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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 江戸下向  水道工事に就職
_ p.4
 
 
 
 
 
 
 
水道工事に就職
 
 
 
 
 
 
 
 
成功
・不成功の両説
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章 江戸下向

 水道工事に就職

蕉が江戸へ来た頃は、神田上水道の一部なる小石川関口の工事設置中であったので、ト尺の周旋で水道工事に就職したが、間も無く辞職した。

水道工事に就職 例のト尺の話によれば、水道修築の役人になったとある、其話。

(上略)一とせ都に上りし時に、芭蕉翁に出会ひて伴ひ下り、しばしが程のたづき(生活の手段、生計)にと、縁を求めて水方の官吏にせしに、風人の習ひ俗事にうとく、其任に勝(た)へざる故にや、職をすて・・・

(二二頁)

 
とある、又芭蕉の友人なる山口素堂は。

吾友芭蕉も、曽
(かつ)て力を水利に尽し。・・・

と言ひ、門人許六も。

世為功、修武小石川之水道、四年成、速捨功而入深川芭蕉庵出家。・・・

と言った、此等に拠って見るに、水道工事に関係したのは事実であらう。

成功、不成功の両説 許六は功を遺して隠遁したやうに書いてあるが、ト尺の話では任に勝へなかった趣にしてある、許六の文章は修飾が多くて其侭
(まま)受取にくい、又近頃松本勘太郎氏の調査には。

小石川の水道工事に携はったのは、寛文六年二十三歳の時で、功を立てて離任した。

とて、成功した趣に報告してあるが、従来の世の俗説には、成功しなかったやうに伝へられて居る。

其俗説といふのは「芭蕉翁系譜」に。

小田原町鯉屋市兵衛(杉風)に力を合せ、千河上水の堀普請の願書を拵
(こしら)へ給ひ、其事成就したる所、余り水上り過ぎて、浅草辺溢るゝ故に、終に埋めたりと云ふ、・・・右成就ならば、立身の筋にもならんか、と若き青雲の志もありがちなり、其事空くなりて、終に上方へ登り給ふ志にて、板橋まで行きたるを、杉風、ト尺など引止め、俳諧にても読み書きにても指南し、一先づ此処に居給へと云ひて江戸に留む。・・・

と載せてあることだ。


(二三頁)

 








芭蕉に土木の知識があった
 
_ 此千川上水といふのは、多摩郡三宝寺村の池の水を、江戸の本郷、下谷、浅草に疎通させようとした水道のことであるが、千川上水の経営の発端は、芭蕉が死んだ翌々年即ち元禄九年に、河村瑞賢に始まったので、寛文の頃に、千川疎水工事が有らう筈がないから、誰か別の人と間違ったのではないか、或は芭蕉が、水道工事で失敗したといふ世間の俗説を、千川上水の甘(うま)く行かなかった事実に結び付けたのでは無かろうか。

前の松本勘太郎氏の調査に寛文六年としてあるのを或人は評して、此年に藤堂家が、関口水道工事の助成を勤めた年であるからの推測では無いか、と言って居た。

要するに水道工事で功を成したと見る説と、其任に勝へなかったと見る説と両説あるのだ。

芭蕉は、土木の知識があった ト尺の話には、当座の口過ぎに、水道工事に関係した趣に書いてあって、土木に就ての知識の有無に関しては、何も言って無いが、芭蕉は水利土木の知識を供へてあったと伝へられて居る、喜多村信節の「庭雑録」に。

当時玉川、千川両水道共に、町年寄支配なれば、彼者(芭蕉)さやうの工夫者なりしかば、試みに差図を計らはせ、

とあって、工夫者であったとしてゐる、又田中善助氏の調査に。

藤堂新七郎の隣家に新七郎の親戚なる西嶋八兵衛住めり、水利土木の事に詳しく、様々功績あり、為に今上御大典の砌(みぎり)、贈位ありし人なり、新七郎邸に出入せし芭蕉は、自然西嶋の為す所を見、それが江戸水道工事に携はる因となりしならん。

(二四頁)

 
 
 
 
 
 
 
 
芭蕉は何役を勤めたか
_ とあって、水利土木の知識は有ったと報じて居る。

上の「庭雑録」に玉川、千川両水道とあるが、芭蕉が関係したのは玉川上水でも千川上水でも無かった、神田上水である、神田上水といふのは、多摩郡井の頭の池から流出するのを、神田に疎水する水道のことである、如何なる行違ひから間違ひを生じたのか。

