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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 天和時代  芭蕉庵焼失
_ p.18
○天和二年
39
芭蕉庵 _

第六章 天和時代

 芭蕉庵焼失

、芭蕉庵が焼けた

(一〇七頁)

 








焼失 _ 芭蕉が晩年、門人北枝の火災に罹った時、遣(つか)った見舞状の中に。

池魚の災(ちぎょのわざわい[殃]。思いがけない災難にあうこと)承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申され候。・・・

とあって、自分が嘗て、火災に逢って苦んだことを述べて居る、其角も亦、芭蕉の罹災の状を左の如く記して居た。

天和三(二)の冬、深川の草庵急火にかこまれ(中略)爰に猶、如火宅の変を悟り、無住所の心を発して、其次の年半に甲斐が根にくらし。・・・

とあって、火災に逢って苦労して、無住所の心を発したと言って居る。

元来生活が下手で、貧乏で、市中生活を侘びて深川に隠遁したのだ、其深川の草庵では、又一切を侘びて奈良茶歌を歌ったのだ、夫れが又雨の侘笠を作って宗祇の宿りを想ったのだ、芭蕉は満身侘びの創痍を負って居たのだ、其処へ火災の衝撃を受けたのだから、余程対
(こた)へたことであらう。

知人に身を寄せて、翌天和三年花の頃まで、江戸に居た。

「句解参考」に。

      芭蕉庵は火の為に破れて、或人の許に春(天和三年)を
      わびけるに、軒の梅に雪の降りかゝるを見て、

    深川の松はなくらむ雪の梅

とある、此の前書の文句は、芭蕉の自作とは認められないが、事実は斯うであったものと思はれる、又この句も疑があるが、暫く前書に従って見るに、梅の頃までは江戸に居たことになる、又「虚栗集」に、


(一〇八頁)

 
○天和三年
40
 
 
 
 
 
 
難を甲斐に避く
 
 
 
 
_       憂方知酒聖   貧始覚銭神

    
花にうき世我酒白く飯黒し    芭蕉

     眠りを尽す陽炎の痩      一晶

とあって、芭蕉が一晶、嵐雪、其角、嵐蘭との五歌仙がある、一晶以下四人の連衆は、当時皆江戸在住の人々であるから、此の歌仙は、天和三年春江戸に於いての興行と見られるから、芭蕉が花の頃まで江戸に居たことが判る。
「うき世」は憂世ではなく、浮世であらう、世間の人々は花に浮かれて騒いで居るのに、我は心配の中に、又貧乏の中に、濁酒、麦飯で心を遣って居るといふのであらう。

一説に、其角の菩提寺なる二本榎の上行寺に避難して居た、とも言はれて居る。

和三年(四十歳)三月の頃ならん、難を甲斐に避く。

三月頃まで江戸に踏み止まって居たとすれば、甲斐へ行ったのは其より後であらう、江戸に居られない事情は何であったのか、伝ふる所によれば、杉風も此頃火災に逢ったといふが、頼りにするものが無かった為か。

遠く甲斐の郡内の片田舎へ逃げたことに就て、湖中は次のやうに言った。

甲州の郡内谷村と初雁村とに、久しく足を止められし事あり、初雁村の等力山万福寺と云ふ寺には、翁の書かれし物多くあり、又初雁村に杉風が姉ありきといへば、深川の庵室焼亡の後、かの姉の許へ、杉風より添書など持

(一〇九頁)

 
_ れて行かれしなるべし。

と言ひ、又成美は、

深川の庵、池魚の災に罹りし後、暫く甲斐国に掛錫
(かしゃく)して、六祖五平といふものを主とす、六祖は彼のものゝ仇名なり、五平嘗て禅法を深く信じ、仏頂和尚に参学す、彼者一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名けたり、芭蕉も亦彼禅師の居士なれば、其因みによりて宿られしと見えたり。

とある、とに角、郡内に居た人を頼って行って、随分艱難
(かんなん)を嘗めたことであらう、谷村では磯部久住といふのが宿で有ったといふ。

火災に就て、芭蕉庵焼亡の火災は、天和二年十二月の八百屋お七火事の類焼だと言はれて居る、けれども必ずしもお七火事の類焼だとは断言出来ない、其頃別の火事に罹ったものと見ても差支ふる処はない。

其年十一月、芭蕉が橘町に居たことがある、其某年と云ふのが天和二年だといふ説がある、左に掲ぐる中尾、濱連名宛の書状が、此時の事に該当するものと認められる。

(上略)御俳諧被遊候や、御発句など被遊候はば、便に可遺候、春は其角、集あみ申候間入集可仕候、私は宿は橘町彦右衛門と申ものゝ店にて桃青と御書付可成候。・・・
   霜月十八日    芭 蕉    桃 青
  中尾源左衛門様


(一一〇頁)

