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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 江戸下向  道中と落着き先
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寛文十二年
29
江戸下向
 
 
 
芭蕉の同道者
 
 
 
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章 江戸下向

 道中と落着き先

蕉は寛文十二年(二十九歳)九月、江戸本船町の名主小沢ト尺が、京都から江戸へ帰るのに同道して共に江戸へ下った。

俳士梨一が、某年江戸本船町の中の八軒町の名主小沢ト尺を訪うた時のト尺の話を、左に掲げる。

我父もト尺を俳名として、其頃(延宝初年)は世に知る人もありき、一とせ都へ上りし時、芭蕉翁に出会ひて、東武へ伴ひ下り、・・・と父の物語に聞きぬ、・・・此時延宝(寛文)六年にて年二十三といふ、或は一説に、本船町の長序令といふ者に誘はれて下り給ふともいふ。

とあって、ト尺の案内で下ったといふのが一般に認められて居る、下った時を寛文六年とするのは、記憶の誤であらう、梨一は、ト尺と序令は異名同人ではないかと疑って居る。
ト尺を手頼ったといふ説は、菊岡沾凉の「綾錦」にも見えて居るから、疑ひ無いことであらう。

下向の途中、佐夜の中山にての吟なりとて、冠山の「芭蕉全傳」にある句。


(一七頁)

 








ト尺履歴
 
 
同道者
・落着き先の異説1
_     命なりわづかの笠の下涼み

「芭蕉全傳」には、寛文十二年初めて江戸へ下る時の作としてあるが、一説には、延宝四年か六年に、初めて江戸から伊賀へ帰る時の作とも言はれて居て、一定の説がない。

「命なり」と言った力の強さは、此行の意気覚悟を窺ふに十分であるが、天和の頃の句風に似て居る。

ト尺履歴 ト尺は、初名を小沢友治郎といひ、後、太郎兵衛といった、本船町の中八軒町の名主であった、京都へ上り北村季吟の門に入って、和歌、連歌、俳諧を学んで、号をト尺といった、また踞齊とも孤吟とも称した、ト尺は季吟の門人たる縁故から、芭蕉と知り合ったので、此度同道して江戸へ来たのである、「大注觧」に、太郎兵衛を堀江町の名主と書いてあるが、堀江町の名主をも勤めたのであらうか。
ト尺の号は、小沢の左の篇を省いての号だといふ、父の名は得入といひ、俳諧をよくした、得入の子が即ちト尺である、ト尺の子も亦ト尺と号して俳諧をよくしたので、世間では、父の方を古ト尺、子の方を今ト尺といった、古ト尺は宝暦元年(或は宝永六年)九月十三日死し、浅草誓願寺に葬った、文政の頃俳人日人は、親しく今ト尺の家を訪うて、「今に本船町にあり」と記して居た、古ト尺の句で世で知られたものは。

   秋の雲は富士をいろいろになぶりけり

同道者、落着き先の異説

一、向井ト宅と同道し、杉風方に落着いたとの説


(一八頁)

 
_ 採荼庵梅人の話に、翁(芭蕉)江戸へ来候節、旅行同道は藤堂佐渡守様御家来向井八太夫ト宅一所に被来しが、直に小田原町杉風方へ同道仕候由、今孫八太夫某、去酉の春咄被申候、ト宅長寿にて九十六、今の向井氏七十余也(用人役)ト宅咄にて御座候由、相違あるまじく候。

とある。梅人は杉風の直弟子で、芭蕉と杉風との間柄をよく知って居た人である、又「杉風秘記」にも、

松尾甚四郎殿(芭蕉)伊賀より初めて此方(杉風方)へ被落着候・・・

としてある。

ト宅の履歴は分らない、延享二年歿、年九十二(ママ)とある。

一、甥の松村伊兵衛を手頼って杉風方に落着いたとの説

二代目高山麋塒の記に、鯉屋(杉風)手代伊兵衛は、桃青翁の甥なり、幻世(初代麋塒)世話して小普請手代になし、松村吉左衛門と名乗り、本郷春木町に住す。・・・

とある、此の伊兵衛を手頼ったとも伝へられる。

野桂の著「祖翁墳塋記」に芭蕉の位牌其他遺物が、伊兵衛の家に伝はって居ることが見えて居て、伊兵衛と芭蕉との関係が浅からざるものと見える所から見て、伊兵衛を手頼ったことも有りさうに思はれる。

