松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
_
おくのほそ道 十八
笠島の章段










鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、 鐙摺や白石城下を通り過ぎて笠島郡に入ったので、かの藤中将実方の墓がどこにあるのだろうと思い人に尋ねてみると、
是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。 「ここから遥か右に見える山の際にある里を箕輪・笠島と言い、道祖神の社やかた見のすすきが今も残っています」と教えてくれた。
此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに このところ降り続いている五月雨のために道がぬかるんで、体も疲れきっていたので、離れたところから眺めて通り過ぎてしまったのだが、
蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、 「蓑」の箕輪や、「笠」の笠島は、五月雨の季節にちょうど合った地名であることに感じ入り、一句詠んだ。
_笠嶋はいづこさ月のぬかり道 実方ゆかりの笠島はどの辺りなのだろうか。五月の雨でぬかるんだこの道では、尋ねていくこともできない。
   
[ 旅のあらすじ ]
五月三日(新暦六月十九日)、飯塚(飯坂)から奥州街道に戻って桑折に入り、藤田宿(伊達郡国見町)を経て「伊達の大木戸」を越える。貝田宿を過ぎれば伊達六十二万石の領地となり、越河宿、斎川宿と続く。斎川宿には、源義経に関係して語られる「鐙摺[資料]」の遺跡や義経の忠臣、佐藤継信と忠信の妻の像を祭る甲冑堂(御影堂)[資料]があり、「曽良日記」にもこれらの名所が記されている。

斎川宿から白石城下まで5kmばかり。「随行日記」の記載が「白石に宿す」のみで宿泊地は不明だが、かつて旅宿があったと伝えられる「寺屋敷前」地区が見込まれる。
   

五月四日(新暦六月二十日)、白石出立は、午前八時ごろ。この日の旅について、実際には、白石、岩沼、名取の順に通過して仙台に入ったが、本文では、白石、名取、岩沼、仙台の順に歩いた筋立てに変えられ、さらに、白石ではなく、岩沼に旅寝した内容に変更されている[資料]。

岩沼においては、到着後、まず竹駒神社とその別当で能因法師を開祖とする武隈別当寺に参詣した模様である。竹駒寺は現在、竹駒神社の1km余り東に位置しているが、神仏分離以前は神社に隣接していて、その北側に並ぶ侍屋敷の傍らに、奥州の名立たる歌枕「武隈の松(二木の松)[
資料]」があった。
岩沼宿から仙台到着までの間、増田、中田、長町の宿駅を経由するが、名取は、岩沼宿と増田宿の間にあり、藤原実方の墓は、奥州街道から3kmほど離れたところの山際にある。芭蕉は、五百年の昔、西行が足跡を残した実方の墓前に参ることを切望したが、夕暮れが迫り、また「此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば」との事情から、これを断念し、仙台への旅を急いだ。
[白石] 鐙摺の遺跡 [白石] 甲冑堂 [岩沼] 竹駒神社 [岩沼] 武隈の松 [名取] 藤原実方の墓
 
 
 




18
笠島

[語 釈]

鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば
「鐙(あぶみ)」は、乗馬のときに足をかける装具。「鐙摺(あぶみずり)[資料]」は、斎川宿(現在、白石市斎川)にある遺跡で、源義経一行が平泉に向かう際、「鐙摺石」という巨大な岩石に、馬の鐙を摺って通過したという伝説の地。

