松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道 十三
須賀川の章段










とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る そうこうして白河の関を越えていくうちに阿武隈川を渡った。
左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる 左手には会津の磐梯山が高くそびえ、右手には岩城、相馬、三春の地方が広がっており、振り返ってみると、この土地と、常陸の国や下野の国とを区切るように山々が連なっている。
かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず かげ沼というところを通ったが、今日は空が曇っていて、水面には物影が映っていなかった。
すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる 須賀川の宿場に着いてから等窮というものを訪ねて、ここで、四、五日引き留められる。
先白河の関いかにこえつるやと問。 先ず最初に、「白河の関では、どんな句を詠んで越えられましたか」と聞かれた。
長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず そこで、「長い旅の苦労のために心身ともに疲れ、その上、すばらしい風景に心をうばわれ、むかしのことを考えると懐かしさに堪えかねて、いい句を案ずることができませんでした。
_風流の初やおくの田植うた
白河の関を越えると、歌いながら田植えをするという、実に趣きのある光景が目にとまった。これは、旅に出て最初の風流な味わいであることよ。
無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ しかしながら、何の句も詠まずに通り過ぎることもできず、『風流の初やおくの田植うた』の句を作りましたよ」と語ると、この句を発句にして、脇句、第三句とつづけて三巻の連句ができあがった。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。 この宿の傍らに、大きな栗の木陰を借りて、俗世間を避けるように暮らしている僧がいる。
橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。 西行法師が「橡ひろう」と詠んだ深山も、こんなふうであったろうかと思うほどに閑静なたたずまいであったので、つぎのように書き付けた。
其詞、栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。 その言葉は、栗という字は西の木と書くことから、西方浄土にゆかりがあるといって、行基菩薩は、一生杖にも柱にもこの木をお使いになられたそうである。
_世の人の見付ぬ花や軒の栗 世間を避けるようにひっそりと暮らしている僧がおり、その住まいの軒先には、栗の花が人目につかず咲いている。いかにも奥ゆかしいことだ。
   
[ 旅のあらすじ ]

四月二十一日(新暦六月八日)関山を下って連歌師宗祇の旧跡「宗祇戻し」を見物後、白河城下に入った芭蕉一行は、再び奥州街道に戻り、白河宿の出口手前で阿武隈川を渡った。本文の「とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る」はこれに当る。芭蕉の旅から五十余年後に描かれた「奥州道中 増補行程記」を見ると、阿武隈川に橋が架けられ、「橋長五十間(約90m)、川原百間(180m)。名所の川也」と記されている。この先の矢吹宿への到着は、午後三時半ごろだった。当夜、此処の旅籠に一宿した。

四月二十二日(新暦六月九日)、矢吹から、蜃気楼現象で知られた「かげ沼」の地を経由し、須賀川本町の相楽等躬宅に到着した。当夜、芭蕉、等躬、曽良の三吟にて「風流の初やおくの田植うた」を発句とする歌仙が巻かれた。

風流の初やおくの田植歌    芭蕉
覆盆子を折て我まうけ草    等躬
(歌仙「風流の」の発句と脇)


翌々日の
四月二十四日(新暦六月十一日)、今度は可伸庵にて俳席が設けられ、祐碩(吉田祐碩。等雲)による蕎麦切りの振る舞いを受けた後、芭蕉、栗斎(可伸)、等躬、曽良、等雲、須竿、素蘭を連衆とする七吟歌仙が巻かれている。

かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗 芭蕉
まれに蛍のとまる露艸     栗斎
(歌仙「かくれがや」の発句と脇)


小雨模様の四月二十六日(新暦六月十三日)、芭蕉はこの日、江戸の杉風に差し向けて筆を執り、これまでの旅の次第や近況などを認めた[資料]。

(前略) 白川ノ関、廿一日に越申候。白川より六里、須加川と申処に、作憚(相楽等躬)と申作者、拙者万句之節、発句など致候仁に而、伊勢町山口佐兵衛方之客に而御坐候、是を尋候而、今日廿六日まで居申候。大かた明廿七日、又発足可
致候。
(「芭蕉筆杉風宛書簡」)


芭蕉は、須賀川出立の
四月二十九日(新暦六月十六日)まで、等躬と旧交を温めたほか、土地の俳人との交流や習俗の見聞、十念寺・諏訪神社(神炊館神社)・芹沢の滝への逍遥などに日数を重ね、須賀川に八日間の足跡を残した。
 
 
 




13
須賀川

[語 釈]

あぶくま川を渡る
「阿武隈川」は、福島県の旭岳(1835m)を源とする全長239kmの川。歌枕。福島・宮城の両県をまたいで流れ、宮城県の岩沼市と亘理町の境界で太平洋に注ぐ。

芭蕉一行が最初に阿武隈川を渡ったのは、白河城下への北の入口付近。盛岡藩士清水秋全が宝暦元年(1751年)に著した「奥州道中 増補行程記」に、当所について「阿武隈川、名所ノ川也。川原百間余、橋長五十間余」と記してある。
左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる
「会津根(あいづね。会津嶺)」は、磐梯山の別称で、標高1,819m。歌枕。

