日光へ続く街道と日光までの芭蕉の足跡

五街道について | 日光へ続く基幹街道と脇街道 | 日光までの芭蕉の足跡
 

  

五街道について

徳川家康は慶長6年(1601年)から全国規模で街道の整備を行っていたが、三代将軍家光の寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代についての条文がとり入れられたことから街道整備が進められ、四代将軍家綱の代になって江戸日本橋を起点にした東海道、中山道(中仙道)、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道が基幹道路に定められた。

東海道は、日本橋から西方沿岸の諸国を経て京都三条大橋に至る街道で、53の宿駅からなる。
 
中山道は、日本橋から板橋へ出、上野、信濃などを経て草津で東海道に合流する街道で、69の宿駅からなる。
 
甲州街道は、日本橋から内藤新宿へ出、甲府を経て下諏訪で中山道に合流する街道で、44の宿駅からなる。
 
日光街道は、日本橋から、千住、幸手、小山、宇都宮を経て日光に至る街道で、23の宿駅からなる。
 
奥州街道は、日本橋から宇都宮を経て奥州・白河に至る街道で、宇都宮までは日光街道と重複する。これと、白河から三厩(みんまや。青森県)まで延びる街道を一続きにして奥州街道とする場合がある。
  

日光へ続く基幹街道と脇街道

日光へ続く街道としては日光街道の他、日光御成街道、日光例幣使街道、壬生通(日光西街道)、会津西街道、日光北街道などの脇街道があり、これらの街道は今市に至る間にすべてが日光街道に合流する。

1. 日光街道について

日光街道は、江戸と日光を結んで、徳川家康を御神体とする東照社(後に東照宮)参詣を目的に整備された街道で、江戸日本橋から千住、草加、幸手、小山などの宿駅を経、宇都宮で西に向きを変えて今市を経過し、日光・鉢石宿を終点とする基幹道である。

日光街道や例幣使街道、会津西街道の沿道には、川越城主・松平正綱(徳川譜代の家臣)と子正信によって献上された20万本余りの杉苗が20年間にわたって植えられ、現在も、1万3000本以上が成長を続けており、日光街道だけでも16.52km、3街道では総延長35.41kmにも及ぶ並木が残されている。

2. 日光御成街道について

日光御成街道は、その名が示すように、徳川歴代将軍が日光参詣に出向くための街道として整備されたもので、江戸日本橋から川越、岩槻の宿を経て、幸手で日光街道に合流する。今でも江戸から8里の大宮市膝子、11里の白岡町下野田などに一里塚が現存し、往時の俤を残している。

3. 日光例幣使街道について

正保2年(1645年)、家康を祭る東照社に宮号が下されたことで、その翌々年の正保4年(1647年)から慶応3年(1867年)まで日光に例幣使が派遣された。この時の往路となったのが日光例幣使街道で、例幣使は京都から倉賀野宿(群馬県高崎市)まで中山道を通り、倉賀野から例幣使街道に入った。本街道は、玉村、柴、木崎、太田の宿を経て楡木(栃木県鹿沼市)に至り、楡木で壬生通、今市で日光街道に合流する。例幣使は通常、日光街道、東海道を復路として京に帰還した。

例幣使は、毎年()、神に捧げる幣帛<神に奉献する物の総称>()のために派遣された勅使(使)。

4. 壬生通について

壬生通は日光西街道とも呼ばれ、日光街道から喜沢(栃木県小山市)で西に分岐し、飯塚、壬生を経て楡木で例幣使街道に合流する。この脇街道は、歴代将軍の日光参詣時にも利用され、その際、将軍家の宿として築かれた壬生城本丸の御殿に宿泊している。今も、江戸から21〜25里目にあたる喜沢、飯塚、壬生、稲葉、赤塚に一里塚が現存し、街道の名残をとどめている。

5. 会津西街道について

会津西街道は、会津藩が藩用道路として整備した街道で、若松城下・大町札の辻(福島県会津若松市)から大内峠、山王峠を越えて今市に至る。10の宿駅が置かれた中の1つ大内(福島県下郷町)には、当時の家並みや屋敷割がそのまま残っており、国の伝統的建造物群保存地区に選定されている。

6. 日光北街道について

日光北街道は、奥州街道の大田原(栃木県)から分岐する脇街道で、矢板、玉生、船生、大渡を経、今市で日光街道に合流する。奥州から日光までの道中としては、宇都宮経由の場合と比べ、かなりの近道であることから、奥州の大名の東照宮参拝に利用された。芭蕉は日光を離れたのち、大渡からこの日光北街道に入って大田原を目指している。

