松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道 十四
安積山の章段










等窮が宅を出て五里計、桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。 等躬の家を出立して五里ばかり歩いたところに桧皮の宿があり、そこを過ぎたあたりに、かの安積山がある。街道からすぐのところである。
此あたり沼多しかつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。 このあたりは沼が多い。かつみを刈って軒にさす時節もそろそろなので、どの草を花かつみというのかと、土地の人々に尋ねても、いっこうに知る人がいない。
沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。 沼のあたりを探したり、人にどこにあるかを聞いたり、「かつみ、かつみ」と尋ね回っているうちに、気がついてみると、日は山の端にかかっていた。
二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し、福島に宿る 二本松から右に曲がって行き、黒塚で岩屋を少しばかり見物し、福島に宿をとった。
   
[ 旅のあらすじ ]
四月二十九日(新暦六月十六日)快晴の空のもと、芭蕉は、等躬の用立てた馬に乗り八日間逗留の須賀川をあとにした。奥州街道を真っ直ぐに北進し郡山に向かうところであったが、当地の名所「乙字ヶ滝」への立ち寄りを勧められ、手綱を南に向けることとなった。この滝は、安山岩でできている川床が、川幅全体にわたって「乙」の字を成すように垂直に陥没してできたもので、阿武隈川に見られる唯一の滝である。

「乙字ヶ滝」から引き続き等躬の馬に揺られ、小作田経由で岩(磐)城街道・守山宿に入った芭蕉は、まず問屋善兵衛を訪ねて接待を受けた後、田村神社(大元明王)とその別当善法寺に参詣した。守山からは善兵衛が用意した馬に乗り、岩城街道を北進。日出山渡し(金屋渡し)で阿武隈川を越え、日の入り前、郡山の旅宿に到着した。


五月一日(新暦六月十七日)、天気快晴の中、日の出のころ郡山を立って、「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾思はなくに」(万葉集)で知られる歌枕「安積の里」を目指した。本文では、安積山のあたりで、藤原実方が陸奥下向の折菖蒲の代わりに軒に葺かせたという「かつみ」を探し回ったことになっているが、「随行日記」には、これに触れたくだりがない。
安積の里から引き続き奥州街道を北へ旅し、安達が原の黒塚を見物。当夜の宿をとる福島城下に到着したのは、「日未少シ残ル」夕暮れ時だった。

二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒ(亀谷)ト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ[
資料]。その向ニ黒塚有。(中略)それヨリ又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリ二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。(「随行日記」)
乙字ヶ滝 田村神社 奥州街道・郡山 花かつみ 安達が原の黒塚
 
 
 




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安積山

[語 釈]

等窮が宅
須賀川宿の相楽等躬宅。芭蕉は当家に、四月二十二日から二十九日まで八日間滞在。出立当日、芭蕉は、等躬が用立てた馬で、石川街道から乙字ケ滝(石河の滝)を目指した。二十八日の予定が雨のため一日遅延しての出立となった経緯については、次の「随行日記」や「俳諧書留」の条に詳しい。

廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。
廿九日 快晴。巳中尅、発足。石河滝(乙字ケ滝)見ニ行。(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡)須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。
(「随行日記」)

須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝(乙字ケ滝)といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比(このごろ)の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといヽて止ければ、
さみだれは滝降りうづむみかさ哉 翁
案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。薬師(医師)也。
(「俳諧書留」)
桧皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有
「桧皮」は、安積郡日和田(郡山市日和田町)。奥州街道の宿駅。

「あさか山[
資料]」は、奥州街道沿いに隆起する日和田宿・高倉宿間の小丘「安積山」。「万葉集」巻十六の采女[資料]の歌「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾思はなくに」で名高い歌枕。
此あたり沼多し
「沼多し」の「沼」は、昔、安積山の南西方向にあった歌枕「安積沼[資料]」の名残の沼。当時の「此あたり」の様子が、「随行日記」に記されている。

五月朔日 天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出、壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。
(「随行日記」)
かつみ
「かつみ(花かつみ)[資料]」の文学への登場は古く、奈良時代の「万葉集」にまでさかのぼる。

をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみ
 かつても知らぬ恋もするかも  中臣女郎
(「万葉集」)

また、平安期の「古今和歌集」や「狭衣(さごろも)物語」にも「花かつみ」を詠んだ歌が見られる。

みちのくのあさかのぬまの花かつみ
 かつ見る人に恋やわたらん   よみ人しらず
(「古今和歌集」)

花かつみかつ見るだにもあるものを
 安積の沼に水や絶えなむ
はかなげに言ひなしたる様・けはひなど、めでたしとはなけれども、
なべてならずあはれに思さる。
年経とも思ふ心しふかければ
 安積の沼に水は絶えせじ
かく、いと浮きたるさまと思とも、今、心の程は見給ひてん。
(「狭衣物語」)

能因の次の歌にあるように、「花かつみ」については「菰(こも)、真菰(まこも)」とする説と、「菖蒲(しょうぶ)、アヤメ」とする説の二つがあり、そのいずれかは今も不明。地元の郡山市は、「花かつみ」をアヤメ科の多年草「姫シャガ」として、市花に指定している。

  菰の花の咲きたるを見て
はなかつみおひたるみればみちのくの
 あさかの沼のこゝちこそすれ  能因
(「能因集」)
二本松より右にきれて
「二本松」は、奥州街道の、日和田宿から四つ先の宿駅。現在の二本松市。当時、二本松藩十万石、丹羽氏二代長次の治世下にあった。

「右にきれて」は「右に曲って」で、二本松宿の出口(北端)の先に、奥州街道から「供中の渡し」に続く小道
[資料]があった。芭蕉は、この渡しで阿武隈川を越え、「黒塚」(真弓山観世寺)に向っている。
黒塚の岩屋
「黒塚」は、「安達ケ原の鬼婆」伝説[資料]の地で、平兼盛の歌「みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」(「拾遺和歌集」)で知られる歌枕。「黒塚」全般について詳しくは「芭蕉と二本松」の[資料]を参照。
福島に宿る
五月一日に一泊した福島の宿については、「随行日記」に「宿キレイ也」とあるだけで、詳細は不明だが、「福島市史-近世U」によれば、当時、城下で旅籠屋があったのは北町付近で、明治期、地元の俳人達は、同町内にある石橋「翁橋」を芭蕉ゆかりの史跡として注目していたという。

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「おくのほそ道」のテキストについて


本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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