 
_   濱 市右衛門様 (中尾源左衛門は、伊賀上野の人にて槐市と称す)

右の文中「春は其角、集あみ」とある集は、「虚栗集」に該当するものと認められる、果して「虚栗集」とすれば、此の手紙は「虚栗集」の出来た前年、即ち天和二年のものであらう、又芭蕉庵の焼失を十二月のお七火事ではなく、其前に既に焼けたとすれば、天和二年霜月十八日に、橘町に居たことも差支なくなる、即ち一時橘町に非難して居たものと見られる。

冠山の「芭蕉翁全傳」には、深川の草庵が焼けたとき、暫く駿河台の芭蕉庫に非難して居たといふ異説を挙げて居る。

甲斐滞在中の様子は、判然と分って居ない。

滞在期間は、二ヶ月前後と見える、五月には江戸へ帰って居る。

    滞在中の句

      甲斐山中

    清く聞ン耳に香焼て子規(ほととぎす)

    ほととぎす正月は梅の花咲り


    青さしや草餅の穂に出るらん


    椹
(くわのみ)や花なき蝶の世すて酒

    勢ひあり氷消ては瀧津魚


(一一一頁)

 
_     甲斐山中の句の中に、冬から春にかけての句が見えて居ないが、
    其訳は、此の期間は、まだ甲斐へ行っていない為かと推測される。

滞在中 木曽に桜狩をしたとの説。

貞享二年四月、名古屋から江戸へ帰る時、木曽路を通った、其時の述懐に、「思ひ出す木曽や四月の桜狩」の句がある、されば天和三年四月甲斐に避難中、桜狩したことを思出したものと思はれる、是は滞在中木曽へ遊んだのであらう、併し「皺筥
(箱)物語」には、「思ひ出す」とあるけれども、暁台の「幽蘭集」には「おもひ立」とあるから、どちらか句意が判然しない。

滞在中 江戸の一晶と麋塒が訪問した。

二代目麋塒の話に、

芭蕉桃青は(中略)亡父幻世(初代麋塒)懇にて、甲州郡内谷村へ度々参られ、三十日或は五十日逗留す、又或時は一晶など同道す。

とあって、数回谷村へ来て居るやうに言って居る、又麋塒と一晶と同道で訪問したとある。
麋塒と一晶と同道で、甲斐の芭蕉洞
(芭蕉の俳号)を訪問した時の歌仙は「蓑虫庵小集」と「一葉集」とに残って居るのが其れであらう、其歌仙の発句に次の句がある。

    夏馬の遅行我を絵に見る心かな

(一一二頁)

 
_ 此の附句に「麦手ぬるゝ瀧凋む瀧 麋塒」第三に「蕗の葉に酒灑竹の宿懲て 一晶」とある。
句評解 「夏馬の遅行」の句は、「水の友」には「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉」とあって、画賛としてある、後に改めたのであらう、ぼくぼくは、暖かい日を浴びながら遅々と歩く満足の形容であらう、夏野は盛夏でなく、初夏行楽の好時季であらう、馬に乗って居る自分を、絵中の景の如く感じたのであらう、此の景を画いた絵に芭蕉の賛をしたのがある、其れは多分後になってから、此の句の意を絵に画いたものに讃したものと思はれる、一本に、夏野かなを、枯野かなとしてあるが、夏野であらう、遅々とか遅行とかは、歌の方では「うらうら」といひ、俳諧の方では「ぼくぼく」といって居るやうだ。

其年夏柏水宛芭蕉書状には。

(上略)木曽路にて発句の事、此度は日数も間も無之故、発句も二、三句ならでは致さず候、其くせ不出来に候、漸く浅間辺にて、
    馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
此句ばかりと存じ候、其外不埒千万なる句にて御座候故、不申入候、追付富士詣人に誘はれ候に付、愚老も参可申哉と存候。


とあって此句を浅間辺にての作とし、一葉集には「甲斐郡内といふ処に到る途中の苦吟」として居る所から見ると、画賛の方は後のことであらう、此句を貞享二年の作とする説がある。


(一一三頁)

 
_ 富士を詠んだ句、此の滞在中であらう。

    雲霧の暫時百景を尽しけり
句評解 此句の前書に「まのあたり、土峯地を払て蒼天をおさへ、日月の為に雲門をひらくかと、向ふ所みなおもてにして美景千変す」とあるので句意はわかる。
世人が、芭蕉に富士を詠んだ句が少ないと云ふから、此処に自画讃の板木摺を掲げる。
(図版の掲載は省略)
「芭蕉句選拾遺」に、此句を挙げた後に「甲州吉田の山家に所持の人ありしを、東武下谷、菊志秘蔵なるよし、行脚祇法より伝写して出す」と書き添えてある所から、此句が甲斐にての作ならんと推測される。

(一一四頁)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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