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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 京都遊学 一 北村季吟に学ぶ
_ p.1
○寛文六年
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京都遊学
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第一章 京都遊学

芭蕉の事業の基礎は、京都遊学にある、然るに京都遊学を否認する説がある、其説に対して此の題目の巻頭に掲げる。

一 北村季吟に学ぶ

蕉の本籍は伊賀国上野町である、十三歳(明暦二年)の時、上野城代藤堂良精に仕へて、良精の嫡子良忠(俳号蝉吟)の近侍の役を勤めた、二十三歳(寛文六年)の時四月、主君良忠が死亡した、六月其遺骨を携へて紀州高野山に納めて帰った、帰後仕を辞した、けれども許可が無かったので主家を脱出した、従来伝へられた説では、許可が無くて脱出したとあるが、近来の研究では、許可を得、暇を取って立去ったのだと認められて居る。

竹人の説によると、芭蕉は寛文十二年(二十九歳)まで、主家に仕へて居て、十二年春仕を辞し、其年秋秋江戸へ下った趣にしてある、さうすれば京都へは遊学していないことになる。

(三頁)

 








 
 
 
 
北村季吟に入門
_ 一説に、二十三歳の時即寛文六年、主君の死亡した年、江戸へ下ったと言はれて居るが、此方でも京都へは遊学して居ないことになる、けれども事実は明かに遊学して居る。以下京都遊学の事実を述べる。

家を立去ってから、京都へ行って、北村季吟の門に入って、国学、俳諧を学んだ。

主君良忠が、生前季吟の門人であった関係から、芭蕉は季吟を知って居たが、其頃はまだ仕官中であるので、入門して無かった。


芭蕉が京都へ行ったのは、寛文六年か七年か明かでない、又入門したのは、出京と同時か、其も分らないが、寛文七年季吟の「続山の井」に「伊賀松尾宗房」の名で入句がある所から見ると、七年には最早入門して居たやうに見られる。


芭蕉と極く親しく交はり、芭蕉の事情を能く知って居る人で、山口素堂といふ人がある、其人の記したものに、


芭蕉庵、俗名甚七郎、都の季吟の門に入り・・・(松の奥)

とあるから、季吟に入門したことは分るが、是丈けでは京都へ行ったことが明かでない、京都へ行ったことに関しては、芭蕉の門人許六が、芭蕉の江戸へ行かない前の頃のことを記して、


伊賀に帰住しける頃(寛文十二年)鈎月軒宗茂、舶船堂宗房など称し・・・

とて、伊賀に帰住したとしてある、若し京都へ行かないものならば、帰住とは書かれない、此処では、京都から伊賀へ帰ったことを指すので、京都へ行った証拠になるのである。


(四頁)

 
貞徳流の俳諧とは _ 又門人支考の「俳諧十論」に

芭蕉は洛の季吟に俳諧を学びて「埋木」は書本にて朱点を加へたるもの二冊あり、其伝は寛文の頃ならん、連歌の新式は、幽叟(細川幽斎)より伝へられて、是も頭書に朱点を加ふ、或は百人一首の秘抄あり、或は古今の序伝あり・・・

と見えて居る、寛文の頃京都で季吟に学んだことを指したのである、埋木も新式も、俳諧には必要の書であるが、寛文の頃は、埋木はまだ編集中で板木にはなって居ないから、書本を用ひたのである。


此等の事実に拠って、京都へ行ったこと、季吟に入門したことは疑ひない。


季吟は山城粟田口の人、普通には、江州北村の人、三條山伏町に住す、と伝へられて居る、寛文六年には四十三歳、国学を公卿西三條実枝と細川幽斎に学び、連歌俳諧を松永貞徳に受けたが、国学が専務で俳諧は余力であった、芭蕉が入門した頃は、季吟は五條の新玉津島社の俗別当(今の社司)を勤めて、社内に居住して居たと伝へられるけれども、季吟が社内に移ったのは天和三年二月のことだとあるから、寛文六年にはまだ社内には移って居ない時である、季吟の其頃の住所は粟田口か山伏町か判らない。


