松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道 二十二
末の松山の章段










それより野田の玉川沖の石を尋ぬ。 それから野田の玉川や沖の石を訪ねた。
末の松山は寺を造て末松山といふ 末の松山には末松山と号する寺が建てられている。
松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、 松の木のすいたところは皆墓地になっていて、「はねをかはし枝をつらぬる契」を交わしても、その末にはこのように墓に入ることになると思うと、人のあわれを思って悲しみに暮れた。
塩がまの浦に入相のかねを聞 ちょうどこの時、塩釜の浦に鳴る鐘の音が聞こえた。
  
[ 旅のあらすじ ]


五月八日(新暦六月二十四日)、仙台からの道中、「十符の菅」や「壷碑(多賀城碑)」などを見物しながら、午後二時ごろ塩釜に到着した芭蕉一行は、法蓮寺門前の治兵衛の宿に到着。昼飯に湯漬などを食したのち、近隣の鹽竈神社末社、御釜神社に趣いて「塩釜ノかま」を拝観し、引き続き、夕刻まで「末の松山」や「野田の玉川」など多賀城の名所・旧跡を訪ね歩いた。

未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井(沖の井。沖の石)・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかまを見ル。宿、治兵ヘ、法蓮寺門前。加衛門状添。
(「随行日記」)


「末の松山」を詠んだ歌として、古くは、古今和歌集に見られる東歌「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう)」があり、藤原興風が宮廷で詠んだ「浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る」も同集に採録されている。


歌枕「末の松山」は、「愛の契り」に触れた歌に多く詠まれ、清原元輔の「契りきな」もこうした系統の歌である。この歌は、元輔が友人に代わり「心かはりてはべりけるをむなに人にかはりて」の詞書を添えて心変わりした女性に詠み贈ったものであり、「末の松山」は海岸からかなり離れたところにあるので、ここまで波が越えて来ることはまずあり得ない。この「あり得ない」ことを「末の松山に波が越えるようなもの」として比喩し、「波が越える」となれば「あり得ない」ことが起きる、すなわち愛が破局することを意味した。
多賀城碑 浮島 野田の玉川 おもわくの橋 末の松山・沖の石
 
 
 




22
末の松山

[語 釈]

野田の玉川
平安中期の歌人能因の次の歌にはじまる歌枕[
資料]。

  みちのくにまかりけるとき、よみ侍りける 
ゆふさればしほ風こしてみちのくの
 のだの玉河千鳥なくなり 能因
(「新古今和歌集」)


「野田の玉川[資料]」は、塩釜市の塩釜市の大日向を源とし、塩釜市と多賀城市をまたいで流れる小流で、井手(京都府綴喜郡井手町)の玉川、三島(大阪府高槻)の玉川の里、調布(東京都)の玉川(多摩川)、野路(滋賀県草津市)の玉川、高野の玉川(和歌山県高野山)とともに、六玉川(むたまがわ)の一つに数えられる。

仙台藩の儒学者佐久間洞巌著「奥羽観蹟聞老志」(享保四年<1719>刊)によれば、「野田の玉川」は、往昔、月影を映し、海水が遡る河流だったが、当時、既にその面影はなく「唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ」の小流になっていたという。

鹽釜村以南。往昔有河流。潮汐亦来往、石瀬所浮光躍金、深潭地清影沈璧。
皆為月得嘉名。如今為廃地而唯遺野田之溝渠。(原文は句読点なし)

鹽釜村の以南に在り。往昔、河流有り。潮汐また往来し、石瀬の所は、浮光金を躍らせ(「浮光躍金」は水面を照らす光で魚の鱗が金色に輝く様子。范仲淹「岳陽楼記」からの引用)、深潭の地は清影璧を沈む(「静影沈璧」は水底に映る月影を玉に比喩したもの。「岳陽楼記」からの引用)。皆月の為に嘉名を得(う)。如今、廃地と為りて、唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ。
(「奥羽観蹟聞老志」)
沖の石
次の歌を典拠にして多賀城の八幡に設定された歌枕[資料]。しかし、「沖の石[資料]」はもともと不特定の普通名詞。

  いてのしまというたいを
おきのいて身を焼くよりも悲しきは
 宮こ島べの別なりけり     小野小町
(「古今和歌集」)
  寄石恋といへるこころをよめる
わが袖はしほひに見えぬおきの石の
 人こそしらねかわくまぞなき  二条院讃岐
(「千載和歌集」)
末の松山は寺を造て末松山といふ
「末の松山」は、古今和歌集の東歌や、清原元輔の歌にはじまる歌枕[資料]。「末松山」宝国寺の裏にあり、樹齢七百四十年を越える黒松が聳え立つ[資料]。

君をおきてあだし心をわがもたば
 すゑの松山浪もこえなむ  東歌
(「古今和歌集」)
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
 末の松山なみこさじとは  清原元輔
(「後拾遺和歌集」)


現在、「末の松山」に見られる松は、元禄二年(1689)に芭蕉一行を迎えた老松二株と傍らの若木で都合四本ばかりだが、享保四年(1719)の「奥州観蹟聞老志」に「丘上有
青松数十株」とあり、当時、数十本の松が群生していた。しかし、仙台藩の儒学者舟山万年が著した「塩松勝譜」によれば、それから百年ほど後の文政六年(1823)ごろになると、わずか五本を残すのみとなった。
末松山(末音寿衛)。附宝国寺。八幡坊々側寺アリ。宝国寺ト云フ。寺後ニ高丘アリ。累々墓ヲ為ス。是末松山ナリ。往時ハ松樹、山ニ遍満ス。今存スルモノ僅カニ五株。而シテ其最モ東ノ一株、之ヲ末松ト称スルナリ。
(「塩松勝譜」)
はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごとき
「はねをかはし枝をつらぬる契」は、男女の間での深い契りをたとえる「比翼の鳥、連理の枝」のことで、白楽天の「長恨歌」の一節「在天願作比翼鳥地願為連理枝」から。天ニ在ラバ願ハクハ比翼ノ鳥ト作(な)ラン。地ニ在ラバ願ハクハ連理ノ枝ト為ラン。
「比翼の鳥」とは伝説の鳥で、雄と雌がそれぞれ目1つ、翼1つを持ち、常に一体となって飛ぶという言い伝えから、男女間の深い契りのたとえとされる。また、「連理の枝」とは、1本の木と他の木が、幹や枝を重ね合って同体化し、木理(木目)が相通じることを言い、これも男女間の深い契りのたとえとされる。
塩がまの浦に入相のかねを聞
「塩がまの浦」は歌枕。塩釜湾のことで「千賀の浦[資料]」とも。

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本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
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