ給ひて、あねはの松(姉歯の松)を打ち眺め、栗原にもつき給ふ。吉次は栗原の別当の坊に入れ奉りて、我が身は平泉へぞ下りける。
   
[ 旅のあらすじ ]
春日部宿で一泊した芭蕉一行は、三月二十八日(新暦五月十七日)、途中雨に降られながら、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木の各宿を通行し、この日の宿泊地、間々田宿に到着した。間々田は、江戸と日光のほぼ中間に位置する十一番目の宿駅だった。宿泊先については口碑も聞こえず不明である。

三月二十九日(新暦五月十八日)、朝八時半ごろ間々田を立って小山の宿駅に至ると、一行は、喜沢の追分から左へ曲がり、日光への脇街道「壬生通」に入った。

姿川を渡った後、飯塚の宿はずれで壬生道から思川の川べりを行く道に逸れ、黒川(旧小倉川)との合流地点あたりで思川を渡る。「随行日記」にある「ソウシヤガシ(惣社河岸)」はこの近くにあった船着場で、この北西方向500mほどのところに、「おくのほそ道」の本文に第一番目の歌枕として登場する「室の八島」の森が見える。芭蕉は、当所にて、日光の章段の「あらたうと」句の草案にあたる「あなたふと木の下暗も日の光」などの句を詠み遺している。


一 小田(小山のこと)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。
一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカヽリ、室ノ八嶋ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。(「随行日記」)


室の八島から壬生道に戻った一行は、途中、源義経が奥州に下る際に同行したと伝えられる金売吉次の墓に立ち寄ったのち、更に北上し、日光例幣使街道と合流する楡木の宿駅に到った[
資料]。芭蕉一行は、楡木の追分から例幣使の道を7kmばかり北へ歩き鹿沼宿に到着。これにてようやく当日の旅程を果たし、旅荷を下した。宿泊先は、小鼓山(光太寺山)の中腹に佇む光太寺だったと伝えられ、境内に芭蕉の破笠を埋めたという芭蕉塚がある。
 
 
 





室の八島

[語 釈]

室の八嶋
歌枕。栃木県惣社町の大神(おおみわ)神社[資料]。社伝によれば、大神神社は倭大物主櫛玉命を主祭神とし、木花咲耶姫命、瓊々杵命、大山祇命、彦火々出見命を配神とする神社で、創建は崇神天皇のころとされる。崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国平定のときに、大和国三輪山に鎮座する大和国一之宮三輪明神・大神神社の分霊を奉斎し、民の平安と戦勝を祈願したのが始まりと伝えられている。

大神神社は古来「室の八島」ともいわれ、境内の、水を張った池の中に石橋や朱塗りの橋が架かった島が8つあり、各島に筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒山神社、香取神社が鎮座している。

境内の南西部に曽良の「俳諧書留」に書かれた「いと遊に結びつきたるけふりかな」の芭蕉句碑がある。

  室八島
糸遊に結つきたる煙哉  翁  
あなたふと木の下暗も日の光
入かゝる日も糸遊の名残哉
      (程々に春の暮れ)
鐘つかぬ里は何をか春の暮
入逢の鐘もきこえす春の暮
(「俳諧書留」)
同行曽良
芭蕉は、日光の章段で自らを「桑門の乞食順礼ごときの人」と称している。「同行(どうぎょう)曽良」は、行脚僧としての芭蕉の道連れ、曽良。

「曽良[
資料]」は、河合曽良で、深川芭蕉庵の近隣に居を構えた蕉門俳人。「おくのほそ道」の旅の二年前にも、宗波とともに鹿島への観月の旅に随伴している。元禄七年(1694)五月、伊賀上野に帰郷する芭蕉を箱根まで見送り、これが芭蕉との最後の旅となった。
木の花さくや姫
木花咲耶姫(このはなさくやひめ。木花之佐久夜毘売命)[資料]。神話で、大山祇命のむすめ、瓊々杵命の后(きさき)。富士山本宮浅間大社の主祭神。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひし
木花咲耶姫が懐妊の時、瓊々杵命に貞節を疑われたことから、その証を立てるため炎の中の無戸室にて子を出産したとする神話。「無戸室(うつむろ)」は、四方を壁で塗り、出入りをできなくした室。
煙を読習(よみならわ)し侍(はべる)
古来、室の八島を歌に詠むとき、煙に因んだ歌を作る習わしがあることを述べたもの。

以下は、親密な交際があったと伝えられる藤原実方と清少納言が室の八島を詠んだ歌。大神神社の社殿の傍らに、この二首を刻む歌碑[
資料]がある。

いかでかは思いありとは知らすべき
 室の八嶋の煙ならでは   藤原実方
志もつけや室の八嶋に立煙
 思ひありとも今こそは志れ 清少納言
このしろといふ魚を禁ず[資料]
「このしろ」はニシン科の魚で「コハダ」とも。

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「おくのほそ道」のテキストについて


本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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