何役を勤めたか 芭蕉が何役を勤めたかに就て、ト尺の話では、水方の官吏としてあるが、之には異説が多くて明瞭でない、一々其異説を掲げることは繁雑に堪へないから、一括して掲げる。

神田上水道修築工事の傭夫となって、効を終へて薙髪
(ちはつ)したと云ひ、或は、藤堂家より上水道再修の御手伝として、松尾忠右衛門掘割の普請奉行たりと云ひ、或は、水道工事の奉行中坊氏が、芭蕉をして工事の設計を為さしめたと云ひ、或は、幕府の作事方市兵衛に寄食して、工事の設計に関れりと云ひ、或は、会計方と為って、官金を拐帯し逃走して所罰を受けたと云ひ、或は、書記役なりと云ひ、或は就職中酒色に耽溺した。

などと言はれる、一々之を批評するもうるさいが、陪臣で而も浪人した芭蕉を、藤堂家から手伝ひに出したとか、工事奉行が奈良奉行たりし中坊氏であるとか、官金を拐帯したとかいふことは、信じられるものではない。

就職に就て疑ひ 伊賀の竹二房は、其著「芭蕉翁略伝」に、芭蕉が工事に携はったことに就て疑を残して居た、左に。

愚按、小石川水道に功を遺されしといへること分明ならず、一説に松村市兵衛と称して、幕府の普請方を司り給


(二五頁)

 
辞職した年次
 
 
 
辞職の事情
 
 
 
_ へしといへり、今猶某家普請方を司りて両家侍り、位牌、印譜、反故等今に存ると云々は、藤堂家を憚(はばか)って、松尾を替へて松村と称し給へしものか、又松村家は素よりありて、其食客に侍りしを、芭蕉翁の才能をかりて水桶の功をなしたるものか、然れども、位牌、印譜の存在するをもて見れば、一説実事を得たるものか、二十九歳にて東都に下り、三十一歳にして薙髪し給ふ、其間僅に三年なり、乍去(さりながら)考ふる所なし。

とて、疑点があるが、考証する余地が無い、と言って居る。

就職の年次は不明、辞職は延宝二年か 水道工事に就職したのは、寛文十二年か延宝元年(寛文十三年)か明かでない、又辞職した年も分って居ない、 許六は、芭蕉が四年間在職したやうに書いてあるが、夫れも明かでない、俳諧師になった為に薙髪したのが延宝二年だから、辞職は、二年より以前と見るべきであらう、若し許六の言の如く四年在職したとすれば、延宝三年か四年まで在職したことになるから、工事に関係しながら、片手間に俳諧師をしたものと見なければならない、何故ならば、薙髪は俳諧師になったという記念であり、又延宝二年には既に其角が入門しているからである、故に水道工事の方を辞職したのは、延宝二年と見るべきである。

辞職の事情 芭蕉が、土木技術の知識を所有して居たならば、左まで早く辞職するには及ばないことと思ふ、夫れを間もなく辞職したに就ては、其処に何等かの事情が潜在して居たものと見られる、世人の一般に認める所は、「ト尺の話」に、風人の習ひ俗事にうとく、其任に勝へざる故にや、とある如く、其任に勝へなかった為と見て居る、第三者から見れば、いくらでも見方はある、何等かの不満が有った為とも見られ、浪人上り俳諧師上りの痩男などは、


(二六頁)

 
工事就職当時の居住地 江戸の実業方面には使ひ道が少ないと自覚して、自力更正を計ったとも見られ、又は、江戸の俳壇に新旗幟(きし)を立てて見ようと自覚した為とも見られる。

居住地 延宝の初め頃、芭蕉の居住した所は明らかでない。

水道工事に従事して居た頃、屡々
(しばしば)小石川の水道の分岐点なる関口付近に逍遥して、其風景を賞したと伝へられる、其旧跡を記念に、後人が関口に塚を築き、又庵を建てたのが、今猶残って居る、沼波氏の芭蕉年表に、芭蕉が小石川に住居したことが見えて居たが、関口付近であったものか。

芭蕉庫 神田駿河台下に、延宝の頃、奈良奉行中坊秀時の屋敷が有った、其屋敷の中の庫に住んだので、後其処を芭蕉庫と呼んだと伝へられる、是は中坊氏の江戸屋敷の留守居役濱嶋某が、伊勢安濃津藩の出身であった所から、芭蕉が濱嶋氏を手頼って、此庫に宿ったのだとも言はれる、一説には、芭蕉庫は、天和二年深川の芭蕉庵が焼けた際、仮に居た所だとも言はれる。


(二七頁)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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