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山崎藤吉著 「芭蕉全傳」
編  第 章 天和時代  芭蕉庵再建(二度目)
_ p.21
 
 
 
 
 
○天和三年
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芭蕉甲斐から戻る
 
 
芭蕉庵再建勧化文
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第六章 天和時代

 芭蕉庵再建(二度目)

月、其角が勧誘に従って、甲斐から江戸へ帰って来た。

天和三年五月、其角が勧めに従って江戸へ帰って来た、是から十月新芭蕉庵の出来るまで五ヶ月間の住所は分っていない、此際の芭蕉を形容すれば、素堂の言った如く「唯貧」の二字に尽きて居る、余程貧乏の為に苦労したらしい。

冬の頃、新芭蕉庵が成って之に移った。

素堂、其角等の知己門人の間に、芭蕉庵再建の議が有って、勧化
(かんげ)を募ることに決定して、素堂が願主となって勧化文を作って四方の寄進を仰いだ、其勧化文。

芭蕉庵裂て芭蕉庵をもとむ、力を二三生にたのまんや、めぐみを数十生に待たんや。広く求むるは、かへって其おもひやすからんとなり。甲をこのまず乙を恥る事なかれ。各志のある所に任すとしかいふ。これを清貧とせんや将た狂貧とせんや、翁(芭蕉)みづからいふ唯貧なりと、貧のまた貧許子の貧、それすら一瓢一覃のもとめあり、雨をささへ風を防ぐそなへなくば、鳥にだも及ばず、誰か忍びざるの心なからむ、是草堂建立のよりて出る所なり。

(一二五頁)

 








新芭蕉庵の実見記 _ 天和三年秋九月 潜汲願主之旨 濺筆於敗荷之下  山  素 堂

之に寄附名簿が添へてあった。

寄附芳名総へて五十余人、金あり家財あり、彼の芭蕉六物の一で有名な四山の大瓢は、此時門人北鯤が寄附したものである。

初冬の頃落成して之に移った、猶落着を快からせん為に、芭蕉一株を植ゑて旧観を存することにした、芭蕉は再び草庵に入ることを得たとて、

    
(続深川集に「ふたたび芭蕉庵を造りいとなみて」の前書がある)

    霰きくや此身はもとの古柏

と吟じ、其角は此の事を記して。

三更月下入無我といひけん、むかしのあとに立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵を結び、しばしも心とどまる詠にもと、一株の芭蕉を植ゑたり。

と書いた。

是によって、素堂が啻
(ただ)に芭蕉の俳諧の上の助言者であった計りでなく、物質的にもよく尽して居ることが知られる。

新芭蕉庵 実見記

此の再建の頃の芭蕉と芭蕉庵とを、現実に見た門人小川破笠の実見談を掲げる、此の実見談は、享保二十年二月八日、破笠が市川白筵
(柏莚。二代目市川団十郎の俳号)に語った話で、白筵の「老の楽」に載って居る。

(一二六頁)

 
破笠履歴
 
 
 
 
_ 桃青深川のはせを庵、へつゐ二つ、茶碗十を、菜切庖丁一枚ありて、台所の柱にふくべを懸けてあり、二升四合程も入べき米入なり、杉風文鱗弟子の見次にて、米無くなれば又入れてあり、若弟子よりの米、間違ひて遅き時ふくべ明けば、自ら求めに出られしが、其頃笠翁子(破笠)は二十三か二十四の時の由、翁(芭蕉)は六十有余の老人と見えし由、其頃翁は四十前後の人か、(中略)嵐雪なども、俳情の外は翁をはづし逃げなど致し候由、殊の外気がつまりて面白からぬ故なりと、翁は徳の高き人なり、今(享保二十三年頃)大様翁の像に衣をきせ候へ共、笠翁の覚え候由、常に茶の紬の八徳のみ着申され候、(中略)翁の仏壇は、壁を丸く掘ぬき、内に砂利を敷き、出山の釈迦の像を安置せられし由、机一脚、まのあたり見たりとの笠翁物語り。・・・
芭蕉翁は、藤堂和泉守様御家来藤堂新七郎殿の料理人のよし、笠翁物語り。・・・
(老の楽)

破笠が二十三、四歳、芭蕉が四十歳前後といへば、天和から貞享にかけての事であらう、又芭蕉が文鱗から出山の釈迦の像(一寸一分)を貰ったのは、貞享二年頃のことと見えるから、此の実見談は、貞享二年頃のことと見るべきであらう。

破笠履歴 破笠は江戸の人、通称を小川平助と云ひ、名は観、俳名は宗宇、又夢中堂卯観子と号し、江戸桶町に住す、多能にして画をよくし、一蝶に学びて画名を一蝉といふ、陶器製作の術に妙を得て名高い、初め俳諧を露言に学び、後蕉門に入った、少時放蕩に路を誤り、親族に見放されて家を出で、極貧に苦んだ、貞享年中、其角が照降町に居た頃、放蕩仲間で同居して居たが、着る布団さえも無かったといふ、其頃の述懐に。


(一二七頁)

 
 
 
 