「笠嶋の郡」というのは無く、実際は、旧名取郡の「笠嶋村」。現在、名取市愛島笠島(めでしまかさしま)の内。笠嶋村は、明治二十二年に北目村、小豆島村、塩手村と合併して愛島(めでしま)村となり、昭和三十三年以降、名取市の一部となった。かつての村の名は、現在、愛島北目、愛島小豆島、愛島笠島、愛島塩手の地区名として残っている。
藤中将実方の塚
「藤中将(とうのちゅうじょう)実方(さねかた)[資料]」は、清少納言との交際が伝えられる平安時代の宮廷歌人・藤原実方朝臣。赴任先の陸奥国で急逝。中古三十六歌仙の一人で、「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」は「小倉百人一首」の歌。
是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云
奥州街道を北上しつつある芭蕉が「みのわ・笠嶋」の方を眺めれば、正しくは「に見ゆる」となる。なぜ、「右」としたかは不明だが、「俳諧書留」に「泉や甚兵へ(仙台の泉屋甚兵衛)ニ遣スの発句・前書」の注記付きで書かれた句文で「左」としていることと、「随行日記」に「笠島(名取郡之内)、岩沼・搏c之間、左ノ方一里計有。三ノ輪(箕輪)・笠嶋と村並テ有由、行過テ不見」とあることから、道中の際の芭蕉に左右の誤認、すなわち、実方墳墓の位置についての事実誤認が無かったことは確かだろう。

  泉や甚兵へニ遣スの発句・前書
中将実方の塚の薄も、道より一里ばかり左りの方にといへど、雨ふり、日暮に及侍れば、わりなく見過しけるに、笠嶋といふ所にいづるも、五月雨の折にふれければ、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道
(「俳諧書留」)

また、次の「猿蓑」に載る句文でも「左」としている。

奥州名取の郡に入て、中将実方の塚はいづくにやと尋侍れば、道より一里半ばかり左りの方、笠嶋という処に有とおしゆ。ふりつづきたる五月雨、いとわりなくなく打過るに、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道
(「猿蓑」)

「みのわ」は、現在の名取市高館川上にある集落「箕輪」。この南隣に、名取市愛島笠島(旧名取郡の笠島村)が位置する。
道祖神の社・かた見の薄
「道祖神の社」は、猿田彦を祭る「道祖神社」。住所は、名取市愛島笠島字西台。この1kmばかり北に、藤原実方の墓がある。実方が、この道祖神社の前を通るときに、馬から降りず参拝しないで通り過ぎたので、罰が下り、落馬事故で命を落とした話は「源平盛衰記」に載ってつとに知られる。

「かた見の薄(すすき)」は、西行が、文治二年(1186)二度目に陸奥を旅したとき、実方の墓に立ち寄って霜枯れのすすきを詠んだ下の歌に因むもの。実方の墓の傍らに、この歌の碑[
資料]がある。

みちの国にまかりたりけるに野中に常よりもとおぼしきつかのみえけるを人にとひければ、中将の御はかと申ハこれがこと也と申ければ、中将とハ誰がことぞと又問ければ、実方の御ことなりと申ける。いとかなしかりけり。さらぬだに物哀におぼえけるに霜がれの薄ほのぼのみえ渡りて、後にかたらむ詞なきやうにおぼえて、  
朽もせぬ其名ばかりをとゞめをきて
 かれのゝ薄かたみにぞみる  西行
(「山家集」)
よそながら眺やりて過るに
「よそ」は「他所」で、「対象と直接関係しない人、所」の意。この場合は「離れたところから、遠くから」ほどの意。

「眺やる(眺遣る)」は「遠くの方から眺める」意。
笠嶋はいづこさ月のぬかり道
上五を「笠嶋」としているのは「おくのほそ道」のみ。この他の笠嶋の句を差し挟む句文では、上の「随行日記」や「猿蓑」に載る発句と同様、押しなべて上五が「笠嶋」となっている。

< TOP >



「おくのほそ道」のテキストについて


本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




掲載しているデータとリンクについて

テキストデータや画像データの無断使用・転載を固く禁止します。

  
リンクを張られる場合は、下記アドレスを対象としてください。
  
http://www.bashouan.com


 

  
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
 
おくのほそ道
 
生涯データベース目次
 

 
おくのほそ道 総合データベース
 
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
 
総合目次
 


Copyright(C) 2004-2006  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.

 Maintained online by webmaster@bashouan.com
 
LAP Edc. SOFTのホームページ

 
LAP Edc. SOFTのホームページ