世界遺産に登録された日光の二社一寺
 

日光山の信仰の歴史

世界遺産の碑 平成10年(1998年)の6月、環境庁と文化庁によって日光の二社一寺とその境内地が世界遺産一覧表への登録候補として推薦されていたが、1年半後の平成11年(1999年)12月になって文化遺産に登録された。日本の世界遺産としては10番目、文化遺産としては8番目の登録となった。日光の二社一寺とは、二荒山神社、東照宮、輪王寺を指すが、日光山の信仰の歴史は古く、今から1200年以上も前にさかのぼる。

天平神護2年(766年)、10人の弟子とともに大谷川(だいやがわ)を渡り、ほとりに草庵を結んで男体山登頂の時機を待っていた勝道上人は、天応2年(782年)10月、ついに男体山の頂を極め念願を果たした。この時、上人は山頂で男体山の神・大己貴命(おおなむちのみこと。大国主命)と、その妻子である女峰山の神・田心姫神命(たごりひめのかみのみこと)と太郎山の神・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)に会い、開山を懇願して承諾を得、これに報いて建てたのが三神を祭る二荒山神社、山頂の奥宮、中禅寺湖畔の中宮祠である。

勝道上人は、大谷川のほとりに大己貴命の本地仏である千手観音、その妻子の本地仏である阿弥陀如来、馬頭観音を祭る四本龍寺を築き、中禅寺の湖畔に神宮寺(中禅寺)を創建した。弘仁元年(810年)に満願寺の勅号が与えられた四本龍寺は、登頂祈願時に結んだ彼(か)の草庵であり、現在の輪王寺の前身である。

こうした山岳信仰は、初期においては「二荒山」と総称されたが、平安時代になって「日光山」と改められた。勝道上人の没後、日光山は弘法大師空海、慈覚大師円仁、藤原宗円、弁覚らによって中興され、さらには皇族が貫主になったことなどで繁栄を極めたが、秀吉が小田原攻めを行った際、日光山の衆徒が小田原方の軍勢・壬生義雄に従い北条氏に荷担したため、すべての寺領が豊臣秀吉に没収され衰えをみせた。

しかし、慶長18年(1613年)、徳川家康の知遇を受けていた慈眼大師天海が五十三世の貫主になると日光山は次第に復興し、現在の基礎となる一山が築かれた。天海は江戸初期の天台宗の僧で、南光坊と称した。天文5年(1536年)に会津に生まれ、比叡山で修行を重ね密教を修得した。家康、秀忠、家光と徳川三代にわたって帰依を受けている。

家康は、元和2年(1616年)75歳で没したのち久能山に葬られたが、遺言に従い日光山に遺骸を移すことが決まると、二代将軍徳川秀忠は、本多正純と藤堂高虎を専任奉行に立て廟舎の造営に当たらせた。元和2年(1616年)10月26日の着工から翌年3月まで、約5ヶ月という短期間に本社、霊廟などの完成を見るが、この時の規模は、今日の久能山東照宮とほぼ同じだったといわれる。完成後、遺骸が久能山から日光山に移され、同月17日、東照大権現を神号とする鎮座の儀式が行われた。これが日光東照宮の創始とされ、その後、三代将軍家光によって寛永11年(1634年)11月から翌々年の4月まで約1年半の歳月をかけて大造替が行われ、五代将軍綱吉も元禄2年(1689年)に彦根城主・井伊直該を修造惣奉行に任じて大修復を行っている。

こうして、日光山は幕府と一体化した信仰の形態が確立したが、明治2年(1869年)の神仏分離政策により、勝道上人が開山して以来続いた神仏和合の伝統が終りを迎え、日光山は二社一寺、すなわち二荒山神社、東照宮、満願寺に分離された。弘仁元年(810年)以来の「満願寺」の寺号は、承応3年(1654年)に「輪王寺」に改称されたが、明治2年(1869年)に「満願寺」に戻り、明治16年(1883年)になって「輪王寺」の称号が復活し、現在に至っている。

