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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 隠遁  泊船堂と称す
_ p.11
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第四章 隠 遁

 泊船堂と称す

越人の「鵲尾冠」に。

芭蕉、江府本船町の囂
に倦み、深川泊船堂に入られ。・・・

とあり、又揚水の句に。

      赴泊船堂途中感

    波路くろし夕日や埋む水小舟

とあるのは、何れも芭蕉庵を指して居る、又貞享四年、木因が芭蕉と伊勢の多度権現に参拝した時、木因の落書に、
武州深川の隠 泊船堂主芭蕉翁 云々と書いたといふ、此の事は「桜下文集」に見えて居るから慥
(たしか)であらう。

許六は、芭蕉がまた京都に居た頃、一時泊船堂と号したと言って居たが、其れは江戸へ来る前即ち寛文中のこと


(七二頁)

 








 
 
 
 
 
 
 
草庵の模様
_ である、此処では深川へ来てからの号であるから混同してはならない。

「茗荷」に泊船堂、鮫洲泊船寺にあり、とあるのは別であらう。

泊船堂の出典は、杜詩の

    窓含西嶺千秋雪   門泊東呉万里船

からだといふ。

草庵の模様

草庵は、六畳か八畳か分らないが、唯一室であった、芭蕉庵は、天和の初めから元禄五年までの十二年間の間に、四度破れて四度結んだ。 夫れで室の体裁が皆一様であったか無かったか判らない、支考は六畳一間だと云ひ、近頃中村不折氏は「ホトゝギス」第十二巻四号に、八畳方九尺、三尺の縁だと書いて居た、支考は親しく見た所を書いたのだから間違は無かろうが、支考が見たのは第四回目の芭蕉庵である、不折氏のは第二回目のである、其為に異ふのであらう。

不折氏は、庵の挿図を書いて、左の説明を加えて居た。

此図は、焼失後、旧の庵を其まゝ再建したもので、方九尺で、三尺の縁が附けてある。

とあるから、新草庵も八畳であったらしい、諸書の記載を総合して見るに、台所が附いて居たともいふ、又竹縁があり、前庭に芭蕉があり、傍に茶の木があり、草庵を囲(めぐ)りて粗末な垣あり、古池あり、井戸あり、北に窓あり、雨


(七三頁)

 
 
 
○延宝九年
・天和元年
38
_ の日は雨漏りがする、盗風が吹込んで寒いので、腰屏風を置いた、こんな模様であったらしい。

宝九年(九月、天和と改元、三八歳) 深川の草庵に貧乏の新年を迎ふ。

    餅を夢に折結ふしだの草枕   (東日記)
春を祝ふべき餅はない、唯餅に折結ふしだの草を草枕とするだけの渡世の状である。

    春立つや新年古き米五升

初案は初五文字を「似合しや」とした、「似合しや」の方が実際に即して居るが、強く聞こえて面白くないので、「春立つや」に改めた、入庵後、甫(はじ)めて新草庵に春を迎えた悦びの色が見える。
通説には、此句は貞享元年の作と言はれて居る、けれども越人は、
此句は、芭蕉、江府本船町の囂(ごう。<訓>かまびすしい)に倦(う。「あきる」の意)、深川泊船堂に入られしつぐの年の作なり。
と言て居るから、夫れに従って延宝九年と仮定する。

      
富家喰肌肉、丈夫喫菜根、予は乏し、

    雪の朝独り干鮭を噛得たり

此句は、延宝八年冬か延宝九年の春か、の作であらう、草庵の貧乏のさまが窺われる。

(七四頁)

 
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編  第 章 隠遁  泊船堂と称す p.11

山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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