「岩城(磐城)」は、現在の「いわき市」を中心とする福島県の南東の地域。

「相馬」は、現在の相馬市を中心とする福島県の北東の地域。

「三春」は、田村郡三春町を中心し、三春藩秋田氏五万石の城下町として栄えたところ。

「庄(荘)」は「荘園」の名残で、「〜地方」の意。

「常陸」は現在の茨城県、「下野」は現在の栃木県。
かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず
「かげ沼[資料]」は、昔「蜃気楼現象」が見られたと伝えられるところ。ただし、本文にある「かげ沼」が、奥州街道沿いの宿駅・鏡沼の地を指すか、岩瀬郡鏡石町が史跡として紹介している「かげ沼(影沼)」かは不明。後者なら、見物のため街道を西に逸れて2、3kmほど行ったことになる。
すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる
「すか川の駅」は、奥州街道の宿駅・須賀川。現在の須賀川市。往時の街道風情を伝える一里塚[資料]が、今も須賀川市高久田(当時、高久田村)に残っている。

「等窮」は、相楽伊左衛門(1637〜1715)。はじめ乍憚(さたん)または乍単斎(さたんさい)と号し、後に等躬、晩年になって藤躬と号した。等躬の屋敷は、現在の須賀川市本町にあったとされ、問屋を営む傍ら、駅長の要職をつとめた。江戸期の須賀川俳壇の中核となった人物で、石田末得の門人。「葱摺」や「伊達衣」などの著書がある。芭蕉とは、等躬が問屋の用で江戸へ出府した折、俳諧を通して知り合った仲と見られる。

「四、五日とゞめらる」とあるが、実際は、四月二十二日から二十九日まで七泊、八日間に渡って滞在。
懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず
「懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断(たち)て」は、「昔のこと(古人が白河の関で詠んだ様々な歌や故事)を思うと懐かしさに堪えられなくなって」の意。「懐旧」は「昔のことを懐かしく思い出す」意で、「腸を断つ」は「切ない感情に堪えられないさま」を言う。

「はかばかしく(捗々しく)」は「思いの通り十分に、しっかりと」、「思いめぐらす」は「(句作のため)様々に案ずる」意から、「はかばかしう思ひめぐらさず」は、「(思いの通り)いい句を案ずることができなかった」ほどの意となる。
風流の初やおくの田植うた
須賀川到着の夜、等躬宅で催された芭蕉、等躬、曽良による三吟歌仙[資料]の発句。元禄二年刊、等躬編「葱摺(俳諧葱摺)」にも、本句を挟む句文が記載されている。

陸奥の名所名所心に思ひこめて、先関屋の跡なつかしきままに、旧道(ふるみち)にかかりて、今の白河も越えぬ。やがて岩瀬の郡(須賀川は市制以前、岩瀬郡の内)に至りて、乍単斎等躬子の芳扉を扣(たたく)。彼陽関(中国の関門。ここでは白河の関のこと)を出て、故人(旧友)に逢なるべし。
風流の初や奥の田植歌
(「葱摺」)
脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ
連句で、一句目の五七五が発句。「脇(句)」は二句目の七七、「第三(句)」は三句目の五七五。「巻」は、「百韻」の場合は百句連ねて一巻、「歌仙」の場合は三十六句で一巻となる[資料]。
世をいとふ僧
「世をいとふ」は、「俗世間を逃れて暮らしている、隠棲している」の意。
この「僧」は「可伸[
資料]」。俗名、簗井弥三郎。俳号栗斎。生没年不祥。相楽等躬の屋敷の一隅に庵を結んで隠棲したと伝えられる僧。
橡ひろふ太山(みやま)もかくや
「橡(とち)」は、トチノキ科の落葉高木。種から澱粉をとり、餅や粥に作る。

「橡ひろふ」は、次の西行の歌に触れたもの。

山深み岩に垂るる(しだるる)水溜めん
 かつがつ落つる橡拾ふほど  西行
(「山家集」)

「かくや」の「かく(斯く)」は副詞で「このように」、「や」は係助詞で、この場合「〜だろうか」の意。
西方浄土に便あり
「西方浄土」は、「西方にある極楽浄土」の意。

ここでの「便」は、所縁(ゆかり)、縁。
行基菩薩
奈良時代、聖武天皇のころの高僧。諸国を巡って様々な社会事業を行い、「行基菩薩」と尊称された。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
本句は、曽良の「俳諧書留」にある「隠家やめにたゝぬ花を軒の栗」や、須賀川到着の翌々日、昼過ぎから可伸庵で催された七吟歌仙[資料](連衆は、芭蕉、栗斎<可伸>、等躬、曽良、等雲、須竿、素蘭)の発句「かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗」の決定稿。

白河城主松平定信は、自著「退閑雑木」の中で、可伸庵の栗の木や当日の歌仙について次のように記している。

芭蕉一とせ、みちのくへ行て、わが封内の須賀川となんいふ所へ来りて一宿し、その軒端の栗によって発句し、ともなひ来りし曽良、又はこの地のものども集りて、三十六句の連歌したるが、今に芭蕉がその連歌かいたるもの、須賀川に持ち侍るがあり、この道このむものは、殊に尊ぶ事になむ。
(「退閑雑木」)

また、可伸は、自庵の栗の木を次のように記している。

予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。
梅が香に今朝はかすらん軒の栗 須賀川栗斎 可伸
(「伊達衣」)

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「おくのほそ道」のテキストについて


本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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