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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 俳諧師  貞徳流の芭蕉
_ p.5




○延宝二年
31
 
 
 
 
 
剃髪して俳諧師になる
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第三章 俳諧師

 貞徳流の芭蕉

宝二年(三十一歳)、芭蕉は、撫で附け頭の十徳姿で俳諧師になった、剃髪して素宜と名乗った。

二代目高山麋塒の記に。

芭蕉は・・・松尾甚七郎と云ひ、江戸へ出て幽山の執筆たりし頃、撫でつけになる時の発句

    我が黒髪撫でつけにして頭巾かな

其後学問歌学の執行成て、・・・深川に住庵を結ぶ。
とある、撫でつけ頭になって、頭巾を冠って、俳諧師をしたのであらう、俳諧師になれば剃髪するのが其時の世の風習であったので、剃髪したのである。仏に帰したのではない。

梅人の話に。

松尾甚四郎
(ママ)殿、剃髪して素宜と改められし時

    衣更着は十徳をこそ申すなれ


(二八頁)

 









其角が入門
 
 
 
 
 
 
_ と杉風斯く申送りぬ。

とあって、俳諧師になって、剃髪したことを杉風に披露して居る、次に掲げてあるやうに、簡単に衣の裾を押切って、十徳姿に早変りしたものと見える。

湖中が言に。

延宝二年甲寅行年三十一の歳薙髪し給ひ・・・

とある、以上の事実を併せ考ふれば、俳諧師になったのは延宝二年であらう、後年芭蕉は、剃髪しても僧ではないと言ったが、発心からの剃髪でなくて、時の風習に慣れた剃髪だから、僧でないと言ったのであろう。

此頃の芭蕉の生活は、幽山や他の俳諧師等の執筆の役を勤めたり、点者をしたり、傍ら筆耕も手習師匠もしたり、何でもして生活を営んだことと推測する。

此時芭蕉は貞徳流の俳諧師であった、貞徳流とは如何なる風体かは、京都遊学の條(五頁)に述べて置いた。

歳 螺舎(たにしのや)其角が入門した、年一四。

螺舎は其角が初名である、其角の履歴は、天和三年五月「虚栗集」の成った條に掲げる。

歳の作

      
十二月二十九日立春
    春やこし年や行けん小晦日  (千宜理記)


(二九頁)

 
俳諧師に転向した情勢
 
 
俳諧師による情勢分析
_     針立や肩に槌うつから衣   (五十番発句合)

諧師に転向した情勢

水道官吏に就職したのは当座の凌ぎであった為に、間もなく辞職したものか、或は見込が立たなくて切上げたものか、又は生活苦の圧迫が益々甚だしかった為か、遂に辞職してしまった、同時に、青雲の望みも放擲
(ほうてき)したものの如く見られる。

江戸へ初て出て来た頃の和漢の学力の程度は、「貝おほひ」の條に述べた通りで、大略想像がつく、未だ声名も聞へず、学芸も成熟して居なかった、又何を為やうにも其道の芸はない、既に職を離れて生活は苦しい、其中に、ともすれば、花鳥の情味にひたる、斯うなって来れば、俳諧師の外に道は無いと思ったことと推測する。

延宝、元禄の頃、俳諧師になる人々の一般の経路

織留(西鶴 元禄初年)に。

俳諧といふもの、是れ歌道の一体なり、昔は世をひまになす人、或は神主、又は、武士のもてあそびにしてけるを、近き頃、世上にはやり過ぎ、人のめしつかひの小者下女まで、いたさぬといふ事なし。

とあって、小者下女迄点取をする位流行したといふのである。斯く点取がはやれば、自然点者が多くなる訳である。

永代記(随流 元禄五年)に。


(三〇頁)

 
_ 此度羽二重(俳諧書の名)に入りし京中の点者六十人に及べり、一両年過ぎたらば、いかさま百人に余るべし、斯く多数になりても、其道立つことあらば有がたきことなれども、片手にては煙草を切り、片手には烟管をみがき、事いそがしく取まぜたる点者もありとかや。

と有って、点者が益々多くなる、其中には、片手間仕事に点者をするいかさま者のあるのは怪しからん、と憤慨したのである、斯く点者の殖ゑるのは、点者の収入が良かったからである。

篇突(31-1.gif (857 バイト)邨の序 元禄十一年)に。

今の俳諧宗匠を見るに、おのが家職に怠り、家貧なれば、俳諧に徳ありとて、頻
(しき)りに点者となれり。

とあって、元禄の頃も、点者は暮しよかったのである。然らば、どんな者がどんな工合に点者になったか、といふに。

花見車(轍士 元禄十五年)に。

点者となるも、牢人して奉公を構はれ、町々の家請状にも嫌はれ、本と手も無ければ伽羅の油の店もかなはず、点者とはなれるなり、又は出家にはなりたれども、何ぞ仏弟子に俗やなからん、美はしき女をいましめ、甘さうな鯛鰻を服くせぬことの損を思ひ、高みよりころげ落ち、衣の裾押切れば、忽ち十徳の姿となり、心やすくちょろりと点者になるなり、親の譲りは受けたれども、米の買置に倒され、分散になりて、大根売はさながらにならず、又職人には生れ来たれど、細工が不器用でのらをかはき、謡屋にて附合ひたるを頼みに点者になりたるも多

(三一頁)

