松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道
黒羽の章段










黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。 黒羽の館代である浄坊寺何がしという人のところを訪ねた。
思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、 思いがけない私たちの訪問に主人は喜び、日夜語りつづけた。その弟の桃翠という人が、まめに来てくれたり、自分の家にも招き、親戚の家にも招待された。
日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ このようにして日が経つなかで、あるひ、郊外に散歩に出かけ、犬追物(いぬおうもの)の跡を一とおり見たあとで、那須の篠原に分け入って玉藻の前の古い墓を訪ねた。
それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。 それから金丸八幡宮に詣でる。那須与一が、平家方がかざした扇の的を射ようとしたとき、「別しては我国氏神正八まん」と誓って祈願したのもこの神社であると聞くと、ことさら、ありがたみを強く感じたのだった。
暮れば桃翠宅に帰る。
日が暮れたので桃翠宅に帰った。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す 黒羽には修験光明寺という名の寺がある。そこにまねかれて、高足駄をはいた役行者の像を祭る行者堂を参拝した。
_夏山に足駄を拝む首途哉 みちのくへの長途の旅を前にして、北方はるかに連なる奥羽の山並をうかがいながら、役行者と高足駄に旅の無事と健脚を祈って手を合わせたのである。
   
[ 旅のあらすじ ]
四月三日(新暦五月二十一日)、天気快晴。約八里半にも及ぶ原野の旅を憂慮してか、この日は通常より一時間ほど早い七時半ごろに宿を出立し、一路黒羽を目指した。黒羽到着後の動向を窺えば、まず黒羽藩城代家老・浄法寺桃雪への挨拶を済ませ、その後、来た道を引き返し、弟の鹿子畑翠桃を訪ねたようである。
一 同三日
快晴。辰上尅玉入(玉生)ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。
(「随行日記」)


黒羽滞在は、この日から
四月十六日(新暦六月三日)まで十四日間に及び、一所の停留日数としては「おくのほそ道」の旅で黒羽が最多を数える。宿泊先は、八泊した桃雪宅と余瀬の翠桃宅だった。「随行日記」から、この間、雨の日が少なくとも六日あったことが知られ、あいにく天候には恵まれなかったが、それでも、土地の人々と連句を巻き、雨の合間を縫って名所・旧跡めぐりを楽しむなど、序盤の旅の疲労を癒すに充分な日々を過ごした。

本文では、逍遥の次第が、犬追物跡・玉藻稲荷(玉藻の前の古墳)、金丸八幡宮、修験光明寺、雲巌寺となっているが、「随行日記」により、実際は、雲巌寺(
五日)、修験光明寺(九日)、犬追物跡・玉藻稲荷(十二日)、金丸八幡宮(十三日)の順序であったことが分っている。
また、黒羽滞在中、翠桃宅で七吟歌仙「秣おふ」[資料]が巻かれている。連衆は、芭蕉、桃雪(「秋鴉」の号で連座)、翠桃、曽良、(津久井)翅輪、桃里、二寸。興行日は明らかでないが、歌仙に連座した桃雪が(手料理の重箱を持参し)翠桃宅に終日滞在した四月十四日(新暦六月一日)が強く見込まれる。
 
 
 





黒羽

[語 釈]

黒羽の館代浄坊寺何がし
「黒羽の館代」は、黒羽藩の城代家老(留守居役)。「浄坊寺何がし」は、「浄法寺」高勝(通称図書、俳号桃雪、秋鴉)[資料]のこと。もと鹿子畑姓だったが、高勝が、母の兄、黒羽藩城代・浄法寺茂明に家督を譲られたことで浄法寺姓となった。当時二十九歳。

以下は、芭蕉が桃雪および桃雪邸の風致について叙した句文「秋鴉主人の佳景に対す」。

  秋鴉主人の佳景に対す
 山も庭も動き入るゝや夏座敷
浄法寺図書何かしは、那須の郡黒羽のみたち(御館)をものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。地は山の頂にさゝへて、亭は東南の向かひて立り。奇峰乱山かたちを争ひ、一髪寸碧絵に描きたるやうになん。水の音・鳥の声、松・杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の功の大なる事、また楽しからずや。
(「俳諧書留」)
桃翠
実際は翠桃[資料]。余瀬の人。鹿子畑高明の次男で豊明。桃雪の弟。当時二十八歳。
日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、
那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ

芭蕉は黒羽逗留中、桃雪宅に八泊、翠桃宅に五泊し、その間、当地の名所・旧跡をいくつか訪ね歩いている。十四日間の足跡について、詳しくは[資料]を参照

「日をふる」の「ふる」は「経る」で、「日とひ」は、一日、ある日。

「玉藻の前」は、絶世の美女に姿を変えて中国、インド、日本の帝に仕え悪事を尽したという伝説の妖狐(九尾の狐)で、謡曲「殺生石」でつとに知られる。

「那須の篠原」は大田原市の篠原地区で、当地に玉藻の前の神霊を祭る玉藻稲荷神社[
資料]がある。その「古墳」(狐塚)は、神社の1kmほど北東にあるが、塚は原形をとどめず、塚跡の標柱が残るのみ。

「犬追物」は、囲いのある馬場に放した犬を馬上から射つ、弓矢の訓練のこと。芭蕉が目にした蜂巣地区の「犬追物跡」は、狐に化けて那須野に隠れた玉藻の前を退治するため、弓術を磨いたと伝えられる所の跡地[
資料]。
八幡宮
大田原市南金丸の那須神社[資料]。起源は、第十六代仁徳天皇の五世紀前半頃と伝えられる。天照大神、大和武尊、春日大神を祭ったのにはじまるとされ、のち坂上田村麻呂が東征のとき、応神天皇を勧請して金丸八幡宮と号し、戦勝を祈願したという。明治六年(1873)、那須神社と改称されたが、正式には那須総社金丸八幡宮那須神社と称する。
与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひし
源平・屋島の戦において、那須与一が、平家方に挑まれ扇の的を射るときに「南無八幡大菩薩(金丸八幡)、別しては我が国の明神、・・・」と心に念じて願いを果たしたという「平家物語」や「源平盛衰記」の話に触れたもの。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す
「修験光明寺」は、文治二年(1186)に那須与一が阿弥陀仏を勧請して建立したが、後に廃れ、永正年間(1504-1521)津田源弘により修験堂として再興された。明治維新の際に廃絶され、今は、跡形もないほどに荒廃している。

「行者堂」は、役行者を祭った光明寺の御堂。

芭蕉は、四月九日、光明寺に招かれ昼から午後八時頃まで滞在した。当時の住職は第七代権大僧都津田源光で、その妻は浄法寺桃雪の妹。

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「おくのほそ道」のテキストについて


本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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