芭蕉と黒羽について
那珂川と那珂橋 那須野が原の東南端に位置する旧黒羽町(現在大田原市の一部)の地は、東部一帯に八溝山地の山々が広く分布し、面積の約70%を山林が占める山裾の町であるが、西端を南北に流れる那珂川沿いには広々とした平野部に水田も見られる。

山があり、清流が流れ、季節の花が咲きそろうこの山紫水明の地・黒羽で、芭蕉は門弟らの人情の機微に触れながら14日間にわたって逗留した。これは「おくのほそ道」の旅における
一箇所の逗留期間としては最長である。

元禄2年(1689年)4月3日(新暦5月21日)、芭蕉と曽良は、玉生の宿を早朝に立ち、矢板、沢村、大田原を経、黒羽に到着した。

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
(おくのほそ道)

快晴。辰上尅玉入(生)ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。 (曽良随行日記)


初日の宿を提供した余瀬の翠桃は、鹿子畑高明の次男で名を豊明といい、翠桃には、一歳上の兄、浄法寺高勝(通称図書、俳号桃雪、秋鴉)がいた。浄法寺姓は、高勝が、母の兄、黒羽藩城代・浄法寺茂明に家督を譲られたことによるもので、高勝は当時、城代家老の要職にあった。高勝、豊明は、俳号に「桃青」の一字をいただく芭蕉門弟で、故郷に師を迎えた頃、桃雪29歳、翠桃は28歳という若さであった。

芭蕉が須賀川の等躬宅で書いた杉風宛書簡に、「那須黒ばねと申す所、大関信濃殿知行所にて御坐候、城代図書と申す方に逗留」とあり、門弟ながらも、桃雪とは初対面であることを匂わしているが、弟の翠桃については、高弟服部嵐雪編「若水」所収の歌仙にその名が見られることから、芭蕉との面識は不明ながら、蕉門の連衆とは知友の間柄であったことが知られる。

芭蕉の黒羽滞在については、「みちのく」からの風が頬を撫でる国境近くで、急(せ)くこともなく14日間逗留したことから、旅立つ前からある程度相談されていた日程とも見られ、芭蕉は、雨が降れば休養し、止めば旧跡巡りをするなど、郷に従う閑暇な日々を過ごした。曽良の随行日記によれば、滞在最終日まで、芭蕉が巡った旧跡は、雲巌寺(4月5日)、修験光明寺(4月9日)、犬追物・玉藻稲荷(4月12日)、金丸八幡宮那須神社(4月13日)の5箇所であった。

芭蕉は黒羽での13泊をすべてこの兄弟宅に宿し、兄・桃雪のもとで8泊、弟・翠桃宅に5泊した。曽良の随行日記に兄弟の手厚いもてなしぶりが垣間見られるが、芭蕉は、これらの黒羽の日々を懐かしみと感謝の意を込めて、「思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、・・・」と「おくのほそ道」に記した。

黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途哉


近年、当地では、芭蕉が残した足跡や当地で詠んだ句を生かした「芭蕉の里」づくりが、町民一体となって行われてきた。その結果、「おくのほそ道」のファンにとっては、格段にわかりやすく、親切な「ゆかりの地」となった。芭蕉に関わる大概の場所に説明板が建てられ、芭蕉関連の観光パンフレットは数種類に及ぶ。桃雪邸の跡地には昔の俤を残す佇(たたず)まいがあり、近年その周辺に整えられた芭蕉公園や「芭蕉の館」、「芭蕉の道」、「芭蕉の広場」は、後世に永く、芭蕉の里・黒羽を伝えていくのだろう。
平成17年10月1日、「黒羽町」は、湯津上村とともに大田原市に編入合併されました。

  

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第19集 芭蕉と那須野が原
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