 
_ し、是皆古へを恥ぢて、先祖を隠すは、遊女の身を恥ぢるにちがはず。

とあって、点者や執筆になるには、資本いらずに造作なく出来る、其上収入は相応に多い、誰も彼も多少心得のあるものは点者に転向する訳である。併し点者という商売は、卑しい職業であったと見えて、身元を隠したといふ、夫れが、遊女になる女が身元を隠すのと同一轍
(どういってつ)だ、と点者を嘲(あざけ)った所などは、愈(いよいよ)以て点者の卑しかったことが知られる。

斯の如く、点者になるのは、極く落ちぶれたものゝすることで、恥も外聞も構って居れないものゝする職業であった、芭蕉も此の経路を通って来たものでは無かろうか。

上に引証した書物は、何れも上方関係のもの計りで、江戸関係のものゝ無いのは、書物の都合上止むを得なかった、併し当時の江戸の情勢も、大体に於て上方と異りは無かったから、之を江戸に適用しても差支なからうと思ふ。

一体芭蕉は、武家奉公だとか、武芸修業とかいふことが嫌ひで、小唄や狂句の類が好きであった為、終に俳諧に逆戻りしたので、必ずしも落ちぶれた結果とは見られないが、終局が俳諧師であった、其ことを、貞享四年の行脚の門出の時に、次のやうに書いてゐた。

狂句を好むこと久しく、終に生涯のはかりごととなす、・・・

といひ、又幻住庵記に。

無能無才にして此一筋(俳諧)につながる。・・・


(三二頁)

 






○延宝三年
32
 
 
 
 
 
 
 
嵐蘭入門
 
 
 
 
西山宗因東下
_ と自白して居る。

芭蕉が俳諧師になった延宝二年の頃、江戸の俳諧師の中最も名声の高かったのは、幽山であった。芭蕉は幽山の執筆役をした、又点者もしたけれども、延宝末年頃になっては、他の俳諧師の如く点者をしなかった、一向に研究といふ方面に向って居た、是は芭蕉の俳諧の主義が、他の俳諧師と異って居た計りでなく、芭蕉が潔白の気質から、博奕
(ばくち)に類した点取を嫌って居たからであらう。

宝三年(三十二歳)、松倉嵐蘭が入門した、時に年二十七、八歳。

嵐蘭の履歴は、元禄六年八月死歿の條に掲げる。

歳の作

    年や人にとられていつも若夷 (千宜理記)

    
町医者や屋敷かたより駒迎ひ (五十番発句合)

歳大坂の俳士西山宗因が江戸へ来た。


延宝三年五月、談林派の開祖たる大阪の西山宗因が、新風体をかざして江戸に乗込んで来た、江戸の田代松意等は之を歓迎して、談林の百韻を興行した、又其十一月、談林十百韻を上梓した、此時宗因の句に、左の名吟があった。


(三三頁)

 
 
 
 
 
 
 
談林風俳諧とは

_     さればここに談林の木あり梅の花

梅の花とは、自分を謂ったので、其自尊の威風、全く江戸俳壇を呑んで居た、世に之を「江戸談林」と呼んだ、実に貞徳の古風中に起った所の一大霹靂
(へきれき)であって、江戸の俳諧師の之に帰行する者が頗る多かった、此時(五月)芭蕉も、幽山、信章等と宗因歓迎の俳諧興行があった。

談林風とは如何なるものか、

談林風は、宗因が大坂で始めて唱道した新俳風で、貞徳流の古弊を打破して、新たに滑稽の一生面を開いた流派である。宗因のいふことに、

抑俳諧の道、虚を先として実を後とす、・・・古風当風すいたことして遊ぶにしかじ、夢幻の虚言なり(和蘭陀二番船)

とて虚を主として、滑稽に遊ぶものとして居る。

虚を主とするといふのは、社会や道徳界の実生活からの拘束を避けて、虚なる夢幻の中に在って、すいたことして、自由に滑稽に遊びたいといふのであらう、此場合、無論連歌の形式による拘束や、貞徳風の俳諧の窮屈な不自由の拘束を避けて、夢幻に勝手に遊びたいといふのが宗因の心意であらう。

そこで古風の古弊を捨て、新奇を求めて、軽快な言葉で、遊戯的におかしく之を句面に表現したものである、特に詞の使方は新らしく、事物の観方は珍奇に、異国情調を取込む等の事は、最も恰好の手段であった、けれども、後


(三四頁)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗因履歴
の芸術的な蕉風の俳諧とは又異って居た。

談林風が、俳諧の新派として認められるやうになったのは、寛文の末頃である、延宝元年「西翁十百韻」が板行されて世の目標となった頃か、若くは其より少しく前のことであらう、丁度芭蕉が始めて江戸へ下った頃のことで、左程古いことではない、其目標にされた「西翁十百韻」所収の句は、何れも軽快な調子で、面白い言葉を使って、言語の上の遊戯が専一であったので、古風に飽きて居た人々の歓迎を受けた、夫れで談林風が遽
(にわ)かに勃興して来たものと見える、が面白い割合に奥行が無くて低劣であった。

宗因履歴 宗因は肥後八代の人、国主加藤候の家臣なる八代の城代加藤正方へ仕へた、寛永九年主家断絶の時、浪人して京都に来て、連歌師里村昌琢の門に入って、連歌を学んで、連歌の月次宗匠となった、同十三年、松永貞徳の門に入って俳諧を学んで、俳名を一幽と称した、同十九年、大阪天満に移って俳諧をも業とした、遂に軽快なる談林風の一生面を開くに至った、延宝三年江戸へ来て大に談林風を鼓吹し、「談林十百韻」を板行した、其後八年を経て、天和二年三月二十八日大坂で死んだ、年七十八、天満の西福寺に葬った。


(三五頁/本頁p.6に続く)

 
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