_
山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 隠遁  初期撰集(四)次韻
_ p.12
 
 
 
 
 
 
俳諧次韻
_

第四章 隠 遁

 初期撰集(四)次韻

  <初期撰集(一) (二) (三)>

蕉、其角、才丸、揚水 四人の二百五十韻が成って上梓した、「次韻」と名づけた、後人評して「正風は次韻から興った」と言った。

是より先き、京都の伊藤信徳の新意匠に成った「五百七十韻」が世に出てから、甚だしく江戸の蕉門の徒を刺激した、この刺激に因って出来たのが此の二百五十韻である、即ち七百五十韻に次いだのである、「次韻」の題名は其為である、此書の題簽の下に「江戸桃青」と書込んであるのは、京都の信徳に対したものなることは明らかである。

古来蕉門の俳諧を論ずる人々、誰もが此の「次韻」を以て、芭蕉が新俳を興した最初の撰集だと説いて居る。

去来は

先師(芭蕉)の風雅の見及ふ所、「次韻」に改まり、・・・先師の「次韻」起こりて信徳が「七百韻」衰ふ。

と云ひ、越人は支考の「次韻」に関する諸説を駁
(ばく)して。

支考のいふこと、古池の蛙に眼を開いて、爰に天より受続いで自悟すと、汝等は当流開基の「次韻」といふ二百五十韻の集を知らぬか、信徳が「七百五十韻」までは、色々かはりても古風なり、其「次韻」二百五十韻よりが当流ぞ、ここを知らでは新古の分ちは知れぬぞ、汝等は何を以て古いの新しいのといふとぞ、をかし。(不猫蛇)

(七五頁)

 








_ とて、蕉門の俳風は「次韻」から一変した、依て「次韻」から後が蕉風で新、次韻より前は古だといふのである、即ち「次韻」を以て新古の境界の目標としたのである、されば。

俳士吏登は

芭蕉翁始めて正風体の俳諧を見出し給ひて一変の時、はや門人に対して、古いの新しいの論あり。・・・

といひ、俳士積翠は

蕉風始められし時、はや新古の論ありといふ事、延宝九年に此教ありしや、未だ慥
(たしか)なる書を見ずといへども、定めて此事あるべし、蕉風に改めんとして、壇(談)林の工みなるを古しと申されたれば、今是而昨非といへるが如く教へられしにや。

と評した。

以上の如く、「次韻」が新風の始だ、と見るのが普通の見方であるが、厳密に言へば、まだ前から新風の萌芽は現はれて居たのだ、俳士曲齋は。

正風の始は、延宝五年の両吟(芭蕉、杉風両吟百韻)より起り、草体、同九の「次韻」に流行し、草中の草、天和三の虚栗に一変し、・・・翁(芭蕉)始めて俳諧を立給はば、行草とあらんこと諸法の理なるを、草より説き給ふは、談林の虚誕を挫(くじ)かんが為なり

とて、延宝五年の両吟からで、次韻の頃は大分流行して居た時だと見て居た。


(七六頁)

 
次韻の巻頭句 _ 又新風の興り始めを、延宝八年の「延宝二十歌仙」からと見る人もあり、又同年の「田舎之句合」からと見る人もある、又同年の「次韻」からと見る人もあることは、前述の通りである。

「延宝二十歌仙」にしても「田舎之句合」にしても、亦「次韻」にしても、何れも延宝八年のものだから、大した違ひは認めない、其中でも「次韻」が最も眼に附くから、新風は次韻に興ったと言って置いて差支ないであらう。

「次韻」が、新俳の目標となって居ることは、万人の均しく認むる所で、異論は無かろう、此の新しい俳諧を樹立するまでには、形式に捉
(とら)はれた古風の俳諧や、野卑の談林の俳諧を遠慮なく打破し、向上して来たのだ、此の打破して来たことに就て、去来の弁明があるから、こゝに書添へておく。

(およそ)俳諧は、和歌の一体にして、(中略)連歌興行せらるゝ時、未だ定る法式なし(俳諧に法式無きをいふ)、此故に法式は連歌により、粗(ほぼ)、略して今の法式定る
なり、先師此道(俳諧)を和歌に基づけ給ふといへども、法式に於ては古法を旨とし給ふことなり、往々法式を破り給ふ所は、十が八、九は古実によれり、次韻の頃までは多く法式を破り給ふといへども、却
(かえっ)て今は元へ還り侍る。

とあって、研鑚(けんさん)の場合には、古来の規定に拘泥せず、剰(あまつさ)へ打ち破って進んだのが、結局法式に一致して居たといふのである、換言すれば不法而合法といふ所であらう。

