那須野が原にある芭蕉関連の碑
那須野が原にある芭蕉句碑、「おくのほそ道」文学碑などを掲載しています。
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大田原・寺や神社境内の碑
  
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1 玉藻稲荷神社
秣おふ人を枝折の夏野かな

芭蕉は、元禄2年(1689年)4月12日(新暦5月30日)犬追物跡を見物した後、謡曲「殺生石」でつとに知られる「玉藻の前(九尾の狐)」の伝説の地に足を踏み入れた。
犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。 (おくのほそ道)
句碑に刻まれた句は、曽良の「俳諧書留」の七吟歌仙に見られる。

殺生石の謂れと伝説について
2 修験光明寺跡
夏山に足駄を拝むかどでかな

行者堂には高足駄を履いた役行者(えんのぎょうじゃ。修験道の祖)の像が祭られていたといわれ、芭蕉は祭神の健脚にあやかろうと、遥かな奥羽の山々を見やりながら、曽良とともに長途の旅の無事を祈願した。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。夏山に足駄を拝む首途哉 (おくのほそ道)
曽良の「俳諧書留」に上の句の初案が記されている。
元禄二孟夏七日             
黒羽光明寺行者堂
夏山や首途を拝む高あしだ 翁
汗の香に衣ふるはん行者堂 同
3 西教寺
かさねとは八重撫子の名なるべし  曽良

句碑は、かつて町役場の前庭に建てられたが、後年、余瀬の西教寺に移された。西教寺の門前を走る道は東山道で、当地は昔粟野宿だったところ。寺の近くに、鹿子畑翠桃邸跡の入口がある。

西教寺付近に建つ「余瀬の昔」碑
4 明王寺
今日も又朝日を拝む石の上

元禄2年(1689年)4月14日(新暦6月1日)、鹿子畑豊明(翠桃)宅で興行された七吟歌仙の中の句。衆は、芭蕉、桃雪(秋鴉)、翠桃、曽良、(津久井)翅輪、桃里、二寸。

歌仙参照
5 常念寺
野を横に馬牽むけよほとゝぎす

曽良の随行日記に、浄法寺桃雪が黒羽を去る芭蕉に馬を手向けたことが「図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」と書かれている。

本句は、そのときの馬方が、短冊に一句認(したた)めてくれるように頼んで詠まれたもの。
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、
野を横に馬牽むけよほとゝぎす 
(おくのほそ道)

常念寺境内の本句碑の刻印は、芭蕉真蹟のものと見られている。
6 雲巌寺・境内入口
「おくのほそ道」碑

雲巌寺は、旧黒羽町(現在、大田原市の一部)の中心部から東へ車で20分ほど行ったところにあり、独木橋(どくもくきょう)を渡って更に進むと、境内の入口付近に「おくのほそ道」の雲巌寺の章段を刻む石碑がある。旧黒羽町には、3つの「おくのほそ道」碑があるが、これはその中の1つ。
当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
    むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。


仏頂禅師について
7 雲巌寺・境内
たて横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやしあめなかりせば 仏頂
木つゝきも庵はやぶらず夏こだち 芭蕉

雲巌寺の山門をくぐって左に行くと、紫陽花の植え込みの奥に左の句歌碑がある。
この碑は、享和3年(1803年)に建てられた石碑が痛んだため、明治12年(1937年)になって再建されたもので、碑陰に「碑破裂二付再建」とある。

 
大田原・「芭蕉の道」周辺の碑
  
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8 「芭蕉の道」入口
行春や鳥啼魚の目は泪

芭蕉が「おくのほそ道」の旅のはじめの句(矢立初の句)として詠んだ句。
この句が建つところから「芭蕉の道」の這入り口の坂を登った正面に、浄法寺桃雪直系の子孫の方が営むペンションがあり、その先に芭蕉公園がある。
9

浄法寺桃雪邸跡
[上]
山も庭もうごき入るや夏座敷
桃雪邸跡にある句碑で、この句は、曽良の「俳諧書留」に次のように書かれている。秋鴉は桃雪の別号。
秋鴉主人の佳景に対す
山も庭にうごきいるゝや夏座敷
[下]
桃雪邸跡にある連句碑で、碑文は、「俳諧書留」に書かれた次の内容を刻したもの。
芭蕉翁、ミちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなたすか川といふ所にとゝまり侍ると聞て申つかはしける。
雨晴て栗の花咲跡見哉  桃雪
(連句碑では、「雨はれて栗の花咲跡見かな」)
いづれの草に啼おつる蝉 等躬
夕食喰賤が外面に月出て 翁
(連句碑では、「夕食くうが外面に月出て」)
秋来にけりと布たぐる也 ソラ


