俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡 おくのほそ道関連地図帳


第9集 「芭蕉と白石」関連地図
 
 



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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
 
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第9集 芭 蕉 と 白 石

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おくのほそ道関連地図帳


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説 明
   

【白石城について】

白石城が建つ現宮城県南部は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉に没収されるまで伊達氏の勢力下にあったが、慶長5年(1600年)当時は上杉領で、会津上杉氏が城を所領し、甘糟備後清長が居城していた。関ケ原の戦直前の同年7月24日、伊達政宗が白石城を一望できる陣場山に本陣を置いて白石城を攻略したことから、当地は再び伊達領となった。 城は政宗の重臣片倉小十郎景綱により大改修が行われ、慶長7年(1602年)に景綱が城主となった。明治元年に戊辰戦争で敗れるまで、十一代に渡り片倉氏が白石城に居城した。 明治元年、伊達氏が朝廷に降伏したのち白石城は南部氏の所領となり、明治2年、十二代片倉景範は家臣とともに北海道に移住した。城は明治7年(1874年)に民間に払い下げられ、建造物、石垣等が逐次解体された。現在の白石城は、平成7年(1995年)に復元されたもの。

白石城の写真(1)  (2) ライトアップされた白石城の写真(1)  (2)

   

【孝子堂について】 

孝子堂は、「碁太平記白石噺」などの歌舞伎で知られる宮城野(実名まち)、信夫(実名おその)、父与太郎の霊をまつり、大正15年4月に建てられた。
孝子堂について次のような由来がある。
「寛永13年(1636年)百姓与太郎は2人の娘と共にこの地八枚田で田の草取の最中、たまたま通りがかりの白石城下剣道指南浪人志賀団七の袴に泥がかかったので、これを怒った志賀が、彼らの心からの謝罪もききいれず与太郎を切り捨て、2人の娘は家に逃げ帰ったがこのショックで母も絶命したという。姉妹2人は悲嘆にくれたが、心に期するところがあり、上京して由井正雪の門をたたき、事の次第をくわしく語り、その同情により武道の修練をつみ、寛永17年春2月、白石町西郊六本松河原において、娘は鎖鎌、妹は薙刀をもって志賀とわたりあい、みごと仇を討って本懐をとげたといわれている」 (白石市商工観光課の説明書より)

孝子堂の写真(1)  (2)