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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 天和時代  初期撰集(六)虚栗集
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○天和三年
40
 
 
 
其角編
・虚栗集
 
 
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第六章 天和時代

 初期撰集(六)虚栗集

和三年(四十歳)五月、其角撰の「虚栗集」が成った、句体極めて奇侠で当時の俳壇を懾動(しょうどう[聳動])した、後人之を「蕉門の虚栗調」と称した、或は「天和の調」ともいふ。

「虚栗集」は上下二巻に分ち、春夏二季を上巻に、秋冬二季を下巻に配し、季毎は発句連句を塩梅して、其手際が頗る巧妙で、如何にも其角らしい編集の仕方である、入集者は、発句の方では蕉門の人々を主とし、宗因を始め、


(一一七頁)

 








芭蕉跋文
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
_ 蕉門以外からも沢山入集して居るので、稍(やや)雑揉(ざつじゅう[雑糅])に見えるが、連句の方では、芭蕉、一晶、嵐雪、其角、嵐蘭の五歌仙や、芭蕉、其角の両吟歌仙を始め、其他蕉門の連句を多く収録して居る、集中に重陽三句として、連句体の漢句が挿入されてあるのは珍らしい。

蕉門の天和時代の句作は、後世から蕉門の虚栗調と云はれた程、夫れ程句に強みの多かった時代である、溌剌(はつらつ)たる元気が縦横に発露して居るし、又自己の所見を立てることを努めて居たので、古法古式になど拘泥せず、法式などは打破して進んだので、頗る嶮悪
(「悪」に「たけだけしい」の意あり)の気が満ちて居た、さきの「次韻」の時の新俳の萌芽は、虚栗の今日に入っては、特殊の強みのある新体に化して来た、甚だしきは、註釈が無ければ句の意味の分らぬものさへ有った、「武蔵曲」「虚栗集」が是である。此の特殊な風調を見て、芭蕉は大に喜んで、欣々として「虚栗集」の跋を作った。

栗といふ一書其味四あり、李杜
が心酒を嘗て、寒山が法粥を啜る、これに依て、其句見るに遥にして聞くに遠し、侘と風雅の其常にあらぬは、西行の山家を尋て人の拾はぬ蝕栗なり、恋の情つくし得たり、昔は西施がふり袖の顔、黄金鋳小紫、上陽人の閨の中には衣桁に蔦のかゝるまでなり、下の品には、眉こもり親そひの娘、娶姑のたけきあらそひをあつかふ、寺の児、歌舞の若衆の情をも捨ず、白氏が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす。・・・
天和三癸亥年 仲夏日 芭蕉洞 桃青 鼓舞書


李杜:李白と杜甫  蝕栗:虫食いの栗  西施:中国春秋時代の越の美女  上陽人:不遇の官女のたとえ  閨:ねや  衣桁:衣服を掛ける道具  娶:よめ  白氏:白楽天

是は、去来が、師の風雅の見及ぶ所、次韻にあらたまり虚栗に移る・・・と言った所のものである、其味四ありとは、

(一一八頁)

 
_ 此の新体を現はすに必要なる基礎を指したので、やがて正風の由りて来る所を言ったのである。

蕉門の徒が拠って基礎となす所は、古人の粋を抜き其精を選ぶにあった、即ち李白、杜甫の錦心を探り繍腸
(しゅうちょう)を抉(えぐ)り、西行の凄邃(「」は「奥深い」の意)を求め、之に加味するに、生死を解脱した寒山流の禅味を以てし、之を調和するに、流麗なる楽天の妙筆を以てするに在った。

此の基礎を加ふるに、研究鍛錬を以てし、之によりて更に一己の見を立て、幽玄なる趣向を用ひて、自得の抱負を顕はさうとして居たのだ、斯の如くにして稍々佳境に入らんとしつゝある彼等の欣喜愉快は、果たして如何であらう、桃青鼓舞書と書いてあるのは、其辺の消息を窺ふに足るであらう。