次韻の巻頭句 二、三を左に

晋伯倫伝酒徳頌、楽天継
酒功、青(桃青)追之、続信徳七百五十韻

(七七頁)

 
_     あいさつを爰ではしたい花なれど   正長
     又かさねての春もあるべく     常之

       (正長、常之の二句は、七百五十韻の終りの句である、
        芭蕉の「鷺のあし」の句は、常之の「又かさねての
              春もあるべく」に附けたので、発句ではない。)

    鷺のあし雉子脛長く継そへて     桃青
     這句以荘子見矣       
其角
    禅骨の力たはしう成るまでに     才丸
     しばらく風の松におかしき     揚水
    春澄にとへ稲負鳥といへるあり    其角
     ことし此秋京を寝覚て       才丸
    月を連にそゞろ烏帽子をかぶる也   揚水
     笹に徳利を折かたげしや      桃青
    世に有て家立は秋の野中かな     才丸
     詠奥月にかぶ萩をかふ       揚水
    あはれとも茄子は菊にうら枯れて   桃青


(七八頁)

 
 
 
 
 
 
 
七百五十韻とは
_      鮎さびすたり海鼠漸く       其角

次韻全体に就て概評すれば、何れの句にも比喩を弄んで喜び、洒落を飛ばして楽んで居る所が多くて、未だ談林臭味から離れて居ないけれども、其裏に、かすかに直感を其まゝ句に移して自然を捉へよう、と努力して居る所が見える、こゝが即ち新風の萌芽で蕉風の興る所である。

蕉門の徒を刺激した「七百五十韻」とは如何なるものか。

   七百五十韻       京 都    信 徳

      第 一
    江戸桜志賀の都はあれにけり     信徳
     東叡山山麓なる春         如風
    孔子廟朝だつ霞鳥鳴いて       春澄

       此の次に政定、仙庵、走之、正長、如泉、執筆の句
       あり、又第二以下第八までの連句あり、何れも略す、
       但し第五の巻に、

    雁にきけいなおほせ鳥といへるあり  春澄

       の句あり、又第八の巻の始めに、


(七九頁)

 
山口素堂 _       第 八
    八人や俳諧うたふ里神楽       如泉
     かざしの豆腐玉串の霜       信徳

       の句あり、(中略)

    あいさつを爰ではしたい花なれど   正長
     又かさねての春もあるべく     常之

   延宝九辛酉青陽吉旦

以上が「七百五十韻」の大体である、「七百五十韻」の歌仙の一人なる春澄は、本書の始めに於いて「至詞不飾、至実不華、達士賢而少、我友は多くして而もあほうどもなり」と言って居た、之が芭蕉の主義と合致して居た所で、ひどく蕉門に衝動を与えたものと見える、だから其角が「春澄に問へ稲負鳥といへるあり」と言ひかけたのであらう、其結果が「次韻」となって現はれて来たのである。

信徳も春澄も、新俳を興すには余程努力したらしいのに、夫れが終に芭蕉の独りの効に帰してしまって、信徳、春澄を云々するものゝ無いのは、其所に特殊の事情の有ったのであらう。

蕉が新俳を興し得たのは、山口素堂の助力に負ふ所が多い。


(八〇頁)

 
の助力 _ 芭蕉は、延宝四年に、信章(素堂)と「江戸両吟」をしてから以来、素堂の助力を受けて居ることが極めて多い、新俳の代表句の枯枝の吟の脇句も亦素堂が承って居た、素堂自身は斯う言うて居た。

芭蕉庵俗名甚七郎、都の季吟の門に入り、久しく東武に潜り給ひ、俳諧の深き心を学び、正風の俳諧起るの祖なり、予(素堂)叟(おきな)(芭蕉)と共に友として、猶与力すといへども、九つは是を助けられ、一つは之を補ふのみ。

とて、少し許り助力したと言って居るが、素堂の此の謙遜の詞の中に、猶ほ多く芭蕉を援けて、新俳を興すに努力したことが窺われる。

寛文の頃、貞徳門の中で、他に擢んでて清新の句作をした人に松井維舟がある、素堂は維舟と交際が有ったといふことである、其為であらう、素堂も亦、早くから新俳を興すことを心掛けて居たものである、斯うして主義が同じかった上に、同じく季吟を師とした同門の好みで、友交が厚かった、其為に芭蕉と共に事をなし、又芭蕉の事業を援けたのである、啻
(ただ)に俳諧の上計りでなく、生活上に於いても寄与した所が多かった、芭蕉が世に認められるようになった内面の助力は、素堂の親交ぶりの厚さに頼ったものと言っても過言ではない、夫れで芭蕉は素堂を「先生」と呼んだのだ。