  

室の八島から日光までの芭蕉の足跡

元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、室の八島を訪れた芭蕉は、葵生(けぶ)から壬生へ出て壬生通に入り、楡木、鹿沼、文挟、板橋、今市を経由して正午ごろ日光・鉢石宿に到着した。
 
・・・室ノ八嶋ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武<葵生>ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。
 一 壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。
 一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。
一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミ<文挟>ヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミ<文挟>ヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。)
一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、午ノ尅、日光ヘ着。

・・・室ノ八嶋へ行く(乾ノ方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る。(毛武<癸生。栃木市内>という村あり)。この間三里というが二里余り。
 一 壬生より楡木ヘ二里。壬生より半道(半里)ばかり行くと、金売吉次の塚、右の方二十間ばかり畑の中に有り。
 一 楡木より鹿沼へ一里半。
一 昼過ぎより曇り。同晩、鹿沼(より文挟<日光市文挟町>へ二里八丁)に泊る。(文挟より板橋へ廿八丁、板橋より今市へ二里、今市より鉢石へ二里。)
一 四月一日
前夜より小雨降る。午前7時半頃、宿を出る。雨止むが折々小雨降る。終日曇り。正午頃、日光へ着く。


  (曽良随行日記)


上の曽良の随行日記から得られる旅の情報を手がかりにして、室の八島から日光までの芭蕉の足跡をたどり、芭蕉が足をとめた名所・旧跡等を眺めてみよう。  

  
室の八島 1.室の八島[大神神社] -栃木市惣社町- 元禄2年(1689年)3月29日
倭大物主櫛玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)を主祭神とし、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)とその夫と子を配神とする神社で、創建は神武天皇からかぞえて10代目の崇神天皇のころとされる。
境内の、水を張った池の中に石橋や朱塗りの橋が架かった島が8つあり、それぞれの島に筑波神社、天満宮、鹿島神社などが築かれている。

○「芭蕉と室の八島」参照
金売吉次の墓 2.金売吉次の墓 -壬生町上稲葉- 同29日
曽良日記に「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」と書かれた黄金商人・金売吉次の墓で、壬生の中心部から3kmほど鹿沼の方に行ったところの田んぼの中にある。
源平合戦の後、源頼朝から追われる身となった源義経が奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次が当地で病で倒れて死んだという伝承があり、東武日光線の楡木駅から30分ほど行った北赤塚町の水田には、源義経の冠を埋めたという全長62mの判官塚古墳(前方後円墳)もある。
稲葉一里塚 3.稲葉一里塚 -壬生町下稲葉- 同29日
喜沢(小山市)・今市間には一里塚が11あったが、稲葉一里塚はその4番目の塚で、江戸・日本橋から数えて24里目の一里塚にあたる。東西両側にあった内の西側の塚は写真に見るように原形をとどめているが、東の方はわずかに残るのみとなっている。一里塚には、塚を護る為にたいてい根張りのよい榎が植えられていたが、この稲葉一里塚には松の木が植えられていたという。ともかく、今は榎が元気に育っている。
喜沢一里塚(小山市)、飯塚一里塚(小山市)、壬生一里塚'(壬生町)、稲葉一里塚(壬生町)、赤塚一里塚(鹿沼市)と、かつての塚が連続して残っているが、残念ながら飯塚一里塚には木が植え継がれていない。
鹿沼市楡木 4.例幣使街道と壬生通との合流点 -鹿沼市楡木町- 同29日
鹿沼市の楡木で、例幣使街道と壬生通が合流する。写真で、右の道が例幣使街道、左が壬生通で、分岐点には「右 中仙道 左 江戸道」と刻まれた古い道標が残されている。

