松尾芭蕉の旅 おくのほそ道
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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おくのほそ道 三十一
尾花沢の章段










尾花沢にて清風と云者を尋ぬ 尾花沢で清風という者を訪ねた。
かれは富るものなれども、志いやしからず 彼は裕福だが、心の卑しさがない。
都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、 都にも時々行き来しているので、旅する者の心情をわきまえていて、
日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る 何日も引き止め、長旅の疲れをねぎらい、また、さまざまに持て成してくれた。
_涼しさを我宿にしてねまる也 旅先ながら、涼しい座敷でくつろいでいますので、まるで我が家にでも居るような心持で過ごしていますよ。
_這出よかひやが下のひきの声 飼屋の下から聞こえるカエルの鳴き声を聞いていると、つい、万葉の歌に詠まれたあの蛙のことが思い出される。ヒキガエルよ、さあ、そこから這い出してこちらにやってこないか。
_まゆはきを俤にして紅粉の花 紅花を眺めながらの旅は、心まで華やぐものであるよ。こうした心地で紅花に目を遣ると、女性が化粧で使用するまゆはきが思い出されることだ。
_蚕飼する人は古代のすがた哉 曽良 蚕飼いする人の、かいがいしく働く姿や仕草は、大昔から少しも変わっていないことだと、しみじみ思うことであるよ。
   
[ 旅のあらすじ ]
五月十七日(新暦七月三日)、究竟な若者を護衛につけて無事市野々に着いた芭蕉一行は、岩谷沢、関谷の番所、正厳、二藤袋を経て、昼過ぎ鈴木清風宅(島田屋)に到着した。この頃、近隣の紅花生産地ではいよいよ摘み取り作業が始まり、大手の紅花問屋として名を馳せた島田屋は繁忙期に差し掛かろうとしていた。こうしたことから清風は、尾花沢滞在中の休養は喧騒の店(たな)よりももっと寛(くつろ)げるところでと、芭蕉と曽良を村はずれの養泉寺に案内した。坂上の養泉寺は、盆地特有の高温多湿を吹き払う最上川や丹生川からの涼風が吹き込んで、まさに「涼しさを我宿にしてねま」れる環境にあった。

五月十八日(新暦七月四日)から尾花沢出立の五月二十七日(新暦七月十三日)まで、養
泉寺にて休養の日々を送るが、この間、二十一日二十三日の両日、清風家に招かれ宿泊した。いずれの日かは不明だが、歌仙「すゞしさを」と「おきふしの」[資料]は、 この折に巻かれたものである。

また、主従は、多忙な清風に代わり接待役を努めた村川素英[資料]をはじめとする土地の俳士の招待に応じ、積極的に交流を図った。「随行日記」には、小三良、沼沢所左衛門(遊川)、素英、秋調、一橋、秋調、東陽から自宅、あるいは養泉寺にて持て成しをうけたことが記されている。
 
 
 




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尾花沢

[語 釈]

尾花沢にて清風と云者を尋ぬ
「尾花沢」は、羽州街道の宿駅。「おばなざわ」と読むが昔「おばねざわ」とも。現在の山形県尾花沢市。豪雪地で、飛騨の高山、越後の高田ともに「日本三雪」に数えられる。最上川舟運の要所・大石田に隣接し、紅花など諸物品の集散地として繁栄。かつて、東部の奥羽山脈に幕府直轄の御公儀山・延沢銀山を控え大いに栄えたが、芭蕉訪問のころは既に衰退していた。

「清風」は、鈴木清風[資料]。残月軒清風と号す。元禄五年(1692)、四十二歳で三代目島田屋八右衛門を襲名。諸物品の仲買業。とくに紅花問屋として知られ「紅花大尽」と称された。
かれは富るものなれども、志いやしからず
「彼は裕福だが、心の卑しさがない」の意。

蓑笠庵梨一の「奥細道菅菰抄」に「凡富人は、かならず欲と奢とに居て、志いやしく、風雅の情にうときものなり。此文は、是世人の富者を矯メ戒ムるの詞ならんか。心をつけて見るべし」とある。
都にも折々かよひて
清風は、島田屋の切り盛りを店主の父に任せ、江戸、京都、大坂などに出向いて手広く商売をし、その間、談林派の伊藤信徳門に入り俳諧を学んだ。これを素地に、芭蕉をはじめとする俳人や商人たちとの交流を深めた。