芭蕉が新俳を興した裏面には、斯くまで素堂の助力が預って居るのに、卓朗は、芭蕉に正風を興すことを勧めたのは季吟だと言って居た、其言を左に。

季吟は、芭蕉初入の師にして、蕉風発起を勧められし人なり。


(八一頁)

 
芭蕉が新俳を興し得た理由
 
 
_ とある、季吟が勧めて新俳を興させたとは異説である、又一説に、三叟閑談といふのがある、三叟とは季吟、素堂、芭蕉の三人である、此の三人が相談して、芭蕉に新俳を興させたといふのである、其閑談を左に。

梅翁(宗因)なんど、談林の棟梁として、枝になま屁絶えなんだの最中に侍りしを、季吟もなげかしがられ、桃青、素堂と閑談あり、今の俳諧うち和らぐるかたもやと、三叟神丹を練て、桃青其器にあたる人とおして勧められしにより、然らば斯くの趣にやと、枯枝に鳥のとまりけり秋の暮、の一句を定められし。

とある、かゝる説は信じられるものではない、素堂が援助したことを、向を変へて甘く作ったものとしか思はれない、又梅人は、素堂と杉風と芭蕉の三人が、芭蕉庵で新風を建設したものだと言って居た、何れも皆よい加減の推測であらう。

江戸で、芭蕉、素堂等とは別箇に、新俳を興さうとしたものに岸本調和、池西言水などいふ一流の宗匠があった、此等の宗匠も、談林を踏破して、各一風を立てて居る、独り芭蕉丈が新俳の樹立者ではない、然るに、終局、新俳は芭蕉の専有の如く後世から認められたのは、調和や言水の説を信ずるものが少なかった為であらう。

芭蕉の説が信じられ、又門人が良かった為、蕉門が勢を得て来たとはいへ、若し芭蕉が深川に隠遁したまゝ行脚をしなかったならば、其結果はどうか、矢張調和、言水の程度で終ってしまったかも知れない。

蕉が新俳を興し得たのは研究が徹底したことと、見識が高かったことに在る。

延宝五、六年ごろ、京都大阪には信徳、来山などいふ新派の俳家があって、芭蕉と主義を同じくして、新俳を興すこと


(八二頁)

 
_ に努めたが、終に信徳、来山等の調を学ぶ者が無く、自ら腐ってしまって、独り芭蕉の風体計りが、世の歓迎を受けるやうになったことは、時世の然らしめた所だ、と嘯山は言った、又俳士春来は、延宝、天和の江戸の俳風を叙して、江戸紫は、他の企図しても及び難い者だと誇った、是は俳壇の主権が、京都から江戸へ移動し来ったことを言ったのである。

江戸に新俳の興ったことは、時世の然らしめた所には相違ないが、又芭蕉が研究の徹底したことと、見識の高かったことに因ったものたることには異論は無かろう。

延宝八年の「田舎之句合」の序に、嵐雪は、芭蕉が栩々齊
(ククサイ。芭蕉の別号)で俳諧無尽経を講じて、東坡、杜牧、山谷、荘周、希逸等の研究をして居たことを述べて居るが、此等の研究は、延宝八年から始めたのではなく、夫れよりも遙に前延宝五、六年頃からのことと見られる、又其研究は、一応の引合せや参考でなく、相当に徹底して居たやうに感ずる、嵐雪が特に此事を序文に書き出して、無尽経を説くなど言ったのは、芭蕉の講説が徹底したので、余程門人の向上心を唆(さ)った結果であらう、又其角が半詩半俳の句を作るやうになったのも、芭蕉の講説が頗る徹底した結果であらう。

芭蕉が、荘子を「唐土の俳諧」と見たり、「寒山の法粥を啜
(すす)る」と言ったり、越人が芭蕉を評して「貧乏又病身は杜子美(杜甫)なり、句の実なる所は俳諧なから子美に似たり」と言ったり、素堂が芭蕉を評して「髭のなき宗祇」と言ったのは、芭蕉が其等の先哲を研究し私淑して、可なりに轍徹して居たことを窺ふに足るであらう。

(八三頁)

 
万葉集に就ての芭蕉の所見を批評する _ 杜甫、東坡、荘子、寒山等の研究をしたと同じく、万葉集、古今集以下の撰集類、日記類、物語類の研究に就ても、或部分は大抵暗記して居た様子であった、又其等を多く利用したことも、到る所に其跡が認められる。

此等の素養の上に、更に一種の見識を備へて居たことが窺われる、後日不易流行の学説を案出したことなどは、其見識によるものと認める、又万葉集に就ての芭蕉の見識も優れて居たことゝ考へられる、不易流行の説は下に掲げるが、此処では万葉集に就ての彼の所見に就て批評する。

