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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 天和時代  初期撰集(五)武蔵曲
_ p.17
 
 
○天和二年
39
千春編
・武蔵曲
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第六章 天和時代

和二年(三十九歳)、新草庵に春を迎へた。

      元日
    くれくれて餅を木魂のわびねかな  桃青(芭蕉)

句評解 「くれくれて」は、歳の暮れたことを力強く言ひ掛けたのである、餅を搗く音を谺(こだま)に聞きつゝ、元日の朝遅くまで寝た草庵のわびしさである。
此句は、帝国図書館本天和二年の「歳旦発句牒」に収めてあって、桃青を巻頭に置いて、言水や才丸の大家を其次に載せてある、大体江戸を中心に諸国の作者の句が掲げてある、次第不同と断って有るけれども、桃青を主にした様子が見えるので、桃青の声望の漸く昂くなり掛けたことを知り得る。


 初期撰集(五)武蔵曲

月、京都の俳士大原千春、江戸の新俳諧三巻を編集し「武蔵曲(むさしぶり)」と名けて刊行した、此集から始

(一〇〇頁)

 








 
 
初の芭蕉号
_ めて「芭蕉」の署名が見える。

千春は北村季吟の門人で貞徳流を汲んだ人である、後談林の新風に帰して蘇鉄林と号した、尋
(つ)いで又、談林風に飽きて、更に新風を興さうとして江戸へ下り、同志の吟友を相催して、四季の発句、藤匂子、千春、其角の三吟歌仙、麋塒、似春、千春、昨雲、ト尺、言水、暁雲、其角、嵐蘭、芭蕉、峡水、素堂の百韻、及び之に千春の独吟歌仙を添えて三巻となし、季吟の序文を加へて京都で刊行した、連衆は多く蕉門に重きを措いて居た人々である、猶ほ芭蕉に敬意を表して「芭蕉翁桃青」の敬称を用ひて、之を巻頭に掲出して居る、之を以て見ると、千春が如何に談林風に飽きて、蕉門の新風に迎合したかが判かる、此の撰集を「武蔵曲」と命名したのも亦其意味からであらう。

この題号は、千春が「流石におかし桜折ル下女の武蔵ぶり」の句から出たものではあるけれども、蕉風の新俳が流石におかし、といふ意も亦含まれていることは勿論である。

此の撰集で、最も吾等の注意を惹くものは芭蕉の署名である、天和元年の「次韻」には、まだ旧に仍
(よっ)て桃青の署名を用ひて居た、又天和二年の歳旦牒にも桃青として居る、然るに、此の武蔵曲には、芭蕉の署名に改められて居ることである、併し同じ武蔵曲の中にも、桃青とした処もあり、芭蕉とした処もあり、亦特に芭蕉翁桃青とした所もあって、一定していない、併し、連句の方では芭蕉に一定されて居る。

兎に角、此の芭蕉といふ署名を基として、逆算して、深川入庵を延宝八年と知り得ることは都合がよい。

    本書中、芭蕉の句、二、三。


(一〇一頁)

 
はせをの署名 _     梅柳さぞ若衆かな女かな
    郭公まねくか麦のむら尾花
    侘てすめ月侘齊がなら茶歌
    芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉
    櫓の声波を打って膓氷る夜やなみだ


此等の句は既に前に掲げておいた、此等は蕉風中の虚栗調(天知
[天和]の調)の先駆句とも見るべきもので、さきに次韻で萌芽を出したものが、こちらで稍(やや)肥りかけてきた程度のものであらう。

「はせを」の署名

「はせを」と仮名で書き始めたのは、いつ頃からか判らない、仮字に書いた理由は、「去来抄」に、

仮名は、あながち熟字によらず、只唱へ清く調ひ、字形の風流なるを用ふべし、短冊など書て見所あり、片名書き侍るに、ことごとし


(一〇二頁)

