松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道 十六
佐藤庄司が旧跡の章段










月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。 月の輪の渡しを越えて、瀬の上と言う宿場に出る。
佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。 佐藤庄司の旧跡は、左の山際の道を一里半ほど行ったところにある。
飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。 飯塚の里の鯖野というところだと聞いて、人に尋ねながら行くと、丸山というところに行きついた。これが、庄司がもと住んだ館跡である。
梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す 麓に大手門跡があるなどと人が教えてくれるままに尋ねては涙したことであった。また、近くの古寺には、佐藤一家の石碑(墓)が残っている。
中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。 なかでも、二人の嫁の石碑が、まず哀れに思われた。
女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。 女の身ながら健気(けなげ)な振る舞いをした話が、よくぞ世に伝え残されたものよと、涙を流したのだった。
堕涙の石碑も遠きにあらず 「堕涙の石碑」は中国だけのことではないのだ。
寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす 寺に入ってお茶を所望したところ、この寺は義経の使った太刀や弁慶が背負った笈を所蔵し宝物にしていた。
_笈も太刀も五月にかざれ帋幟 端午の節句の5月なのだから、弁慶の笈も義経の太刀も、帋幟といっしょに飾って祝ってもらいたいものだ。
五月朔日の事也 五月一日のことであった。
   
[ 旅のあらすじ ]
五月二日(新暦六月十八日)、信夫の里から瀬上を経て鯖野に向った芭蕉一行は、奥州藤原三代秀衡に仕えた佐藤庄司(基治)一家の菩提寺、瑠璃光
山医王寺を訪ねた。佐藤庄司の子、継信・忠信兄弟は、忠孝の士として知られる源義経の家臣で、その墓石が、一家の墓と共に境内の奥域に建っている。しかし、墓地内に、継信・忠信の嫁の墓として伝わる石碑は確認できていない。

本文では「飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也」とあり、芭蕉一行は、信夫の里からの道中、人に道を聞きながら大鳥城跡の丸山(館山)に行き、その足で麓の医王寺を訪ねたことになっているが、「随行日記」では「瀬ノ上ヨリ佐場野(鯖野)ヘ行。佐藤庄司ノ寺有」を記すのみである。
 
 
 




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佐藤庄司が旧跡

[語 釈]

月の輪のわたし
阿武隈川にあった船渡し。福島市を流れる阿武隈川の流路は当時より大きく西へ離れ、渡し場の跡は、現在、住宅地に変わっている。その一角に、平成八年十一月に建てられた「月の輪の渡し碑[資料]」がある。以下は、その碑文。

元禄二年五月、松尾芭蕉は弟子曽良と信夫文知摺を経て、月の輪の渡しを越えている。山麓の河原跡に、古川、船前という地名があり、当時を偲ばせる。また、藤原兼実公の「月の輪御所」や「御所清水」の史実も伝えられている。ここに本碑を建て、「月の輪の渡し」を明らかにするものである。
瀬の上と云宿
「瀬の上」(現在、福島市瀬上町)は、奥州街道にあった宿場町。かつては、当地にも渡し場があり、綱を使って通船した「瀬の上の渡し」は昭和五十一年まで続いた。「随行日記」の五月二日の条に、山口・瀬の上間の地理が詳しく記されている。

草ノ観音堂(文知摺観音堂)有。(中略) 其辺ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四、五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。
(「随行日記」)
佐藤庄司が旧跡
「佐藤庄司」は、奥州藤原三代秀衡の配下にあった佐藤基治[資料]。平安末期、信夫郡・伊達郡のほか、中通りの地を白河あたりまで支配した豪族。「庄司」は荘園管理の職名。「佐藤庄司」の呼称は、基治が、荘園の名目で私有した秀衡の領地を管理したことに依る。

「佐藤庄司が旧跡」は、佐藤基治の居館「大鳥城」跡[
資料]。
飯塚の里鯖野
「飯塚」は旧信夫郡飯塚村で、「鯖野(さばの。佐場野)」は旧信夫郡佐場野村。現在、共に福島市飯坂町平野の内。

「鯖野」は、当地に温泉を発見した鯖湖親王を祭るお宮があったことに因む名と伝えられ、「鯖野の薬師」の別称がある医王寺の地、およびその周辺地がこれに当る。
丸山
佐藤基治の居館「大鳥城」があった小山で、摺上川と小川の間に隆起する。現在は「館山」と呼ばれる。
大手の跡
大鳥城の大手門の跡[資料]。
かたはらの古寺に一家の石碑を残す
「かたわらの古寺」は、薬師如来の別称「医王」を寺号とする瑠璃光山医王寺で、佐藤基治一族の菩提寺。「かたわらの」とあるが、医王寺と「佐藤庄司が旧跡」は、間に「小川」を挟み、約1kmの隔たりがある。

「一家の石碑」は、佐藤一族の墓[
資料]。本堂から中門を出ると、薬師堂へ続く200mほどの参道があり、その背後に、佐藤基治夫妻の墓や、継信・忠信兄弟などの墓がある。
二人の嫁がしるし
これは、佐藤継信・忠信の嫁の痕跡にあたるもの、すなわち二人の嫁の石碑(墓)や像を指すと見られるが、医王寺にその墓として伝わる石碑は確認できておらず、像もあった様子がない。このことから、「二人の嫁がしるし」は、医王寺訪問の翌日、白石・斎川の甲冑堂で拝観した妻二人の木像[資料]のことと見做され、「二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず」は、甲冑堂にてあふれ出た情感が、そのまま「佐藤庄司が旧跡」の章段にスライドされたもの、とする見方が有力となっている。
女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かな
「女の身ながら健気(けなげ)な振る舞いをした話が、よくぞ世に伝え残されたものよ」といった意。これは、継信と忠信の妻が、息子二人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという話を指す。古くは、幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本集「やしま」にもこの話が載る。
堕涙の石碑も遠きにあらず
「墮涙の石碑」は、晋書「羊祐伝」にある故事。「石碑」は、中国晋の時代に、襄陽の大守・羊祐が没して後、百姓が、生前の羊祐の徳を慕って山(けんざん)に建てたという墓碑。荊(中国楚の国)の人々は、これを見てことごとく涙したことから「墮涙(なみだをこぼすこと)の石碑」と呼んだという。
寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす
「寺に入て茶を乞へば」、「義経の太刀、弁慶が笈」の記述は、「随行日記」中の「寺ノ門ヘ不入」、「寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由」と異なる内容。

「什物(じゅうもつ)」は「宝物」。医王寺の宝物館を瑠璃光殿といい、本館で、弁慶が背負ったという笈[
資料]や「弁慶書シ経(紺地金泥の弁慶自筆大般若経)」などが拝観できる。
五月朔日の事也
「朔日(一日)」とあるが、実際は、五月二日。こうした日付の相違は、仏五左衛門の章段や瑞巌寺の章段などでも見られる。

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本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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