「俳諧芭蕉談」に、素堂の伝ふる所だとて、季吟の物語を掲げて居た、左に。

或時桃青予に語るらく、万葉集を周(あまねく)覚せしに、全篇諸兄卿の選び給ひたるものとは見えず、多くは其人々の家の集を、後に寄せ集めたるものと見ゆとなり、此事予が見識の及ぶ所にあらず、桃青がいふ事を聞てより、大に利を得たり。

とて、諸兄卿が勅を奉して選んだ部分も有らうが、或部分は、作者の家々の集を寄せ集めた丈けのもので、勅撰とは見えないと云ふのである。

前(七頁)にも一寸断って置いた通り、此の芭蕉談は、信を置ける程の良い書物でないので、こゝに掲げた、万葉集が勅撰と見えないといふ話は、一般の人々から疑問を以て視られて居る、猶ほ又或人は、素堂と季吟とは江戸で面会して居ないから、右の話を季吟の話だと素堂が伝へたことは、有り得ないことだと言って居る、素堂が江戸で季吟に会ったか会はないかは判らないが、芭蕉が万葉集の或部分に疑ひを掛けたといふ話は、誰もが真面目で相手に


(八四頁)

 
_ しない位偽説だと見られて居る。

近頃藤井乙男博士の評に

芭蕉が、万葉集を勅撰にあらずと云って、季吟を驚かしたなどは、薬が利き過ぎて居るやうだ。

と評して居た、頗る痛快の評で、吾々も過半左様信じて居る。併し奥歯に物の挟まったように、気掛りが止まないから、其点を述べて置きたい。

元禄時代に、万葉集を専門に研究された人に、大阪の釈契沖と水戸の徳川光圀公があったことは、誰も承知のことである。契沖師も光圀公も、何れも万葉集は古説に勅撰とあるけれども、或部分は勅撰で無からうと言はれた、其理由は、水戸の史臣の安藤為章が、其著「年山紀聞」に書いて居た、其要旨は、

西山公(光圀)釈万葉集をえらび給ふ時、二十巻の中をくはしく考られて、全く勅撰の体にあらず、大伴家持卿わかき頃より私にあつめ置かれたるものなり、と証拠正しく論じ給へり、後に契沖師書置きたる物を見るに、集中全く同じき歌およそ四十八首に及べり、(中略)後の撰集にも、たまたま選者の覚えたがひて、一種の中に再び出でたる歌もあれど、只一、二種のことなり、旧説の如く、万葉集もし勅撰にて、諸兄公以下諸大夫達のえらび給はんには、たとひ十首前後は重複ありとも、四十八首の多きに至らざるべし、さればこそ、家持卿年々見聞に随ひて書きのせ置かれて、いまだ清書に及ばざりし故なるべし。・・・

と有って、契沖師も光圀公も、万葉集の勅撰たることを疑って居た、芭蕉が万葉集の専門家で無かったにも拘らず、


(八五頁)

 
_ 契沖師や光圀公と同じく、元禄時代に於いて万葉集を疑った、其所説が契沖師、光圀公と符号したことは奇妙だ、之に就ては、芭蕉は無論契沖や光圀公から益を受けたのではない、又其説を聞いたのでもない、契沖師も光圀公も、かゝる異説は深く世に秘して居られたといふことである、此の二人の外に、元禄時代に於いて、万葉集に疑ひを掛けた人の有ったといふことは未だ聞かない、されば芭蕉が他人からの受売で無かったことは明らかであらう。

水戸の彰考館では、契沖師が示寂後、漸く契沖が万葉集を疑って居た事実を知ったといふ、又彰考館では、契沖師の疑ひと光圀公の疑ひと何れも世に秘して居たと聞いた、其後数十年、万葉集偽選説などは無かった、随ってそんな異説を何人も知らう筈がなかった、今仮りに「俳諧芭蕉談」の作者が、季吟の物語を偽構したとする、何処からかかる異説を拾ひ出したか、頗る至難の仕事である、また芭蕉談の作者にそんな知識があったとは思はれない。

故に、此の作者が、何処から其材料を捜し出したかといふ出典さへ判かれば、此の芭蕉の万葉集を疑った問題は、型が附く訳だ。其出典の明瞭するまでの間、此の疑問は、芭蕉自身の所説と見ておきたい。


(八六頁/本頁p.13に続く)

 
ヘルプ
 







編  第 章 隠遁  初期撰集(四)次韻 p.12

山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

出来事検索  芭蕉発句集  門人等の履歴検索

掲載しているテキストの無断使用・転載を禁止します。

テキストの使用を希望される場合は、こちらまでご連絡ください。
info@bashouan.com

おくのほそ道 総合データベース
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次

Copyright(C) 2002  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by
webmaster@bashouan.com

_