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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 俳諧師  蕉風体樹立の芭蕉
_ p.8
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第三章 俳諧師

 蕉風体樹立の芭蕉

延宝四年から同七年頃までの間、何れの俳諧師もが引掛った如くに、芭蕉も亦談林風にかぶれた、其句作も亦、談

(五六頁)

 








○延宝八年
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蕉風確立への道
 
 
 
 
 
桃青門弟独吟二十歌仙
 
 
_ 林風の比喩や縁語や洒落、道化等に堕して全く遊戯的であった、然るに、延宝六、七年頃から、遊戯的の談林風が俳諧の真味で無いことを知って、徐々に之を放擲(ほうてき)した、夫れと同時に、自分の主義、理想とする直感的自然吟を標的として進んで行った、此の直感的自然吟が即ち芭蕉風であって、貞徳流でも無く、談林風でも無く、別個の新俳風である、此の新俳風を見付け得たのは、談林風の中を経過して来た為である。若し、古風計りを知って談林を知らなかったら、斯うした改革は為し得なかったであらう、夫れで芭蕉は、宗因を「此途の中興だ」と言ったのである、斯くて、新風体の主義理想は大体目鼻が附いたけれども、まだ句作の形体や調子が整はない、之を整へる為に、先賢の偉業を参考にして研究した、即ち老荘の説を尋ねたのも、杜李の詞を味ったのも、西行、宗祇の誠を探ったのも、皆其為である、之が蕉風の樹立である。

1 初期撰集(一) 延宝二十歌仙

宝八年(三十七歳)四月「延宝二十歌仙」が成った、一名「桃青門弟独吟二十歌仙」といふ。

この撰集は、螺舎(其角)が十七歳の頃から着手したものだとあるから、延宝五年頃から取掛かったものである。同八年四月に出来上り、翌九年に板行した、歌仙は杉風、ト尺、厳泉、一山、緑糸子、仙松、ト宅、白豚、杉化、木鶏、嵐蘭、揚水之、嵐亭治助、螺舎、厳翁、嵐窓、嵐竹、北鯤、岡松、吟桃の二十人である。


歌仙の中に桃青の名は見えない、然るに後世、之を「桃青二十歌仙」の題簽を添へたのは、俳士暁台が、之を出版する時命名したのだと言はれて居る、此の二十歌仙に、追加(独吟館子)一巻がある、此追加一巻が桃青の作で無


(五七頁)

 
_ いかと言う人もあるが、矢張館子であらう、歌仙中、嵐亭治助は後の嵐雪のこと、螺舎は其角のことである。

此歌仙を見て、蕉門の門戸の堂々たること、門下の済々たることを窺ふことが出来る、併しながら当時猶談林風極盛の時代であって、此等蕉門の士は、談林風から全く脱出するまでには進んで居なかった、唯新俳の萌芽が、所々に発露しかゝって居る所が窺はれる丈けであった、此の有様を形容して、暁台は次の如く評した。

「桃青二十歌仙」は画龍なり、画龍ありて後真龍あり、「冬の日」五歌仙是なり、世上今画龍を見ずして何れの処にか真龍を求めむ・・・

此評は、延宝二十歌仙が貞享元年の「冬の日」の前駆をなして居るといふのである。

      歌仙の二三

    誰かは待つ蝿は来りて郭公    杉風
    遊化老人序を述て後上戸を待つ  ト尺
    猫の妻夫婦といがみ給ひたり   ト宅
    焼みその五色にけぶる花の雲   嵐蘭
    仙人の明店あれて月ばかり    揚水之
    霜朝の嵐やつゝむ生姜味噌    治助
    月花を医す閑素栖野分の名あり  螺舎


(五八頁)

 
其角の田舎之句合 _     残る月羽箒の影田鶴鳴て     館子

2 初期撰集(二) 田舎之句合

月、其角の「田舎之句合」が成って、芭蕉が之に勝負の判を加へた。

「田舎之句合」は、其角が、農夫と野人とを左右に分け、二十五番五十句の句合を綴ったのである、農夫といひ野人といひ、何れも其角の仮名である、此の時、先きの螺舎は既に改名して其角と披露して居た。