芭蕉が、季吟から受けた貞徳流の俳諧とは如何なる風体か。


貞徳流の古風の俳諧といふのは、一口に云へば「おかしみ」を言ふ流儀であって、俗語を使ひ滑稽を言って、面白くおかしく人を笑はせるに在った、卑下た滑稽、諧
はいけない、上品で風流であるを要し、又教訓に害

(五頁)

 
伊藤坦庵に詩を学ぶ _ るものは避けるといふ流儀であった。

其上作句に故事や証歌を使ってあるので、一層窮屈の「おかしみ」で、詠句の範囲が狭いものであった。季吟は斯ういふ流派の俳諧学者であった、殊に季吟は貞徳の門人中でも古臭い方の傾があった。


芭蕉が季吟に学んだ寛文の末頃から、大阪に新しい俳風が起って、右に述べた窮屈の俳諧を打破して、品位などには拘泥せず、頗
(すこぶ)る自由勝手に振舞ふやうになって来た、此等の人々が貞徳流の俳諧を古風の俳諧と言った。

是で芭蕉が季吟から教へられた俳諧の輪廊が略ぼ分かる。


東山の麓に住居して泊船堂宗房と号した、沼波氏の「芭蕉年表」に拠ると、寛文八年二十五歳の時、東山の住居を止めて再び季吟の執筆となって季吟の絵合といふ集に力を尽したと云ふ。


芭蕉は、六、七年に亘る此の遊学中の学資は、伊賀の兄から支出したものか、余り裕福でも無かった家庭から、仕送りを為し得たか、其等に関する資料は無い、執筆などをして学資に宛てたものであらう。


学中、詩を伊藤坦庵に学ぶ。


芭蕉翁墓碣銘(所在東山 C田澹叟撰)に、

(上略)余義祖坦庵伊藤先生亦與翁(芭蕉)交、坦庵集中有翁邀


とあるので詩を坦庵に学んだことが知られる、また与謝蕪村の「写経社集」にも、伊藤坦庵が芭蕉の漢学の師であったことが見えて居る、冠山の「芭蕉翁全傳」に、


(六頁)

 
○寛文十年
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西国遊歴
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大和巡礼
_ 宗房(芭蕉)在京七年、神道を吉田家に、仏法を南禅寺塔頭の某和尚に、医術を三條某に学ぶ。

とあるが引証すべきものを見ない。

学中、寛文七、八年(二十四、五歳)の頃、友人二人と西国に遊歴し、太宰府に参詣した。

十月十三日附(元禄六年?)北枝宛芭蕉書状に

(上略)二十六、七年以前、(寛文七、八年)太宰府へ参詣致し候、外連二人、我と三人にて歩行候へ共、知音もなく候て、見物所尋帰候、宗房時代のことに候へば、所々発句留候へ共おかしからず候、ととのはぬ事のみにて、一句も吐事なく候間、此度は吟じ直し度存意に候・・・

とあるので慥
(たしか)である。伝ふる所によれば、二人の中の一人は、大阪の宗因であったといふ、「俳諧芭蕉談」に、

芭蕉云く、我若くして宗因が一幽たりし我宗房たりし時、宗因に誘はれて、筑紫太宰府に参詣せし事あり・・・

とあるのが其れである、此の芭蕉談は如何がはしい書で、請合の出来兼る書だから、一説として掲げておく。

荷暁(鶴岡の人)は浪花(芭蕉の門人)の話なりとて、芭蕉の肥後遊歴の事実なることを左の如く語った。

翁(芭蕉)昔肥後の山中を越給ふ時、五十計りの男のそれが、婦とおぼしきが、共に薪をおろして坂中に休み居たり、(中略)中々賤の女にこそ誠のわりなき妹背はあれと、いよいよ感じ給へりとなん・・・

学中、寛文十年頃、大和巡礼に出で、名所を一巡した。

大和を巡礼したことは、下に掲げてある宇知山(十頁)、見馴河(一一頁)の句で知り得る。


(七頁)