     虚栗集中の二、三句

      
憂方知酒聖  貧始覚銭神
    花にうき世我酒白く飯黒し      芭蕉


      時鳥の二声、三声おとづれければ。
    五月雨の端居古き平家をうなりけり  嵐雪

      酔登
二階
    酒の瀑布冷麦の九天より落るならん  其角

      こと人やねたまん、涼しくてひとりねんには。


(一一九頁)

 
_     汗に朽ば風すゝくべし竹襦袢     嵐雪

      効白氏之隣女題
    二星私二憾ムとなりの娘年十五    其角

      角蓼蛍句
    あさがほに我は食くふおとこ哉    芭蕉


    はぜつるや水村山郭酒旗風      嵐雪

      憶老杜
    髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ   芭蕉


      雪夜
    夜着は重し呉天に雪を見るあらん   芭蕉


      十月ノ蟋
    貧山の釜霜に啼声寒し        芭蕉


      茅舎買
    氷苦く偃鼠が咽をうるほせり     芭蕉


(一二〇頁)

 
_       酒債尋常往処有、人生七十古来稀
    詩あきんど年を貪る酒債哉      其角

以上掲ぐる所で、当時の蕉門の俳調が知られる、就中漢詩の翻案や漢語の活用に苦心した状を知ることが出来る。

猶蕉門中、其角は漢詩趣味に厚かったので、自然漢詩調の取入れが多く、随
(したが)って佶屈(きっくつ)を免れなかった、芭蕉でも嵐雪でも此の弊は免れなかった。

化の頃、国学者高田與清は、俳諧歌論を著して、蕉門の漢詩調を罵
(ののし)って、左の如く言った。

西蕃文を正語によむが如き事をいひて、一つの歌を体とせり、桃青が「髭風を吹て暮秋歎ずるは誰が子ぞ」、嵐雪が「鯊釣や水村山郭酒旗風」、其角が「這句以荘子可見矣」などいへるは、如何に物にはくるひけん・・・桃青が如き文盲輩、只異国ざまの事さへいひ出れば、いと洽
(あまねし)聞げにも聞ゆめりと思ふが故のひがこと(僻事。心得違いのこと)なり。・・・

と言った、「虚栗集」の此等の句を、単に語呂の調はない漢詩の翻案に過ぎぬと思ふたのは、独り與清計りではなかった、俳諧に携はって居た者でさへ異様に感じたのだ、併し虚栗集などは、猿蓑や炭俵に達する間の途中に於ける未製作品である、あゝも作り、かうも造ってみる、諸種の作品の出来るのは当然である。此の嶮難
(けんなん)な未製品に対して不完全呼ばはりをする批評家が、まだ到らないのである。

「虚栗集」は常に漢詩の翻案計りでは無い、意匠といひ、句調といひ、又用語といひ、一種の特徴がある、貞享年代に入ると、模倣の跡や、強みや、又は華やかさが自然に薄らいで来るのを感ずる。


(一二一頁)

 
虚栗の名 _ 虚栗の名

ミナシグリと訓む、蝕栗(虫食い栗)の如く不出来であるといふのであらう、万葉集に「栗食めば子供思ほゆ・・・」の長歌がある、元来栗は歌懐を唆
(けしかける。「」と同)るものである、又芭蕉が「西行の山家を尋て人の拾はぬ蝕栗」と言った如く栗は俳情を衝くものである、されば「ミナシグリ」の名は面白い名だと思ふ、芭蕉の遺語に、

俳諧書の名は、和歌、詩文、史録、物語等と違ひ俳言あるべしとなり、されば先師(芭蕉)の名付け給ふを見るに、みなし栗、三日月日記、冬の日、ひさご、猿みの、葛の松原、笈の小文、皆其趣なり、虚栗の仮名は、「みなしぐり」と訓むべし、俳書らしからんが為なり、(華実集)。

