松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道 十九
武隈の松の章段










岩沼に宿る 岩沼に宿をとった。
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。 武隈の松の見事さに、まったく目が覚めるような心地がした。
根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。 根は土際から二つに分かれていて、昔から伝えられている姿を失っていないことがわかる。
先能因法師思ひ出 真っ先に能因法師のことを思い出す。
往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや その昔、陸奥守として当地に下った人が、この松の木を伐って名取川の橋杭にされたことがあったからだろうか、
松は此たび跡もなし」とは詠たり。 能因法師は「松は、このたび来てみると跡かたもなくなっている」と詠んでいる。
代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。 代々にわたって、あるいは伐り、あるいは植え継ぎなどをしたと聞いていたのに、今また、松の木千年といわれる通りの木立ちとなっていて、立派な松の様子であった。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ 「遅桜よ、わが師が奥州に赴かれたら、是非とも武隈の松をお見せしなさい」と、挙白という者が江戸を出立の折に句を贈ってくれたので、これに応えて、
_桜より松は二木を三月越し 桜よりも、私を待っていてくれたのは二木の松で、三月越しにようやく見ることができましたよ。
   
[ 旅のあらすじ ]
五月四日(新暦六月二十日)の朝八時ごろ、お城を仰ぐ白石宿を出立し、宮、金ヶ瀬、大河原、船迫、槻木の宿駅[資料]を経て岩沼宿に到着した。

芭蕉が、待望の対面を果たした「武隈の松」は、古来、姉歯の松(宮城県金成町)、阿古耶の松(山形市)、末の松山(宮城県多賀城市)と併称される奥州の名松で、枯死、又は伐採によってその代を重ねたが、年代によっては、次の松が植えられず、史跡として名のみを残した歴史もある。能因の歌にある「このたび跡もなし」や西行の「枯れにける松なき跡」はこれを物語るもので、「おくのほそ道」に綴られた「め覚る心地」「めでたき松のけしき」といった感動、賞賛の辞は、こうした「武隈の松」の盛衰の歴史が背景となっている。
 
 
 




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武隈の松

[語 釈]

岩沼に宿る
「岩沼」は、奥州街道と太平洋岸を走る陸前浜街道との合流地として栄えた宿場町。日本三稲荷の一つ竹駒神社があり、門前町としても栄えた。

宿場の北の入口に仙台藩家臣・古市氏の岩沼館が置かれ、「随行日記」の四日の条にある「古市源七(正しくは源吉)殿」は此の館主で、「侍やしき」は、武隈の松の東側にあった諸士の屋敷。

三日 (中略) 同晩、白石ニ宿ス。
四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。 岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。(「随行日記」)

「岩沼に宿る」は虚構。日記の三日の条に見る通り、(飯坂出立から仙台までの間は一泊のみで)宿泊したのは白石宿。本文で、岩沼と名取の旅が逆転していることに関する考察は[資料]に記述。
武隈の松
「武隈」は岩沼の古称。「武隈の松[資料]」は、陸奥守藤原元善(良)朝臣の次の歌に詠まれたのにはじまる歌枕。二股に分れた樹形から「二木の松」とも呼ばれる。

みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てて後又同じ時にまかりなりてかのさきの任に植ゑし松を見侍りて
うゑし時ちぎりやしけむたけくまの
 松をふたたびあひ見つるかな  藤原元善朝臣
(「後撰和歌集」)
先能因法師思ひ出
「能因法師」は、平安中期の歌人で、本名は橘永ヤス(ながやす)。官吏を辞して出家し、初め融因のち能因と改める。藤原長能(ながとう)に和歌を学び、のち歌学書「能因歌枕」を著す。中古三十六歌仙の一人。摂津の古曽部(大阪府高槻市)に居住し古曽部入道と称する。風狂の逸話が多く、特に、日焼けして奥州への旅を装い、下記の「都をば」の歌を詠んだとする話はつとに知られる。[資料]

「先(まず)能因法師思ひ出(いず)」は、能因が陸奥に旅したときに詠んだ次の歌を思い浮かべた、の意。

みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ
(「後拾遺和歌集」)
往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭に
せられたる事などあればにや

文意は「その昔、陸奥守として当地に下った人が、この松の木を伐って名取川の橋杭にされたことがあったからだろうか」で、藤原清輔の「袋草紙」に、これを伐った人物の名が具体的に書かれている。

この松野火にやけにければ、源満仲が任に又う(植)う。其後またうせたるを橘道貞が任にうう。其後孝義(藤原孝義)き(伐)りて橋につくり、のちたえにけり。うたてかりける人(嘆かわしい人)なり。なくともよむべし。
(「袋草紙」)

「名取川」については[
資料]を参照。
松は此たび跡もなし
能因法師が詠んだ次の歌から引用したもの。

みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこのたび跡もなし
 千歳を経てやわれは来つらむ 能因
(「後拾遺和歌集」)
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ
「挙白」は芭蕉門人。芭蕉の旅立ちに際しては、挙白の他に、露沾や山口素堂らも発句などを手向けている。

  松島行脚の餞別吟
月花を両の袂の色香かな    露沾
蛙のからに身を入る声     翁
(「いつを昔」)

露沾は、磐城平藩の三代藩主内藤義概(風虎)の子で宗因門の俳人。父風虎と共に元禄、享保期の俳人と広く交わった。門派が異なるが芭蕉と親交が深く、「笈の小文」の旅に餞別吟を贈ったほか、元禄二年三月、「おくのほそ道」の旅を直前に控えた芭蕉を六本木の自邸に招き、俳席「松島行脚の餞別吟」(二吟二句)を設けている。


  送芭蕉翁
西上人(西行上人)の其きさらぎは法けつきたれば、我順にあらず、ねがはくば花の陰より松の陰寿はいつの春にても、我とともなはむ時
松島の松陰にふたり春死む   素堂
(「己が光」)


夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未

眺望洗
心都似水 可憐蒼翠対青眸
(「素堂歌集」)

山口素堂については[
資料]を参照。
桜より松は二木を三月越し
「桜よりも、私を待っていてくれたのは二木の松で、三月越しにようやく見ることができましたよ」の意で、「松」と「待つ」を掛け、「三月(みつき)越し」に「見つ」を掛けている。また、「二木(ふたき)」、「三月」は、「二」、「三」と数がそろえられ、同時に語呂合わせになっている。

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本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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