合流地点から今市の方角を見る
光太寺の笠塚 5.芭蕉が宿泊したとされる光太寺の笠塚 -鹿沼市西鹿沼- 同29日
上の合流点(追分交差点)から7kmほど北に行き、足利銀行手前の信号で左に折れると東武日光線のガードがある。芭蕉が宿泊したと伝えられる曹洞禅寺・光太寺は、このガード先に見える小高い光太寺山(小鼓山)の中腹にある。本堂は、山麓の附属幼稚園から参道を5分ほど登ったところにあり、本堂の左側の小高く盛られた塚上に「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られた墓碑が建っている。この塚は、芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養した「笠塚」といわれ、写真の碑は後代のものだが、その後ろの自然石が笠塚を築いた当時の碑であると説明されている。
墓碑の左隣に百里供養碑があり、その脇に謂れを綴る説明板が建てられている。
高野百里の没した翌年の享保十三年(一七二八)に、門人によって建碑された。山崎北華の『続奥細道蝶の遊』に、
此所の西の方の山寺に翁の笠塚有り。
其角・嵐雪が印、百里塚も有り。
笠塚に到りて、
我も此影に居る也花の笠
三月晦日、日光山に着ぬ。
とあるので、山崎北華は芭蕉の『おくのほそ道』の跡を慕って、(百里没後)十年目の元文三年三月二十九日(一七三八)鹿沼に泊り、此の碑の前で句を作っている。

光太寺の境内から鹿沼市街を見る
今市市小倉 6.例幣使街道の杉並木はここから -日光市小倉- 4月1日
鹿沼から御成橋を渡ってさらに北へ進むと、日光市小倉の入り口に圧倒されるほどの存在感を放つ杉並木が見えてくる。まるで昼と夜の境目のようであり、トンネルと言ってもいい。杉並木がはじまる付近に「例幣使杉並木街道」の標柱が建ち、その反対側に並木寄進碑が建っている。説明板に、「松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる日光市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑町(会津西海道)の四ヶ所に建っている。この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている」とある。
JR日光線文挟駅 7.JR日光線文挟駅 -日光市文挟町- 同1日
小倉の並木寄進碑から2.3kmほど進んだところにJR日光線文挟(ふばさみ)駅がある。文挟は曽良日記に「火バサミ」と書かれたところ。例幣使街道は、鹿沼市の富岡(西脇地区)から日光市の板橋南部までJR日光線と並走しており、その間の文挟駅は街道から右に切れてすぐのところにある。
30m〜40mの梢をそろえた老杉の並木道は実に壮観で、文挟駅で降りて杉並木を散策といきたいところだが、例幣使街道は交通量が多く、歩道部分が設けられていないので散策には不向きだ。

日光市文挟町・板橋間の例幣使街道を見る
今市市板橋 8.例幣使街道・板橋の交差点 -日光市板橋- 同1日
文挟駅から4kmほど行ったところに、曽良日記に「火バサミ<文挟>ヨリ板橋ヘ廿八丁」と書かれた板橋の交差点があり、この付近は並木道が途絶えている。例幣使街道はこの90mほど先で左へ90度近いくねりを見せる。
今市市今市 9.日光街道と例幣使街道の合流点 -日光市今市(下今市)- 同1日
例幣使街道は、板橋の交差点から7kmばかり進んだ地点で、宇都宮経由の日光街道と合流する。写真はその合流地点で、右の並木道が例幣使街道、左の並木道が日光街道である。
例幣使街道と日光街道の分岐点には追分地蔵尊が鎮座し、その境内の一角に、「右 かぬま 左 うつの宮 道」と刻まれた道標が建っている。
日光街道も例幣使街道も交通量が多く、なかなか杉並木の中を歩くことができないが、この分岐点から日光街道を宇都宮方面に2、3kmほど行くと、日光街道の一部が歩行専用になっている箇所がある。そこには地面がむき出しの日光街道があり、両側には小川が流れ、天を見上げれば40mもあろうかと思われる老杉が聳え立っている。

追分地蔵尊1  2
史跡 鉢石地図 10.日光街道最終宿「鉢石宿」 -日光市上(中、下)鉢石- 同1日
日光街道の最終宿が鉢石宿である。当地は、昔も今も、上鉢石、中鉢石、下鉢石に区分けされ、神橋から東に位置しているので、古くから東町とも呼ばれている。
曽良随行日記の4月1日の条に「其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。」と書かれているが、その「五左衛門宅」がどこであるかは不明である。
中鉢石の宇都宮信金前に写真のような「史跡 鉢石」の標柱が建ち、その「鉢石」が同銀行の庭先に見られる。「鉢石」には、その昔、日光山開祖・勝道上人が托鉢の途中、大谷川(だいやがわ)岸辺のこの石に座って日光山を仰いだところから、この石が「鉢石」と呼ばれるようになり、日光街道の最後の宿名もこれにちなんで「鉢石宿」とされた、という言い伝えがある。



 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第18集 芭 蕉 と 日 光
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