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山崎藤吉著 「芭蕉全伝」
編  第 章 隠遁  深川に移る
_ p.9




○延宝八年
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深川に移る
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第四章 隠 遁

 深川に移る

延宝八年(三十七歳)、冬、江戸市中の喧騒な住居を棄てて、深川六間堀に隠遁した。

越人の「鵲尾冠」に。

芭蕉、江府本船町の囂
(ごう。<訓>かまびすしい)に倦(う。「あきる」の意)み、深川泊船堂に入られ。・・・

とある、又「続深川集」(二世梅人)に

九とせの春秋、市中に住侘びて居を深川の辺りに移す、長安は古来名刹の地、空手にして金なきもの航路難しといひけん人(白楽天)のかしこく覚え侍るは、此身のともしきゆゑにや。
    柴の戸に茶を木葉かく嵐かな


とある、其「市中に住侘びて」が移居の原因である、此句は移って来た草庵に、冬の嵐が草庵の附近にある茶の落葉を吹捲
(まく)って居るさまである、草庵の傍には茶の木が植ゑてあったのである、寛文十二年、江戸へ来てから九ヶ年間

(六六頁)

 








_ 市店の囂々たる間に流浪して居たが、愈々名利を放擲(ほうてき)して深川へ隠れたのは、貧乏を侘びたのだとある、九ヶ年目は延宝八年に当たる、長安は古来名利の地といふのは、白楽天が張山人の嵩陽に帰るを送る時に、「長安古来名利地、空手無金行路難」とあるのを指したのである。

芭蕉の門人の高山麋塒は、芭蕉が市中を引払って深川へ移ったのを、学問が成功したから引移ったものと見て居た、麋塒の咄に。

其後学問歌学の執行成て、小田原町鯉屋市兵衛杉風、其子小兵衛と入懇にて、此下屋敷深川にあり、是に住庵を結び、芭蕉庵と称す。

とある。

幻住庵記(芭蕉、元禄三年)には、延宝九年(天和元年)に移ったやうに書いてあるが、明瞭でない、左に。

石山の奥、・・・いとど神さび物静かなる傍らに住み捨てし草の戸あり、・・・幻住庵といふ・・・予(芭蕉)また市中を去ること十年ばかりにして、五十年やゝ近き身は、・・・卯月の初めいと仮初に入りし山の。・・・

とある、幻住庵記を書いた元禄三年から逆算して十年目は、天和元年に当るからである、「ばかり」とあるのが確定的の辞ではない、国文としては装飾的に使ふのだから、「十年」と確定的に見られない、計数の上からは、十一年目が延宝八年に当るから、此処の「十年ばかり」とあるのは明瞭を欠いて居る。

天和二年三月出来た「武蔵曲」に、芭蕉の署名が始めて見えて居る、此の「芭蕉」といふ名の起りは、植ゑた芭蕉


(六七頁)

 
 
 
 
 
 
 
深川に移る前の居所
 
 
 
 
 
 
 
隠遁とは
_ が繁茂したので、人々が草庵を芭蕉の庵と呼んだ所にあるのだ、さうすれば、其繁茂したのは其前年なる天和元年の夏、即ち延宝九年夏でなくてはならぬ、すると深川へ移ったのは其前年延宝八年の冬になる訳だ。

要するに、深川へ隠れたのは、延宝八年であらう、旧説には延宝九年(天和元年)としてある。

延宝末年頃の居所 (深川に移る前の)

延宝末年頃は、小田原町に居たか、本船町に居たか、一定した所は無かったと見る外はない。

翁(芭蕉)杉風に被落付候後、本郷辺にも被居、其後濱町住居、本所高橋辺にも居候由、此義は杉風弟の家鯉屋庄兵衛咄被申候。

とあるが、住所は明瞭に判って居ない、越人は本船町に居ったと言って居る。
深川へ移る前の頃、某老人が、朝夕芭蕉の居所を訪うて、仏教の話に心機相投合して、互に相往来したと伝へられる、其頃猶外にも芭蕉を訪うて交際を求めたものが多くあり、猶又子供の手習に来るものが多くあった、其人々に対して芭蕉は常に語って。

各々、先ず手蹟を能くせよ、筆は半学なり。

と言ったと伝へられる、其真偽は保証し難いが、延宝末年頃の芭蕉の日常は、斯うも有ったかとも推測される。

隠遁とは

寛文六年、旧主君の死亡した時、主家を立去った事実を以て遁世だと評されて居た、けれども、其後水道工事に関


(六八頁)

 
_ 係した事や、仕官懸命の地を羨んだことを懺悔した点、又延宝八年以前の作品に遁世者らしいものがない点から見ると、主家を立去ったのが遁世で無いことが認められる、だから沼波氏は、芭蕉も「貝おほひ」を書いた頃は、中々な通人だったのです、遁世といふのは、実は「士を止めて」通人になった事を言ったのです、と言って居た、延宝二年に剃髪して素宣と称したが、是亦遁世したのでは無く、俳諧師になった為の剃髪にしか過ぎなかった。

然るに、今回深川へ移ったのは、市中を侘び、名利を放擲して、市外へ隠れて、世間的の交際を絶つ為であった、即ち隠遁したのである、是までは隠士などと自称したことは無かったが此後は自ら隠士と言った。

杉風宛芭蕉書状 元禄二年正月附に

此方儀は隠士故、五ヶ日も過ぎ候て可参候。

とある、是は杉風が年始に来たのに対しての断りである、自ら隠者を以て任じて居たことの適例と見られる、又越人が芭蕉を評して隠者の実なる者と言ったのも深川に隠れた以後の芭蕉を評したものである。

鉄声宛越人書状 正徳五年九月附に

芭蕉は近代隠者の実なるものなり、念仏申、仏に親み候様なる隠遁にてはなし、古人の風有て、天性風転。・・・

とある、此評は意味深長でよく事実をうがって居る、許六が「風俗文選」の作者列伝に「芭蕉・・・入深川芭蕉庵出家年三十七」としてある、この出家は隠遁の意味で、仏に帰したといふ意味ではない。

要するに、芭蕉は、市中を去って世俗の交りを絶ったが、俳諧を捨てたのではない、隠遁しても俳諧は捨てないと


(六九頁)

 
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_ いふのである。

(七〇頁/本頁p.10に続く)







編  第 章 隠遁  深川に移る p.9

山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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