「田舎之句合」を知るには、嵐雪の序文が大に参考になるから掲げる。

田舎之句合 序

桃翁栩々齊にゐまして、為に俳諧無尽経をとく、東坡が風情、杜子が洒落、山谷が景色より初て、其体幽になだらかなり、練馬の山の花のもと、渭北の春の霞を思ひ、葛西の浦の月の前、再江東の雲を見ると、螺子此語にはづんで、農夫と野人とを左右に分ち、詩の体五十句をつづる、章のふつつかに、語路の巷のまかり曲れるをもって、田舎とは名けたるなるべし、仍これに翁の判を得たり、判詞、荘周が腹中を呑て希逸が弁も口にふたす、遠くきく、大江の千里は百首の詠を詩の題にならひ、近所の其角は俳諧に詩をのべたり、嗚呼千里同腹中なることを知る、知るといへば我是を知るに似たり、知らずして爰に筆をとる、又知らざるなり。
延宝八歳次庚申仲秋日  嵐亭 治助 謹序


芭蕉が談林風に飽きて、之を捨て初めたのは延宝七年頃からと見える、又芭蕉が漢詩を取入れて、句体や調子に整


(五九頁)

 
_ 理を加へ初めたことも、同七年頃からと推測される、斯うして芭蕉は、漢詩の変遷を参酌して、俳諧をも其如くに年々新らしくし、又芭蕉風を幽玄に築き上げて居たことを「常盤屋之句合」の跋に於いて述べて居た、芭蕉の此の漢詩取入の努力が、甚だしく門下に響いたらしく、其角は漢詩を取込んで、奇抜な趣を装うて新らしがって居たし、嵐雪は漢詩の幽邃婉(ゆうすいえんれい)な様を羨ましがって居た。

此等のことが、嵐雪の序文で知ることができたと同時に、句合の句によって、漢詩調の横溢して居るさまを、裏面から知ることが出来た、猶ほ此序によって、蕉門の徒の溌剌
(はつらつ)たる意気の旺盛なることが目についた。

    田舎之句合 判詞
      左  持
    霞消て富士をはたかに雪肥たり    ねりまの農夫
      右
    菜摘近し白魚を吉野川に放いて見う  かさいの野人
先、左の句は巻頭の一句と見えて、豊かにして長高し、また初春の体、霞みもやらでありありと見えたる不二のけしき、雪肥たりといふところ奇なり、古人春雪痩たりなどとつくれる便多きにや、右の句、菜つみといふより吉野川にしら魚をねがひたる一興尤妙なり、山の姿、川の流見処多し。

句も判詞も、漢詩を取扱った所に、彼等の誇らしさが見える。


(六〇頁)

 
杉風の常盤屋之句合 _ 3 初期撰集(三) 常盤屋之句合

月、杉風の「常盤屋之句合」が成って芭蕉がこれに勝負の判を加えた。

「常盤屋之句合」は杉風の撰で二十五番五十句から成って居る、前の「田舎之句合」と姉妹巻である。

  
常盤屋の句合 跋

詩は、漢より魏にいたるまで四百余年、詞人才子文体三たび変るといへり、和歌の風流代々にあらたまり、俳諧年々に変じ月々に新なり、今こゝに青物の種をあつめ、二十五番の句合となして予の判を乞ふ、まことに句々たをやかに、作新しく、見るに幽に思ふに玄なり、是を今の風体といはんか、且これを名けて常盤屋といふは、時を祝し世をほめての名なるべし。・・・
  于時延宝八庚申季秋日     華桃園(芭蕉)


此の句合の句々がたをやかで下卑た所がなく、作に新らしみを感じられて、而も幽玄の趣を備へて居る、是が吾々の今の風体であると、芭蕉は満足の意を表して居る所が窺はれる、此の「今の風体」といふのが、直感的自然吟を主義とする蕉風の体である。

斯く、「常盤屋之句合」が蕉風体を備へて居ることを誇る所を見ると、蕉風といふ主義理想は、延宝八年には既に確立してあることを証し得ると思ふ。

    常盤屋之句合 判詞


(六一頁)

