殺生石の謂れと伝説について
殺生石(中央からやや左寄りの石) 那須湯本温泉の源泉となっている「鹿の湯」の西方に、山肌がむき出しで草木の絶えた谷あいがあり、この奥に、かの殺生石が鎮座している。

殺生石の周辺からは、硫化水素や亜硫酸ガス、砒素などの有毒ガスが噴出し、昔ほどではないと言われるが、今でも異臭のするガスが吹き出している。

古人は、この場所で人や動物が死亡することを、石に宿る霊
の仕業と考え、石を特定して「殺生石」と名付けた。さらには、その石に、全身を金色の毛で覆い9本の尾をもつという「白面金毛九尾の狐」の物語を添加したことにより、殺生石は、恐怖の石として世に広く伝播するところとなった。

那須温泉神社社務所発行の「伝説 殺生石」の中で、「九尾の狐」の物語は次のように展開されている。
 
九尾の狐の誕生
中国の王の后に姿を変えて、悪行を尽す。
インドに渡り、太子の后となって悪行を尽し、ある夜、突然姿を消す。
数百年後、16、7歳の女子に姿を変え、遣唐使の船で日本に渡る。
約360年後、赤児に化け、子宝に恵まれない夫婦に拾われる。
藻女(みずくめ)と名付けられ、夫婦の寵愛のもと、美しく成長する。
18歳で宮中に仕え、才色兼備と称えられる。
名を「玉藻の前」(1) と改められ、鳥羽院のそばに仕える。
鳥羽院を殺し、やがてはこの世を治め、人の世を滅亡させようとするが・・・。
鳥羽院の前で、実の姿が露見しかける。
陰陽師・阿部泰成、玉藻の前を九尾の狐と見破る。
玉藻の前、泰成との対決に破れ、「白面金毛九尾の狐」の姿で逃げる。
九尾の狐、那須野に現われ、婦女子をさらう。
那須の領主須藤権守貞信、朝廷に九尾の狐の退治を要請する。
朝廷、三浦介と上総介を将軍、泰成を参謀に、八万余の軍勢を那須野へ派遣。
軍勢、九尾の狐退治のため、犬追物(2) で騎射を訓練する。
貞信、「目的物に必ず命中し、刺さったら抜けない矢」を得る。
貞信、九尾の狐を射殺。九尾の狐、巨大な毒石に姿を変える。
村人、毒石を「殺生石」と名付ける。
鎮魂のため派遣される名僧、殺生石の毒気で次々と倒れる。
源翁和尚、殺生石を教化。その時、石、3つに割れて飛び、1つが残る。
殺生石、急激に毒気を弱めるが、今なお毒を吐きつづけている。

元禄2年(1689年)4月12日(新暦5月30日)、芭蕉は桃雪に誘われて、騎射を練習するため犬を追物射したという蜂巣の犬追物(2)跡と、祭神が玉藻の前(1)で、九尾の狐を射止めた所と伝えられる那須篠原の玉藻稲荷神社を訪ねた。芭蕉は、これらの史跡から那須野に伝わる殺生石伝説の詳細を知り、殺生石を訪ねる決心を固めたと思われる。

それから7日後の4月19日(新暦6月6日)、芭蕉は、異臭がただよう荒涼とした谷あいに足を踏み入れ、殺生石を目の当たりにした。「おくのほそ道」の中の「蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す」は誇張して書かれたものだろうが、おどろおどろしい光景の中で、場合によっては命さえ失いかねない異臭の中で、芭蕉と曽良は思わず二の足を踏んでしまったに違いない。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第19集 芭蕉と那須野が原
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