 
 
 
 
芭蕉六物の一
・四山の大瓢
_     乞食にも斯うはなられぬかゞしかな

の句がある、其角が貞享四年に撰んだ「続虚栗」に、破笠の入句が見え始めて居る所を見ると、貞享頃から蕉門に入ったものと見える、後津軽侯に召出され、食録を受けた、延享四年六月三日歿す、年八七(五)。

破笠筆の芭蕉の肖像がある、元禄六年の所へ掲げる。
(図版の掲載は省略)

四山の大瓢
(おおふくべ)

北鯤が寄附した大瓢は、長さ二尺三、四寸、直径五寸程の細長いものであった、芭蕉は此のふくべの銘を作った。

    物ひとつ瓢はかろきわが世かな
句評解 誰やらが、花入にも、酒入にも適さない、米入が適当だと言って以来、庵の米入にしてあったのだ、米が無くなって、瓢も我が生活も軽いことを興じたのである、いきなり「物ひとつ」と言ひ掛けた所に、力の強さを感ずる、是が此頃の芭蕉の特色である、物とは俳諧を指したのである。

芭蕉庵の柱に掛けてあった大瓢に記せる素堂の銘に、「一瓢重黛山、自笑称箕山、莫首陽餓、這中飯顆山」とある、

此の句は皆山を以て送られて居る、故に四山と呼ばれた、中にも飯
山は老杜が住んだ地で、之に李白が戯れた句がある。其れに倣って素堂が芭蕉の貧を清からせうとて、此銘を作ったのである、芭蕉六物の一に数へられて有名の瓢である、又、内田魯庵氏の「芭蕉後伝」に、

是真が写生したものに、瓢の高さ二尺三、四寸、直径五寸程の細長いもの、素堂の銘は朱漆で書かれてある、四山

(一二八頁)

 
○天和四年
41
 
 
 
 
 
_ の名が上にあって下に素堂の銘が二行になって居る。

とある。

焼跡は蚤蚊多し

焼跡といふものは、蚤蚊の多いものと聞いて居たが、新芭蕉庵も其通りで、蚤蚊に苦しんだらしい。

某年某月(天和三年十月?)七日附、三碩宛芭蕉書状

傘下駄御持せ被下、御世話忝存候、蚊張鼠に喰れ申候、おまき(さカ)に御縫せ可下候、焼跡蚤蚊おほく、殊の外朝寝仕候。

    ほね柴や斯と見るより蝶の殻


深川は、冬になっても蚊の多く居ることは、世人の恰く知って居ることである。

和四年(二月貞享と改元、四十一歳)新年になっても、新年の喜びを感じないで、却って淋しい苦吟を述べて居た。

    元旦や思へば淋し秋の暮れ
句評解 草庵の元日の淋しさを述べたのである。元日の淋しさと、秋の暮の淋しさとを比較して、元日の方が一層淋しく感じたのであらう。
去年冬新草庵に入り得た其喜びを述ぶべきであるのに、此の苦吟のあるのは、苦労、落魄
(らくはく)の余波がまだ残って

(一二九頁)

 
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居た為であらうか、それで此句は、天和四年でなくて貞享四年の作だとも言はれて居る。

新年から八月行脚に出るまでの七、八ヶ月間は、記事の資料が殆どないから、唯句二、三を挙ぐるに留めておく。


      或人のかくれ家をたづね侍るに、あるじは寺に詣でける
      よしにて、とし老たるおのこ独庵を守りゐける、垣穂の
      梅盛りなりければ、これなんあるじ顔なりと云ひけるを、
      かのおのこ、よその垣穂にさぶらふと云をきゝて。

    るすに来て梅さへよその垣穂かな

      あさくさ、千里かもとにて

    苔汁の手ぎは見せけり浅黄椀

 
    時節さぞ伊賀の山越花の雪    杉風

     身はこゝもとに霞む武蔵野   芭蕉

    何物か詠捨たる花の跡      杉風

     江戸にも上野国本の春     芭蕉
 
    もろこしの俳諧とはんとぶ胡蝶


(一三〇頁)

 
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句評解 此句は、天和の末か貞享の初めの頃の作と思ふ、「芭蕉句選拾遺」には貞享元年とある、句選拾遺の言へる如く荘子の画賛であらう。
荘子は、孔子、孟子などとは異なった学派の人で、寓言を以て一家の説を成して居る、其寓言を唐土の俳諧と見たのである、寓言の中に夢に自ら胡蝶に化したことが書いてあるので、荘子を胡蝶と言ったのであらう。

    忘れずは佐夜の中山にて凉(すず)め

六月、門人風瀑が行脚に出るのを送った餞別句である、佐夜の中山は西行が「年をへてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」と詠んだ旧地である、其史実を忘れなかったら、西行の路を視て来給へと言ったのである。

    わが宿は四角な影を窓の月


(一三一頁)

 
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編  第 章 天和時代  芭蕉庵再建(二度目) p.21

山崎藤吉著「芭蕉全傳」   第1版発行:明治36年  第2版:大正5年  第3版:昭和10年、16年

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