と有って俳書らしい名だ

虚栗編者 其角の意

其角は虚栗に、左の戯序を加へて居るので、其意向が窺われる。

    翻手作雲覆手雨   紛々俳句何須
    世不見宗鑑貧時交   此道今入棄如

    凩
(こがらし)よ世に拾はれぬみなし栗

俳壇革新の旗幟を押立てゝ進んで居る師芭蕉を助けて、貞門談林の旧調を打破せんとする意気が、躍如として現はれて居る、古人宗鑑が貧交行の詩を鑑吟しつゝ、自ら其境涯に処して居るのである、是は其角一人の意向では無く、


(一二二頁)

 
其角履歴
 
 
 
 
 
_ 蕉門全体の意なることは明かである。

其角は又、紛々俳句何須数とて、句数を多く詠むことを避けて居る、是も芭蕉が四、五日掛って漸く一句といふ主義から来て居るので、蕉門の諸生は、いずれも斯うした推敲をして居る。

延宝の頃から句数を多く詠むことが始まった、仙台の大淀三千風は一日に三千句、大坂の西鶴は一日に二万三千五百句を作ったと伝へられる、其信
(ママ)偽はとに角に、句数を多く詠むことが流行した、之を世に矢数俳諧と云った、是は京の三十三間堂で通し矢の矢数をほこりにした、それに倣ったものであらう、西鶴が住吉で矢数俳諧をした時、其角は後見に頼まれたことがあって、矢数俳諧の状況をよく知って居る、又其角は、日待法楽に、蝋燭(ろうそく)が一寸燃える間に百韻をして居る、斯かる多作の其角にして何須数とて多作を避けて推敲を主として居る、蕉門の徒の刻苦の状が察しられる。
 
其角履歴 寛文元年江戸堀江町に生る、父は竹下東順、近江堅田の人、医を業とした、榎本は母方の姓なりと、或は云く、幼時父に従うて江戸へ来て神田於玉が池に住んだと、十四、五歳の頃、芭蕉の門に入り、俳諧を学んで号を螺舎と云ひ、間もなく其角と改名した。十六歳までは家業の医を草刈三越に学んで、医名を順哲と言ったが、十六歳から漢学を服部寛齊に学び、詩と易とを鎌倉円覚寺の大嶺和尚に学び、又画を英一蝶に、書を佐々木玄龍に学び、多技の人であった、後米元章の書法を模して一風を現はすに至った、初め本町、茅場町等に居り、貞享年中照降町に移った、嵐雪と同居し


(一二三頁)

 
_ 遊蕩に耽ったのも此頃だといふ、元禄の初め芝の神明町に移った。
号を宝晋齊と称し、(猶多くの号がある)画名を薯子と云った、冠里公から「半面美人」の印を賜はって之を点印にした、性極めて豪放、闊達で又剛直、奇警を好んだ、句作は技巧を弄し、新奇を衒
(てら)ひ、洒落を交へたものが多かったが、雄渾なのも少くなかった、故に必ずしも師芭蕉の幽玄の流れにのみ止らず、自然江戸子膚を露して居たので、後世其角の流派を江戸風といひ、其座を江戸座と言った、芭蕉在世中より蕉門第一と称せられ、又江戸座の祖と仰がれた、宝永四年二月三十日歿す、年四十七、二本榎上行寺に葬った。

世に知られた句

    越後屋に衣さく音や衣更

    すむ月や髭をたてたる蛬
(きりぎりす)

    からびたる三井の仁王や冬木立

    鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春


著書頗る多く、就中
(なかんずく)次に掲げたものが著名だ。

雑談集   句兄弟   枯尾花   俳諧錦繍緞
類柑子
(るいこうじ。其角の遺稿を貴志沾洲が補修したもの。宝永4年<1707年>刊)
蕉尾琴   華摘
(花摘)  いつお昔  五元集

(一二四頁)

 
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山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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