 
_       左  勝
    だいだいを蜜柑と金柑の笑て日
      右
    水又栗栗を清しといはんとすれば
橙を蜜柑金柑の論は、作の中の作有て虚の中に実をふくめり、数句の中の秀逸、此句において荘周が心あらん、尤玩味すべし、水又栗の句は、栗又水を清しと打かへしたる心、よく言残し侍れども、心余りて言葉足らずなどと難ずる方もあるべきや、只左の句を以て類なき勝と定め畢(おわん)ぬ。

是にて、漢詩の上計りでなく、荘周の寓言によって、虚実の探求をして居たことも知られる。

句の形体、調子を整ふるに努力した例

    田舎之句合

    第十七番
      左
    砧の町妻吼ゆる犬哀れなり      農夫
      右  勝
    芋を植ゑて雨を聞くかぜの宿り哉   野人


(六二頁)

 
枯枝に烏の句 _
左の句、里の砧と云はんは古しとて砧の町といふ、妻恋ふる鹿は珍らしからずとて妻吼ゆる犬と云ひしは、猶ほ作の中の作ありて聊(いささ)か作り過ぎたるにや、又芋の葉に雨を聞かんは、まことに冷して淋しき体尤も感心多し、是れ孟叔異が雨の題にて「担声和月落芭蕉」と作れる気色に似たり、右勝たるべし。

    常盤屋之句合

    第十五番
      左
    里芋の長なり畠中の庄司とやらんは
      右  勝
    薯は山を奪って金輪際に自然生
里芋興ありて実なし、右の山の薯(いも)自然薯蕷(しょよ)生の字用ひんこと如何有るべきや、但し自然石、自然木等の類ひにて苦しかるまじきか、其上五文字力ありて、一句も勁(つよ)く聞え侍るまゝ、右勝たるべし。

芭蕉植ゑてと言うべき所を、芋を植ゑてと言った如き、自然生の句の上五文字を「薯は山を奪って」と勁く言ひかけた如きが、努力の跡を忍ぶに足りる。

4 「枯枝に烏」の句

秋、枯枝に烏の吟あり、新俳蕉風体倡道の際の代表句として人口に膾炙
(かいしゃ)されてゐる。

(六三頁)

 
_ 池西言水が、延宝九年に編集した「東日記」に、芭蕉の句が多く入集している、多くは延宝八年の作句と認められる、左に。

    愚にくらく棘をつかむ蛍かな


    花木槿(むくげ)はだか童のかさしかな

    枯枝に烏のとまりたるや秋の暮


などで、其中に枯枝の句が見えて居る、此後九年を経た元禄二年の「あら野」には、仲秋の題で。

    かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉
    鍬かたげ行く霧の遠里         素堂

とある、初め「とまりたるや」としてあったのを、後に「とまりけり」に改めたのである。
わざと技巧を弄した跡がない、単なる写生である、説明を要さないで意が通じる、烏のと云った所に妙味を覚える、新俳蕉風体興起の際の代表句で最も人口に膾炙され


(六四頁)

 
て居る。
句意は、仲秋淋しい田舎の夕暮である、夕陽は枯木にかゝり、晩鴉枝に淋しく、四顧荒涼と云った所、此の田舎目前の景に、秋は哀しく万感愈々湧くさまを舒したのである。
素堂の附句は、日は既に没したるに、帰りの野ら路はまだ遠く、農夫は鍬をかたげて遙に淡霧暮煙に入った所である。枯枝の晩鴉と遠里の農夫と、其配合の妙なる一幅の好画題である。
再三言ふことであるが、談林派の野卑な遊戯的な俳諧を、優美の自然のまゝの芸術的に改め得た所が、芭蕉の理想に達した所である。此句を蕉風の代表句と賞賛するのはこゝにある。

一般に認めらるゝ所によれば、枯枝の句は、想も調も形も皆備はって居るので、蕉風開眼の句として称揚されて居る、けれども、まだまだ、古風や談林を脱していない所が沢山あるから、蕉風開眼の時期は、此句を以て劃然たる区画を定むることは妥当とは言はれない。


(六五頁)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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