野越えと小姫かさね
日光へ続く街道の一つに、奥州街道の大田原から分岐し、矢板、玉生(たまにゅう)、船生(ふにゅう)、大渡を経、今市で日光街道に合流する「日光北街道」がある。芭蕉一行が、黒羽を目指して踏み入った野中の道が、この日光北街道である。

当時、この脇街道は、行けども行けども広漠とした原野が続き、保肥力・保水力のない火山灰土に雑草のみが繁茂する様相で、後年、芭蕉の旅を辿った山崎北華は「蝶の遊」の中で、飲み水にさえ窮する旅の有様を記している。

また、藤原信実朝臣が「道多き那須野の御狩の矢さけびにのがれぬ鹿の声ぞ聞こゆる」(夫木和歌抄)と詠んだように、この野の道は昔から縦横に分岐して迷い易く、こうした点からも那須野越えは、旅の難所だったことが窺い知られる。

陸奥にくだらむとして、下野国まで旅立けるに、那須の黒羽と云所に翠桃何某の住けるを尋て、深き野を分入る程、道もまがふばかり草ふかければ、
秣(まぐさ)負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 
(陸奥鵆)


元禄2年(1689年)4月2日(新暦5月20日)、日光を立った芭蕉一行は、往路を今市の手前まで戻り、会津西街道に入った。これを北上し、途中から日光北街道に旅路を移して鬼怒川を越える。激しい雷雨の中、どうにか玉生宿に到着し、当夜の宿、玉生の名主宅に草鞋を脱いだ。

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、・・・ 
(おくのほそ道)

一 同二日 (中略)
一 同晩 玉入(玉生)泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。 (曽良随行日記)

日光から矢板までの芭蕉の足跡

野越え二日目の様子について、曽良は何も記していないが、芭蕉は、人里に至るまでの旅を次のように記している。

明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。 
(おくのほそ道)
 

本章段は、日光の「仏五左衛門」に続き二人目の登場人物となった野夫「草刈おのこ」が、芭蕉の助力哀願に対し、思案の末、「うゐうゐ敷旅人」の道行を案じ、野飼いの馬を貸し与えるという逸話の展開である。

○「草刈おのこ」のくだりについて、世阿弥の謡曲「錦木」の一節「けふの細道分け暮らして、錦塚はいづくぞ、かの岡に草刈るをのこ心して、人の通ひ路明らかに教へよや」を踏まえたものとする捉え方がある。


一会の旅人に温情を傾けたこの「草刈おのこ」の叙述は、殺生石への途次、芭蕉に短冊を乞うた「口付のおのこ」の逸話と協和して、那須野が原の紀行を、牧歌的に、抒情詩的に仕上げるのに功を奏している。

これを助長しているのが、馬の後を追う「ちいさき者ふたり」で、中でも、小姫「かさね」は、その名がめずらしく、優美で風情のある聞こえであったことから芭蕉の心に強く残り、「おくのほそ道」の旅の後、然(さ)る人の赤子に「かさね」の名を授け、次の文を認めている。

みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、こむ[す]めの六ツばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、「名をいかにいふ」と問へバ、「かさね」と答ふ。いと興有(ある)名なり。都の方にては稀にもきゝ侍ざりしに、いかに伝て何をかさねといふ[に]やあらん。我、子あらば、此名を得させんと、道連れなる人(曽良)に戯れ侍しを思ひ出でて、此たび思はざる縁に引かれて名付親となり、
      賀重(かさねをがす)
   いく春をかさねがさねの花ごろも
     しは(皺)よるまでの老もみるべく
                    はせを
(芭蕉真蹟懐紙「ミの虫」)

○出光美術館所蔵のもので、「伝芭蕉真蹟」として扱われる場合もある。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第19集 芭蕉と那須野が原
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