日光から矢板までの芭蕉の足跡

日光から大渡までの経路を推定する | なぜ通常ルートを外れたか | 大渡から矢板までの足跡
 
 


筋違橋付近の拡大図参照
  

  
日光から大渡までの経路を推定する

元禄2年(1689年)4月1日(新暦5月19日)日光山の参詣を終えた芭蕉と曽良は、翌4月2日、裏見の滝と含満が淵を見物し、昼過ぎ日光を後にした。

日光から矢板までの当時の経路としては、日光街道を今市まで戻り、今市から北上して日光北街道に入り、轟、大渡、船生、玉入を経由するのが一般的だったようだが、芭蕉は、宿の主人・五左衛門の勧めに従い今市・大渡間を別ルートで歩いている。その経路は随行日記に記されている通りだが、これを要約すると次のようになる。

(1) 日光から20丁(約2180m)ほど今市方向に下り、そこから左の方へ切れ、

(2) 川を越え、

(3) 瀬尾、川室を経て、大渡に至った。

一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・太田原ヘ趣、常ニハ今市へ戻リテ大渡リト云所ヘカヽルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左へノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。
〇今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。
〇大渡ヨリ船入(船生)ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川(鬼怒川)ヲカリ(仮)橋有。大形ハ船渡し。
〇船入ヨリ玉入(玉生)ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。
一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。
一 同三日 快晴。辰上尅玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。
(曽良随行日記)


(1)の「左の方に切れ」た位置は、JR日光駅付近から日光街道を670mほど今市方向に行ったところにある筋違橋と見られる。土地の人の話によれば、以前は、橋の西詰から志渡渕川に沿って東側に延びた小道があったといい、芭蕉も、こういった川沿いの間道を利用して大谷川に出たのだろう。

ちなみに、上鉢石地区の東のはずれからこの筋違橋まで2170m前後あり、「日光ヨリ廿丁程下リ」(曽良随行日記)に符合している。
 

筋違橋
筋違橋
志渡渕川
志渡渕川

 
(2)で越えた川は大谷川で、日光から瀬尾に行くには、今なら霧降大橋を渡って県道を利用するところだが、当時、わざわざ筋違橋まで行って大谷川を渡ったというのだから、推定コースの大谷川の位置に橋か渡しかがあったのだろう。

(3)の大渡までの経路については、図に示したように瀬尾から会津西街道に入り、川室を経て大渡に出たようである。

「〇今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。」の「今市」を瀬尾地区として、瀬尾から大渡までの距離を測定すると8400mほどになり、「弐リ余」にほぼ符合している。
    

なぜ通常経路を外れたか

筋違橋から大渡までの道程を計測すると、推定経路、通常経路ともに13km前後で、芭蕉は、特別に近道を歩いたということではない。それなら、どういう事情で五左衛門が通常経路から外れた道を勧めたのだろうか。土地の人によると、「当時轟で賊が出たからという話もある」とのことだったが、言い伝えはさておき、当時の日光山に関わる幕府の動向を把握しておきたい。

芭蕉が日光を訪れる半年ほど前の元禄元年(1688年)9月、1ヶ月余にわたって幕府による日光山巡察が行われ、その結果、朽損箇所が多いことから大修復を行うことが決定された。11月になって彦根城主・井伊直該が惣奉行に任ぜられ、仙台藩四代藩主伊達綱村が大修復の「御手伝」を命じられた。「御手伝」は経済的負担も意味し、仙台藩にとっては藩祖伊達政宗の神田川水路工事から約30年を経て、新たな難題を抱えることとなった。

元禄2年(1689年)1月11日からいよいよ工事の為の材木運送が始まり、山内には多くの関係者が出向いていた。4月に入って幕府は小普請奉行組頭梶重正らを派遣して子細に朽損箇所を検分させ、また、4月から6月にかけて狩野探信、絵所了琢が多くの弟子とともに絵画彩色を記録するなど、山内では、受け持ちごとに入念な準備作業を行われていた。

東照宮の解体・修理が始まったのは7月6日からであるが、以上のように、芭蕉が訪れたころは、準備の真っ最中で人の出入りもかなり多く、したがって日光に近い街道筋ではかなり厳しい検問が行われたと思われる。そこで五左衛門は、特に仙台藩からの出入りが多い日光北街道を避けるよう芭蕉に進言した、というのが真相ではないかと思われる。

【参考文献】 「日光市史・中巻」 昭和54年12月20日発行
  

大渡から矢板までの足跡 

  
大渡橋 1.大渡[大渡橋] -日光市大渡- 元禄2年(1689年)4月2日
日光から瀬尾、川室と歩んだ芭蕉と曽良は、日光北街道の宿場町として栄えた大渡に到着した。日光を貫いて流れた大谷川は、この大渡で鬼怒川に合流する。
鬼怒川には、この大渡橋などからアユが放流され、解禁日を迎えると多くの太公望で賑わいをみせる。
船生 2.船生(ふにゅう) -塩谷郡塩谷町船生- 同2日
大渡橋を越えると日光北街道は塩谷町の船生に入る。街道沿いに、旧家を思わせる古い門構えの家が見られた。
塩谷町には、昭和60年(1985年)環境庁の「日本名水百選」に選ばれた「尚仁沢湧水」がある。
「芭蕉一宿の跡」碑 3.玉生[「芭蕉一宿の跡」碑] -塩谷郡塩谷町玉生- 同2日
曽良随行日記の元禄2年(1689年)4月2日の条に、「午後1時半頃からかなり強い雷雨が降り、しばらくして玉生へ着いた。その日の晩、玉生に泊る。泊ろうとした宿が悪かったので、無理に名主に頼んで宿を借りた。」とある。
芭蕉が玉生で止宿したのは名主(庄屋)玉生氏の屋敷だった。現在この屋敷跡に「芭蕉一宿の跡」と彫られた石碑が建っている。名主の屋敷跡は後に、その子孫によって土地の尾形栄三郎氏に譲られ診療所が開かれた。先年、尾形医院は近隣に移転したが、旧医院の庭先に「おくのほそ道」と曽良随行日記の抜粋や謂れを刻する「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」の碑が残されている。


「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」碑
東北本線 矢板駅 4.矢板[東北本線 矢板駅] -矢板市- 同3日
芭蕉は、元禄2年(1689年)4月3日、午前7時半ごろ玉生の宿を立って矢板へ向かい、矢板から、沢村、大田原を経て、同日、黒羽に到着した。

○大田原、黒羽→「芭蕉と那須野が原」。



 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第18集 芭 蕉 と 日 光
スタートページ

Copyright(C) 2000-2006  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.