 
この頃の芭蕉の地位声名 _ き字形は苦しかるべし「はせを」は仮名に書いての自慢なり。

とある如く、大抵の場合仮名で書いて居る、これは書き続きの工合がなだらかに運び、其上見た所の体裁のよいのを自慢して居たのである。多分漢字で芭蕉と書いたのが先きで、仮名で書くやうになったのは夫れより後かと思ふ。

漢字で芭蕉と書くのは、大概儀礼や謹厳を要する場合に用ひたやうに見受ける。

世に天和二年以前の芭蕉の書と認むべきものに、「芭蕉」或は「はせを」の署名のものがある、それらの書は真蹟とは認められない。

はせを命名の偽説

「随齊諧話」に、

江州(近江国)水口小坂町たばこや久右衛門は李風といふ、季吟の真蹟を蔵す。
きのふ松尾氏桃青来りて予に改名を請ふに、いなみがたく、八雲御鈔の俳諧歌にならひて、はせをと呼侍ることしかり・・・
    月はなのむかしをしのぶ芭蕉かな


とある、これは成美の説を待つまでもなく、偽作たることは明かである、先きに掲げた桃青と改名した時の季吟の文書と称するものと、同案の偽作であらう。

頃の芭蕉の地位声名

大坂の松水軒如扶が、天和二年に板行したものに、「俳諧三箇津」といふのがある、京都、江戸、大坂三都の新派の


(一〇三頁)

 
_ 俳士三十六人を撰び、其句を絵入にしてある、芭蕉も入選して居る、其序に。

天下の海浪おさまって、江戸廻船、京の高瀬船、難波のもと船、所によりて海士のよび声までも替りて、三年この方、俳風古流は藻屑に埋もれ、今の世の姿は、同じ桜も言葉ものふり、月も外の光ありて、こゝろの友みがき勝れて其名高きを、行水の如くこゝに数書きて、三十六梃たて。・・・

とある、「三年この方」即ち延宝八年以来、新派が勢いを増して古調が廃れた、其新派の中に勝れて声名ある者三十六人を撰んだと云ふのである。

三十六人中、江戸の分は十一人あって、芭蕉は其中に入って居た、其時の入句は「雨のの日や世間の秋を堺町」で、既に延宝五年の條に掲げておいた、夫れも最早五年前の旧作なのだ、三箇津の出来た頃にはずっと進歩して居た、されば芭蕉が俳諧師としての地位は、俳壇から認められて居たのである、亦蕉門の新俳が、三年以前即ち延宝八年前後から、京坂地方へ知られて居たことが分る。

角が豪酒を戒む。

    貴丈(其角)常に大酒せられ候故、此文句を写して、
    大酒は無用に存候、仍一句。

    朝かほにわれは飯食ふ男かな

    
如何、委しき事はやがて御目にかゝり万可申候、以上、
                    (上下略、芙蓉文集)

「此文句」といふのは、尊朝法親王作と伝へらるゝ飲酒一枚起請の文句である、其文句を或人の所で見たが、面白


(一〇四頁)

 
_ く出来て居るからとて、写して其角に送ったのである、それに此句が添へてある、右に掲げたやうなものを、直接其角へ送ったかどうかは遽(にわ)かに信じられない、虚栗には「朝かほに」の前書に「其角蓼蛍句」としてある、其れは其角が「草の戸に我は蓼(たで)くふ蛍かな」の句に芭蕉が唱和した丈けのものだと言はれて居る、其方が穏やかで信を措ける。

「句選年考」に、案ずるに「朝かほに」の一句の上に事なし、答ふる所に趣きありと去来抄にあれば、其角は我句人知らず、我を知るものは時鳥などいひて、人並ならぬ気象あり、されば「草の戸に我は蓼くふ蛍かな」といへるを、芭蕉は我は朝顔に飯くふ男かなと、只今日の上をいふ、此答趣あるにや。

