雲巌寺について
雲巌寺 雲巌寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で山号を東山という。筑前博多・聖福寺、越前・永平寺、紀州由良・興国寺とともに禅宗の四大道場の一つとされる。
 
縁起には、仏国国師が関東地方を行脚中、黒羽東方の八溝山山麓に草庵を結んだ折、高梨勝願法印が国師に参禅。勝願はその恩に報い国師に八溝山を献上し、弘安6年(1283年)になって執権北条時宗が当地に雲巌寺を建立した、とある。
 
雲巌寺は、旧黒羽町(現在、大田原市の一部)の中心部から東へ車で20分ほど行ったところの山ふところにあり、武茂(むも)川に架かる独木橋(どくもくきょう)を渡って更に進むと、境内の入口付近に碑面が文字で尽された大き目の石碑が目に止まる。この石碑は、旧黒羽町に3つある「おくのほそ道」文学碑の1つで、芭蕉が元禄2年(1689年)4月5日(新暦5月23日)に、土地の若い門人らを伴って雲巌寺を訪れたときの紀行を綴る、雲巌寺の章段が刻まれている。

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
    むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
  (おくのほそ道)

仏頂和尚は、深川隠棲中の芭蕉が朝夕なく参禅に赴いた禅師で、芭蕉の作風に大きな影響を与えた人物でもある。芭蕉が雲巌寺を訪れたのは、仏頂が修行時代この寺の山中にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌を傍らの岩に松の炭で書き付けた、と芭蕉に語っていたからで、一行が目指した仏頂禅師の山居跡は雲巌寺の裏山にあった。

「芭蕉と深川界隈」の「仏頂禅師について」

雲巌寺の章段を刻む石碑をあとにして、そのやや先から左に切れると、独木橋、瑞雲橋、涅槃橋、梅船橋とともに東山五橋に数えられる朱塗りの瓜(か)てつ橋が見えてくる。橋を渡ると、端正な植木を傍らにした石段が続き、登り詰めたところに「雲巌寺専門道場」の看板を掲げた山門が構えている。山門を抜けると広々とした境内に出る。

広い境内は、いかにも禅寺らしい楚々とした佇まいで、いくつかの堂宇が離れて建てられている。山門をくぐって左に行くと、紫陽花の植え込みの中に、芭蕉が雲巌寺を訪れた謂れを記す説明板が建ち、その奥に、仏頂禅師の歌と芭蕉の「木啄も庵はやぶらず夏木立」の句を刻む碑がある。この句歌碑は、享和3年(1803年)に建てられた石碑が痛んだため、明治12年(1879年)になって再建されたもので、碑陰に「碑破裂二付再建」の刻印が見られる。

句歌碑のあるところから山門まで戻り、その右手の鐘楼前から石段を登って右に歩いていくと、仏頂禅師の山居跡に通じる山道がある。しかし、今は道を塞がれ訪ねることはできない。禅師は、雲巌寺四十五世徹通和尚と親交が厚かったことから、晩年、雲巌寺裏山に山居を営んだが、正徳5年(1715年)、病により74歳で没した。山居は、その後、幾代かの庵主を得たが次第に廃虚と化し、大正15年(1926年)山内に水道がひかれたとき、当地に防火用の水槽が築かれた。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第19集 芭蕉と那須野が原
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