桃雪・翠桃兄弟に手厚くもてなされた芭蕉は、14日間に及ぶ黒羽の日々を懐かしみと感謝の意を込めて、「思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、・・・」と「おくのほそ道」に記している。

芭蕉と黒羽について
10 「芭蕉公園」入口付近
田や麦や中にも夏のほとゝぎす

芭蕉公園の入口から大宿北坂線をやや左に行ったところある句碑で、「俳諧書留」に書かれた次の句文中の句を刻したもの。
志(し)ら川の関やいづことおもふにも、先秋風の心にうごきて、苗ミどりにむぎあからミて、粒々にからきめをする賤が志(し)わざもめにちかく、すべて春秋のあはれ、月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一つをだに見ることあたはず。たゞ声をのミて筆を捨るのみなりけらし。
田や麦や中にも夏時鳥
元禄二孟夏七日 芭蕉桃青
11 「芭蕉の広場」入口
「おくのほそ道」碑

旧黒羽町に3つある文学碑の中の1つで、次の黒羽の章段が彫られている。
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、(中略) 暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途哉
12 芭蕉の広場
鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし

「芭蕉の広場」にある句碑で、この句は、「俳諧書留」に次のように書かれている。「サン」は、この句が画賛(画に書き添えた詩句など)であることを示すもの。
  ばせをに鶴絵かけるに
サン
鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし 翁
13 「芭蕉の館」前
旧黒羽町に3つある文学碑の1つで、次の那須野の章段が彫られている。
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。

 
那須湯本・高久・芦野の碑
  
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14 高久家
真蹟句文の碑

元禄2年(1689年)4月16日(新暦6月3日)、芭蕉一行は黒羽を立ち、殺生石見物のため那須湯本を目指したが、降雨のため、途中立ち寄った高久の名主高久覚左衛門宅に18日まで滞留した。高久家の庭にある石碑には、この真蹟句文がそのまま彫られている。
みちのく一見の桑門同行二人那須の
篠原をたつねて猶殺生石みむとて
急き侍る程にあめ降り出ければ
此ところにとゝまり候。
           風羅坊
落くるやたかくの宿の郭公
木の間をのぞく短夜の雨  曽良

「風羅坊」は芭蕉の別号で、真蹟懐紙には、曽良の句の左に「元禄二年孟夏」と書かれている。
15 高福寺
落くるやたかくの宿の郭公 芭蕉
木の間をのぞく短夜の雨 曽良

左は、上の二句を刻む句碑で、高福寺の境内にある。
高福寺には高久家の墓所があり、芭蕉をもてなした覚左衛門の、「享保十八年癸丑年八月十四日 高久覚左衛門信近」と彫られた墓碑がある。
16 殺生石
いしの香やなつ草あかく露あつし
殺生石からやや下ったところに建つ句碑で、この句は曽良の随行日記に次のように書かれている。
     殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし


句碑の位置を知る

元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)、芭蕉と曽良は那須温泉神社を拝観後、殺生石を訪れた。
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。(おくのほそ道)

殺生石の謂れと伝説について
17 温泉神社
湯をむすぶ誓も同じ石清水

拝殿前の石段の左側にある句碑で、これを横から見ると老翁が座ったように見えるとして翁石とも呼ばれる。この句は曽良の随行日記に次のように書かれている。
温泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉りて、両神一方に拝まれさせ給ふを、
 湯をむすぶ誓も同じ石清水 翁


句碑の全貌
18 遊行柳
田一枚植て立去る柳かな

元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)、芭蕉は遊行柳に立ち寄った。「おくのほそ道」には、あこがれの遊行柳の地に至った感慨が「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と記されている。
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
田一枚植て立去る柳かな
  (おくのほそ道)
句碑は寛政11年(1799年)4月に建てられたもので、碑面下部に「江戸 春蟻建立」とある。

遊行柳について

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第19集 芭蕉と那須野が原
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