芭蕉と清風の交際の一端に触れれば、芭蕉三十八歳、清風三十一歳の天和元年(1681)、清風編「おくれ双六」に、芭蕉の「郭公まねくか麦のむら尾花」の句が所収され、また、貞享二年(1685)六月、江戸の小石川において、清風、芭蕉、嵐雪、其角、才麿、コ斎、素堂を連衆とする清風歓迎の七吟百韻「古式百韻」の会があって、その翌年三月にも、芭蕉、清風、挙白、曽良、コ斎、其角、嵐雪による七吟歌仙が催されている。

涼しさの凝(こり)くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月       芭蕉
以下略。(「古式百韻」)

三月廿日即興
花咲て七日(つる)みる麓哉   芭蕉
懼て蛙のわたる細橋       清風
足踏木を春また氷る筏して    挙白
米一升をはかる関の戸      曽良
名月を隣はねたる草枕      コ斎
枝みくるしき桐の葉を刈     其角
以下略。(清風編「俳諧一橋」)
日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る
芭蕉は尾花沢に十一日間にわたって滞在し、長旅の疲れを癒した[資料]。この間、多忙を極む清風は、友人の村川素英に、養泉寺でくつろぐ芭蕉主従の接待役を頼み、自らも、二たび自宅に招待し、俳席を設けるなどをして持て成した。清風が、静養先として勧めた養泉寺は、高温多湿の村山盆地にあって、最上川や丹生川からの涼風が吹き込む絶好の休み処だった。
涼しさを我宿にしてねまる也
この句は、清風宅の俳席で巻かれた「すゞしさを」歌仙の発句として詠まれたもので、清風への挨拶句。この歌仙は、尾花沢滞在中に巻かれたもう1つの「おきふしの」歌仙とともに須賀川・相楽等窮の家に伝来したもので、これを須賀川の俳人石井雨考が見つけ、文政二年(1819)ごろ幽嘯が書き写して「繋橋」に載せたもの。石井雨考は、文政八年(1825年)に、須賀川可伸庵にある「軒の栗」碑を竹馬、英之、阿堂とともに建立した人物。
這出よかひやが下のひきの声
尾花沢滞在中、芭蕉は、土地の俳人と積極的に交流をはかり、また、「日待ち」、「庚申待」といった行事にも招待され、地域の人々と交流する機会を得ている。こうした中、交わりを持った俳人の中に蚕飼いの農家があって、実際に「かひや(飼屋)」に案内してもらった可能性がある。この折に、万葉集の「朝霞飼屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば吾あれ恋ひめやも」や「朝霞鹿火屋(かひや)が下に鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも」の歌が思い出され、その中の「かはず(蛙。かえる)」を、繁殖期、すなわち恋がらみの「ヒキガエル」に見做して上の句が作られたと見られる。ヒキガエルの繁殖期が春早い時期であることから、実際にヒキガエルの声が聞こえたというよりも、歌中の「かはず」がそのまま引かれたということだろう。
まゆはきを俤にして紅粉の花
本句について、「俳諧書留」に「立石(立石寺)の道ニテ まゆはきを俤にして紅花 翁」の記述がある。これは、この句が、山寺立石寺への旅の途次、羽州街道または山寺街道沿いに広がる紅花畑を眺めながら詠まれたものであることを示している。

「俳諧書留」は、曽良が「おくのほそ道」の旅の間に、芭蕉の自詠句や自らの句、歌仙などを書き留めたもので、次の4行は、大石田で巻かれた「さみだれや」歌仙の末尾の空白部に記されている。二句ともに「おくのほそ道」に記された句の草稿にあたる。

立石の道ニテ
まゆはきを俤にして紅花  翁
立石寺
山寺や石にしミつく蝉の聲 翁
蚕飼する人は古代のすがた哉
蚕の扱いは、昔から女性の仕事とされ、寒いときは暖をとってあげ、暑すぎるときは窓を開けて涼しい空気を入れ、また、真夜中に起きて桑の葉を与えたりと、実にかいがいしく働いたのである。曽良は、こうした現実の姿の中に、古代の人の幻影を見て深く感じ、上の句を詠んだものと見られる。

本句は、須賀川で巻かれた「風流の」歌仙[資料]に、曽良の「蠶(蚕)飼する屋に小袖かさなる」の句が見られ、また、「俳諧書留」中、当該歌仙を記す右手に「蠶する姿に残る古代哉」の句が記されていることから、初案は須賀川で成されたものと見られる。

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「おくのほそ道」のテキストについて


本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。




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