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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 京都遊学  帰郷 学業成績
_ p.2
寛文十二年
29
 
 
 
 
 
 
 
おほひ
 
上梓
跋文
 
 
 
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第一章 京都遊学

 帰郷 学業成績

文十一年(二十八歳)冬、京都から郷里上野町に帰り、翌年春まで滞在した、其頃の俳号を釣月軒宗房

(一一頁)

 
と称した。

芭蕉は「貝おほひ」の自序に、


寛文十二年正月二十五日、伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒にしてみづから序す。

と書いてある、許六は


伊賀に帰住しける頃、(芭蕉)釣月軒宗茂、舶船堂宗房など称したれども、共に反古などに無汰書したるものにして、定まれる名にはあらず。

とて一時当座の俳号だと言って居た、この俳号は多く使って無い所から見て、一時号であったものゝ如く見える。


文十二年(二十九歳)正月、上野町の天満宮に奉納の三十番発句合せの判をして、「貝おほひ」と題して上梓した。

貝おほひ」は芭蕉が著作の最初のもので有らう、又六年間勉学した卒業論文とも観るべきもので、芭蕉の学芸才気を知るには頗る必要のものである、芭蕉の友人の横月といふ人の「貝おほひ」の跋文で、芭蕉が滑稽を好んで、数年間俳諧の研究に携って居たことが判る。


貝おほひ跋文

松尾氏宗房雅仲、為余断金之友、其性嗜
滑稽、潜心詼諧者幾換伏臘矣、今茲春正月閑暇之日、以童謡俚近之語狂句者総若干、采而輯之、分是於左右、以判断其可否、誠錦心繍口、撃節嘆賞焉、瑤編既成、請

(一二頁)

 








 
 
 
 
 
 
 
貝おほひ序文
_ 後序、輙生素以切偲之情袖手傍観、文雖羊狗、僣一言以続于後云。
  寛文壬子孟春日        伊陽城下  横月漫跋


又芭蕉が自書の「貝おほひ」の序文は、よく出来て居る、戯作者めいた俳文の筆致に、侮り難い健さを持って居る、其序文を左に


貝おほひ序文
小六ついたる竹の杖、ふしぶし多き小歌にすがり、あるははやり言葉の一くせあるを種として、捨られし句どもをあつめ、右と左にわかちてつれぶしにうたはしめ、其かたはらに、みづからがみじかき筆のしんきばしらに、清濁高下を記して三十番の発句合を思ひ、太刀折紙の式作法も有べけれど、我まゝ気まゝに書ちらしたれば、世に披露せんとにはあらず、名を「貝おほひ」といふめるは、合せて勝負を見るものなればなり、又神楽の発句を巻軸に置ぬるは、歌にやはらぐ神心といへば、小うたにも予がこころざす所の誠をてらし見給ふらん事をあふぎて、当所あまみつおほん神のみやしろのたむけぐさとなしぬ。
寛文十二年正月二十五日、伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒にしてみづから序す。


右の序に言ってある如く、「貝おほひ」の発句も判詞も、当時の小唄やはやり言葉を種としての洒落気が横溢
(おういつ)して居ることが、一番眼につく、又戯作気分が頗る多い、是で芭蕉が、滑稽、詼諧(かいかい)を嗜んだ、と跋文にあるのが事実であることが分った。

(一三頁)

 
_      貝おほひ 判詞 十一番

      左 勝

    郭公谷から峯からこんゑ(声)をせい   吉之
      右

    鶯の玉子じゃとおしゃるほととぎす   一意

左はきやりの音頭と聞こえてくどく、言葉の中のつな、扨
(さて)も見事によう揃うた。
右の句、鶯のかこひの中の郭公と云心をふくみ、声のふしをあらせて、医者に見すれば、玉子じゃとおしゃるといふ小唄をかり加へられ侍る、伊勢のお玉が事に出れば、玉の句といはんに難なかるべけれど、左の谷から峯から、こゝはちつくりこざかしくいひ出されし大持(たいもち)に、心はひかれ侍りき。


右の序文は、筋が通って、躰が整って居る、又判詞は洒落交りて、優劣の判断が当を得て居るし、判の理由が然として明瞭である。

「貝おほひ」中に、芭蕉の名で出て居る句は二句しかない、併し私の考では、他の人の名で出してあるのが数句有らうと思ふ、其二句は京都遊学の所(一一頁)に掲げておいた。

「貝おほひ」を見て直感することは、発句の作者も其判者も、遊蕩的であることである。発句に流行の小唄やはやり言葉を織込んで居るのは、芭蕉の主眼とする「おかしみ」が、小唄やはやり言葉から多く摘み得る便宜上当然の


(一四頁)

 
学業成績の所見
 
_ 手段である、此の小唄やはやり言葉を多く織込んである発句の優劣を判断するには、句の作者以上に、此の方面の知識を必要とする、判詞の中に、句の作者以上に、多くの小唄やはやり詞や遊蕩的言辞を使用してあるのは、是が為である、必ずしも、芭蕉の遊蕩性が、判詞全面に現はれたものと観るのは当らないと思ふ、猶又此の時代の風習が、過半其責を負はなければならないものであらう。

此処で注意を要することは、判者の洒落と機智と文章の巧みで、遊蕩気分を相当の程度まで調和して、野卑の感を抑制し得たことである。だから其筆致にいや味を感じない、頗る面白く読める所が手際のよい所であらう、当時他の判者の判詞が、今に残って居るのがあるが、野卑で文章が拙劣で「貝おほひ」の如く穏健のものは少ない。


(けだ)し遊学中の薀蓄(うんちく)を傾け、勃々たる血気を鼓し、或る野望に心頭を燃しながら、筆を駈ったものかと想像する。

芭蕉が、埋木、新式、古今集、百人一首の序等の伝授を受けたことは、前に掲げた支考の言で知れて居るが、万葉集を始め、古今以下の撰集や、源氏物語、平家物語などを、よく暗記して居たに驚かされるが、其等は遊学中刻苦した賜物では無からうか。


以上の成績が、六年間京都で勉学して得た所の全幅であるか、将た一面であるかは判らないが、全幅にしても一面にしても、右の性癖と成績とを以てすれば、近畿の俳壇に於いて、優に立って行けるものと認められる、翻って当時の近畿地方の社会を観るに、京都、大阪は俳諧が盛に流行して、貞徳の門下には優秀者が多く輩出して居た、其余波が伊賀、伊勢、美濃、尾張、近江等に氾濫した、寛文の頃出来た湖春の「続山の井」でも、重頼の「佐夜中山」


(一五頁)

 
でも、正辰の「大和巡礼」でも、何れも伊賀伊勢の作者の多かったのは、右の余波で、芭蕉も其作者の一人であったのだ、芭蕉が此の「貝おほひ」の奉納上梓を企画したことは、無論此の時代の波に乗って為したことであって、独り芭蕉が他に擢(ぬき)んでて決行した訳のものではなかった。

とに角芭蕉が、三十番句合を町の天満宮に奉納して、大衆の面前に披露したり、又「貝おほひ」を上梓して、世に自己の所信を問うたりしたことは、数年間、在京して勉学した成績を堂々と披露したもので、京都に遊学したといふ事実の齎
(もた)らした好(よ)き結果である。

「貝おほひ」を奉納上梓してから、其年九月江戸へ下るまで八ヶ月間、伊賀か京都か何処に居たか分らない。

九月江戸へ下る時は、京都から出発した点から見て、京都に居たものと見られる。


(一六頁)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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