 
淡路に遊ぶ _ 淡路に遊ぶ 其角が「芭蕉翁終焉記」と淡路の「福良旧記」とに、芭蕉が淡路に遊んだことが見えて居る、併し「恠談袋」に四国遊泳のことを書いてあるのは、引証すべきものを見ない、信じ難い。

学中、俳才秀逸の廉
(かど)を以て儕輩(さいはい)の畏敬を受けた。

去来宛許六書状 青根が峯所収に


予此人(芭蕉)の器を見るに、我肩を並べたる時、(寛文の頃)中々及ばざる上手なり、日々名人と成侍らん、願くは一度対面して俳諧の新風を聞たし、と便を求むること一、二年の其中、翁(芭蕉)の句並に門人の句等を聞て、其風をさぐる、時に「あら野」出来たり・・・

是は、許六が、寛文の頃、京都の田中常矩の門人で有った時のことを追憶して、去来に送った一節である。信を措くに足りる。


許六は、始め俳諧を常矩に学んで門下第一と称された人である、当時常矩の撰集中に、宗房(芭蕉)の附句が載って居た、其れを見て許六は、宗房の句が遙に師常矩の上にあることを感じて、心窃
(ひそか)に敬服して居た、許六が芭蕉を慕ったのは此の為である。

芭蕉が寛文の頃、既に俳才優秀であった一例とするに足ると思ふ、後年許六が芭蕉の門に入ったことは、元禄五年八月に掲げてある。


学中のことであらう、衆道の邪路に踏み入った。

(八頁)

 
遊学中の句風 _ 「貝おほひ」の二番に

      左勝
    紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ 此男子
      兄
    兄分に梅をたのむや兒ざくら   蛇足


左の赤いこんぶくろは、大坂にはやる丸の菅笠とうたふ小歌なればなるべし、右梅を兄分にたのむ兒桜は、尤たのもしき気ざしにて侍れども、打まかせては、梅の発句と聞こえず、兒桜の発句と聞え侍るは、今こそあれ、われも昔は、衆道ずきのひが耳にや、とかく左のこん袋は、趣向もよき分別袋と見えたれば、右の衆道うはき沙汰は先思ひとまりて、左を以為im_5g.gif (830 バイト)勝、


此の判詞の中にある、「われも(芭蕉)昔は」の昔の年次は、主家の奉仕中の頃の事か、或は遊学中のことか、頗る不明ではあるが、奉仕中から引続いて遊学中にも猶ほ此の行為があったものと見て差支なからう。


学中の句風


寛文七年頃の作


    餅雪をしら糸となす柳かな

(九頁)

 
 
 
貞徳風の句
_       花の本にて発句を望まれて
    花にあかぬ歎やこちの歌ぶくろ


      初瀬にて人々花見けるに
    うかれける人や初瀬の山桜


      待郭公
    岩つゝぢ染る泪やほととぎす
    (以上、続山の井)

寛文八、九年頃の作


    浪の花と雪もや水のかへり花

    かつら男すますなりけり雨の月
   (以上、如意宝珠集)

寛文、十、十一年頃の作


    
  宇知山
    うち山や外様しらずの花盛


宇知山は、山辺郡内山で、後醍醐天皇の笠置落城後御潜幸ましました永久寺のある所である、外様は只外の者、


(一〇頁)

 
即ち内山以外の者といふ意で、御潜幸の意を遇して居る。

      見馴河
    五月雨も瀬ぶみ尋ねぬ見馴河
    (以上、大和巡礼)

    春立とわらはも知るやかざり縄   (藪香物)

    きても見よ甚兵衛が羽織花ころも

    女夫鹿や毛に毛が揃ふて毛むつかし
 (以上、貝おほひ)

以上は、作例として遊学中の二、三句を掲げたのである。
此等の発句は、何れも貞徳風の句である、世に所謂「取なしもの」である。唯詞の上の技工に過ぎない、後になって、俳諧の誠を詠んだ正風の芸術化した句とは、全く趣が異ふ。


(一一頁/本頁p.2に続く)

 
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