とある、つまり「朝かほに」の句は、其裏面を窺ふと、其角の奇侠なる蓼蛍の句を圧迫して、極めて其鋭さを感じる、芭蕉が手厳しく其角に戒飾を加へたものだと見られて居る。

月十四日、高山麋塒興行にて草庵に月を観る、信徳、素堂も亦会す。

      高山麋塒興行にて草庵に月観ける、洛の信徳、素堂各佳作あり、
      素堂月見の記を書く。

    月十四日今宵三九の童部

句評解 天和三年芭蕉は三九歳である、今宵の月は満月には足らぬ十四日、我はまだ四十の初老にはならぬ、三九の童部である、とは月も我も若いことをいったのである。

、杜子美
(杜甫)を憶ふの句あり。

(一〇五頁)

 
 
 
 
雨の侘笠を作って連歌師宗祇の宿りと称す
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      老杜
    髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ


月、独居の淋しさに、雨の侘笠を作って連歌師宗祇の宿りと称した。
一切を侘び尽した芭蕉は、余りに淋しい独居の鬱屈をはらさんが為に、手づから(自分の手で)雨の侘笠を作った、竹の骨に紙を貼り渋を塗ったものだ、裏の方に巻き入り、外さまに吹返りなどした不器用な形が、荷葉(かよう。ハスの葉)の半ば開ける様に似て居たとて、却て愛着の心を覚えて、渋笠の銘を作った、又笠の内側に、

世にふるは更に宗祇のやとり哉

と記し、自ら「笠作の翁」と称した、素堂の評に、


そもそも此翁(芭蕉)の生涯、宗祇法師にさも似たるをもって、髭のなき宗祇ともいへり、宗祇のそりおとしにてもあらば、植ゑまほしけれど、尺八もたずの宗祇とやいはん、只ありの芭蕉仏といふ。

と言ったのは、芭蕉が宗祇に私淑して居たからである。


宗祇の句


連歌師宗祇は、「新古今集」所載の二條院讃岐の歌「世に経るは苦きものをまきのやに安くも過ぐる村時雨かな」の心を採って、自己の生涯を詠んで、「世にふるは更に時雨の宿りかな」と言った、それで芭蕉も、畢竟
(ひっきょう)我世を経るも亦更に宗祇の宿りなりと嘆じたのであらう。

短冊塚


此句の短冊が杉風の手許に在ったが、深川森下町長渓寺
(現長慶寺)の住持が、芭蕉と懇意にして居たので、芭蕉が死

(一〇六頁)

 
_ 後のことを住持に頼んだといふことが、門人間に知られて居た、其れで芭蕉の歿後、杉風が石碑を長渓寺に建て、此句の短冊を埋め、塚を築いて、短冊塚と名づけて、住持と芭蕉との関係を忍ぶ記念とした。[長慶寺境内の句塚跡] [門弟が長慶寺に建てた芭蕉句塚]

此の事は、
(蕉門中村)史邦の元禄九年の「芭蕉庵小文庫」の自序にも見えて居たし、又笈日記の元禄八年三月の條にも見えて居た、杉風が此の短冊を撰んで埋めたことには、何か二人の間に此句に関する事でも有ったものか。

後人は此塚を発句塚とも呼び、又時雨塚とも称し、今猶昔の面影を語り顔に残って居る。


長渓寺にはまだ句塚がある、芭蕉が自画讃の達磨を埋め、塚を築いたのがある、其碑文は鵜殿士寧作、沢田東江書で有名のものである。


歳冬の句


    貧山の釜霜に啼く声寒し

句評解 貧山は貧乏寺のこと、寒い時は釜が鳴ることがある、其釜鳴を俳的に新しく啼くと言ったのである、寒い時釜鳴をきくのは淋しさを感じるが、夫れを貧乏寺で聞くのは更に戦慄を覚えるといふのであらう。

(一〇七頁/本頁p.18に続く)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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