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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 天和時代  疑問の句
_ p.19
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第六章 天和時代

 疑問の句

      信濃路を過るに

    雪ちるや穂屋の芒の刈残し

句評解 初五文字に力があって感じが強く来る、調がよく整って居て佳句である、穂屋は、七月二十七日信州諏訪の神事を御射山で取行ふ時、御仮屋を芒で葺く其御仮屋である、芭蕉は某年冬諏訪地方を遊行して諏訪神社を拝し、刈残の芒(すすき。薄)に雪の降りかゝるを見て、神事の荘厳を聯想(れんそう)したのであらう。
此句は、「猿蓑集」の冬の部に、芭蕉の作として、載せてあって、「信濃路を過るに」の前書がある、元禄八年の「有磯海」の丈草が序文の中にも、「ほやの薄」の句は芭蕉の作のように述べて居るし、元禄十五年の許六の「宇陀法師」にも芭蕉の作として取扱って居るから、芭蕉の作たることは疑なかろう。
此句の作の年代に就て、一定の説がない、「真蹟集拾遺」に「深川草庵亡、甲信遊行、信濃路を過るとて」として天和三年の甲斐行の時のやうにしてあるが、事実に合わない、又「穂屋の芒」の句を載せてある芭蕉の書翰と称するものが四、五通あるが、其中には、断翰もあり、日付宛名の無いものもあり、疑はしいものもあって、年代を知るべき参考になるのは一つもないから、其等の書翰を此処に引用することは見合わせる。

(一一五頁)

 







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普通には、此句を元禄元年の作として居るが、元禄元年冬信濃路へ出掛けた形跡は認められない、私の見る所では、貞享二年の十月と十一月両月の中にでも出掛けたか、それ以外には心当たりが無い。

此の句の疑問とする所は、一葉集所載の二十日附信分宛の左の書状にある。

尾州(尾張国)廿二日に御帰の由被仰越候、先御そくさいにて目出度候、道の記御認め御遣し一覧候、いづれも出来申候、信濃路にての二、三句は別てよろしく候、「雪ちるや穂屋の芒の刈残し」、此句類なく候べし、愚老句より貴様の句上になり候、委は面談と、あなかしこ。

とて「穂屋の芒」の句は信分の作となって居る、疑ひも無く芭蕉の作では無いことになる、芭蕉の作でないから年代が判らないで、篏
(は)め所が無くなるのであらう。

然らば「猿蓑集」に芭蕉の作としているのは誤か、此処が疑問の生ずる所である。

    麦刈て桑の木ばかり残りけり

「曠野」には、此句作者不知とあり、一井庵宛の芭蕉書状には。

此間は御たづね忝存候、殊外日数もかゝり申候、草津にては幸にも人々に逢申候、又高崎に弟子被居候まゝ彼此延引成申候、深谷村にてはかく計申候。

    麦刈て桑の木ばかり残りけり
 


(一一六頁)

 
_ とあって、芭蕉の作としてある、上州草津から高崎を過ぎ深谷を経ての旅である、深谷から江戸までの記事が無いが他に考証すべきものもない。

芭蕉の草津に行脚したことは他に所見がない、草津地元の俳人も、芭蕉は草津に来てないと言って居る、草津へ行く時は何処を通ったのか、夫れも分らない、「芭蕉翁句解参考」に、「暮春に碓氷を越る」といふ前書で「ゆくにまだ春を見知らぬ木芽哉」の句がある、或は是が往き道であったのか、捉え所がない。

一井庵とは、尾張の一井のことであらう、尾張の一井ならば、貞享元年冬の入門と見えるから、此の書状は貞享二年以後のものであらう。

何れにしても芭蕉の草津行脚は、事実の有無さへ分らない、随って「麦刈て」の句が芭蕉の作であるか否かも知り難い。


(一一七頁/本頁p.20に続く)

 
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編  第 章 天和時代  疑問の句 p.19

山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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