黒羽資料写真と解説(7)

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大雄寺・山門 大雄寺・山門。

那珂橋から2kmほど北東に行ったところに、浄法寺桃雪の菩提寺、曹洞宗黒羽山久遠院大雄寺(だいおうじ)がある。
室町期の様式を今に伝える大雄寺は、各堂宇の屋根がすべて茅葺きの大伽藍で、長い山道(さんどう)を登り詰めると、質素ながら重厚な佇まいに思わず息をのむ。
大雄寺・境内。

曹洞宗の禅寺、大雄寺は、応永11年(1404年)余瀬村に創建されたが、戦乱で焼失し文安5年(1448年)に再建された。これ以来黒羽藩大関家の旦那寺となり、天正4年((1576)年に大関高増が、余瀬の白旗城から大関氏の拠点としてこの要害の地に居を移したとき、現在地に移築されている。
大雄寺・境内
大雄寺・本堂 大雄寺・本堂。

黒羽城の南に築かれた大雄寺は、四方を土塁で固め、有事の際の砦の機能も持ち合わせた。
芭蕉が滞在した城代家老・浄法寺桃雪邸は、寺の東隣に建ち、寺との境目に今でも土塁を見ることができる。
境内裏に大関家累代の墓があり、それに隣接して
浄法寺桃雪の墓がある。   
修験光明寺跡。

国道294号を常念寺のやや北から左に折れ、西に延びる道を1kmほど行くと、道の右側に「修験光明寺跡」と書かれた道標が建つ。そこからうっそうと茂る雑木林に入ると正面に大きな説明板があり、その左に芭蕉句碑が建っている。
芭蕉は、元禄2年(1689年)4月9日(新暦5月27日)、光明寺に招かれ昼から午後8時頃迄滞在した。
修験光明寺跡
修験光明寺跡 修験光明寺跡。

光明寺は、文治2年(1186年)に那須与一が阿弥陀仏を勧請して建立したが、後に廃絶し、永正年間(1504〜1521年)津田源弘により修験堂として再興された。明治維新の際に廃絶され、今は跡形もないほどに荒廃している。芭蕉が訪れた当時の住職は第7代権大僧都津田源光だった。津田源光の妻は、浄法寺桃雪の妹であたる。


畑が広がる光明寺跡
芭蕉句碑。

夏山に足駄を拝むかどでかな

行者堂には高足駄を履いた役行者(えんのぎょうじゃ。修験道の祖)の像が祭られていたといわれ、芭蕉は祭神の健脚にあやかろうと、遥か北の奥羽の山々を見やりながら、曽良とともに長途の旅の無事を祈願した。
曽良の「俳諧書留」に上の句の初案「夏山や首途を拝む高あしだ」が記されている。
夏山に足駄を拝むかどでかな (芭蕉)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第19集 芭蕉と那須野が原
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