伊兵衛は、松村桃鏡の祖父で、俳名を一道といった、大和国加茂の人である、芭蕉が行脚の際、伊兵衛の実家なる加茂の平兵衛を訪れた事実があるから、肉親で有ったのであらう。


(一九頁)

 
同道者
・落着き先の異説2
 
 
江戸下向の動機
_ 一、江戸本所桃青寺黙宗和尚と同道で桃青寺に落着いたとの説

本所中の郷原庭桃青寺寺伝に、江戸へ下る途中、桃青寺の黙宗和尚と連立ち、同伴して原庭の禅室に落着たり。

とある、素丸の芭蕉百回忌追善「浜木綿」の自序にも、このことが見えて居た。

これらの諸説を判断するに都合のよい有力な資料が無い、今の所では、ト尺かト宅かに同道して江戸へ来て、其後伊兵衛の周旋で、杉風方へ寄食した、といふやうに見て居る丈けのことである。

戸へ下った目的は何か、或種の希望に心頭を燃した為であるかの如くに見える、若し誤って希望を達し得ない場合は、俳諧を以て立たう、と予期したものゝ如く察せられる。

普通の考に従へば元禄以前まだ文化の進まない時代に於いて、近畿地方の者が学問修行をするには、京都か大阪で修行して、修行が済めば、京阪の間で身を立てるのが普通であらう、然るに左様にはしなくて、学資も無いのに、更に江戸へ出て、何等かの事業に携はらうといふには、其処に何等かの希望が伏在して居るからであらう、俳諧師ならば、いつでもなり得る便宜はあるにも拘らず、俳諧師に向かないで、水道工事に奉職したのは、或種の希望の為か、或は学資不足の為、一時の生活手段を執ったものかの中であらう、之を判断する為に、左の文を掲げる。

幻住庵記(芭蕉四十七歳の作)

倩年月の移り来し拙き身の科(とが)を憶ふに、或時は仕官懸命の地を羨み、一たびは仏籬祖室の扉に入らんとせしも、

(二〇頁)

 
江戸下向の動機の異説 _ 頼りなき風雲に、身を攻め、花鳥に情を労して、暫く生涯の謀ごととさへなれば、終に無能無才にして此一筋(俳諧の道)につながる。・・・(前後略)

とある。主君の蚤世(早世)を機会に、仕官の節をち、好きな滑稽に身を投じ、主家にも郷里にも満足が出来ず、又京都では飽き足らず、競争の激しい江戸へ出て来る決心をしたのは、仕官懸命の地を羨んだ為か、或は聖人高僧の扉に入らんとした為か、此の二つの中どちらかであったらしく、最初は、俳諧師になる考で無かったことは、右掲載の文中に窺ひ得る、野心の方便が尽きて、不得止俳諧師に転向したといふ筆致である、畢竟(ひっきょう)絶大の野望を抱ての江戸行と見る外はない。

穏健な説を採る学者は。

芭蕉の江戸行は、江戸で俳諧の新風でも起さう位の野心は有ったのぢゃないか。・・・

位のことに見て居るらしい、又或学者は。

江戸東下まで五、六年間を、彼はどうして京、大坂で暮したであらうか、・・・俳諧では到底飯は食へない、又さりとて藤堂家へ再出仕も出来ない、といふ所から、思切って江戸へ下り、所謂立身出世の路を開かうと思ったに相違ない、・・・

と見て居る、此外いろいろの観方はあるが、大同小異である。

江戸へ行くやうになった動機に就ての異説


(二一頁)

 
「次郎兵衛物語」に、芭蕉が、故主君の遺骨を携えて、高野山へ納めて、其処で殉死をする覚悟であった所が、其処の法印から説諭されて、気が変って、何か一仕事を為る決心で、其年江戸へ下った(摘要)といふ趣に書いてある。

此書は長崎の人、魯町(去来の弟)が、京都から次郎兵衛を呼寄せて、其談話を書留めた体に作られて居る、此書によれば、次郎兵衛は芭蕉の乳兄弟で、芭蕉の僕
(しもべ)を勤めた人で、芭蕉のことを能く知って居た人だとある、けれども、此書を仔細に点検して見ると、矛盾した所が多くて信じられない、世には僧文暁の偽作だと言はれて居る。

猶又此の物語には、江戸下向を寛文六年としてあって、ト尺の話の年代の誤を其まゝ引次いでゐるのは、偽作の欠陥であらう。


(二二頁/本頁p.4に続く)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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