 
二荒山神社についての補説

二荒山神社は、男体山を御神体とし日光全山を境内とする壮大な神社で、観光客で賑わう華厳の滝や中禅寺湖は神社の境内の中にあり、「いろは坂」は神社の参道にあたる。東照宮の北西側にあるのが本社で、現在見られる建物は、元和5年(1619年)に二代将軍秀忠が造営したもの。本殿、唐門、掖門、透塀、拝殿、大国殿、鳥居、神輿舎などが国指定の重要文化財になっている。

東照宮社務所裏の開山堂付近から滝尾道が通じているが、その先に鎮座する滝尾神社は二荒山神社の別宮で、弘仁11年(820年)に入山した弘法大師空海が田心姫神命を祭って開基し、嘉祥元年(848年)に来山した慈覚大師円仁は、その境内に山王権現を祭った。滝尾神社の参道・滝尾道は杉や広葉樹がうっそうと茂る細道で、参拝客もほとんどここへは訪れることがなく、森林浴を兼ねて森を歩くのに格好の散策路となっている。

参道沿いには、安産信仰の観音堂(輪王寺所有)や不動明王などの石像が並ぶ「仏岩」、勝道上人と弟子の墓、学問の神・菅原道真を祭る北野神社、滝尾神社の祭神・田心姫神命が手を掛けたと伝えられる「手掛石」、関ヶ原の戦いで徳川家康が乗った名馬の「神馬の碑」などが見られる。

日光東照宮についての補説

東照宮は、徳川家康の霊を東照大権現として祭る神社で、日光山第五十三代貫主、慈眼大師天海によって創建された。創建当初は「東照(大権現)社」と称したが、家光の大造替から10年後の正保2年(1645年)11月、後光明天皇から皇室の先祖神を祭る神社に用いられる宮号が宣下され、「東照宮」に改名されている。

家康は、元和2年(1616年)1月21日に鷹狩りに出かけたがその夜にわかに発病し床に臥した。4月になって病状は悪化し、死期を悟った家康は、本多正純、僧崇伝、僧天海を枕元に呼び死後の処置を指示した。崇伝の「本光国師日記」には、その内容が「・・・御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺に立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、(後略)」と書かれている。家康の神号については、崇伝が主張する「明神」と天海の「大権現」で対立したが、二代将軍秀忠は、豊臣秀吉と同じ「明神」を避けるべきとの天海の主張を聞き入れ、「大権現」を神号として鎮座の儀式を行った。

家康の霊は東照宮北部の奥社に祭られている。「眠り猫」の彫刻が見られる回廊潜門を入ると、奥社への入口坂下門がある。昔、将軍以外開けることができなかったため「開かずの門」とも呼ばれた門である。ここから奥社への参道を10分ほどかけて登ると「東照大権現」の鳥居額を掲げる銅鳥居があり、石段を登り詰めたところに奥社拝殿がある。この拝殿の奥に祭神家康の遺骸を納めた墓所・奥社宝塔がある。宝塔は鋳工椎名伊豫の作で、八角九段の基盤の上に建ち、5mの高さがある。はじめ木造であったが、五代将軍綱吉の時に現在の唐銅製に改められた。

東照宮の文化財としては、本殿、石之間、拝殿、唐門、透塀、陽明門などが国宝に指定され、上社務所、神楽殿、神輿舎、鐘楼、本地堂、経蔵、御水屋、五重塔、石鳥居などが国指定の重要文化財になっている。

輪王寺についての補説

神橋の向かいの長坂を上り詰めると日光山輪王寺に行き着く。すなわち輪王寺は日光山の入口にあたり、日光山巡りは輪王寺が起点となる。参道に勝道上人の像がそそり立ち、境内中央に二社一寺で最大の建物、輪王寺本堂(三仏堂)がある。日光山の総本堂に当たる三仏堂には、開山以来の日光三社権現本地「千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音」と、江戸期に加わった東照三社権現本地「薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来」の2組の本地仏(木像)が安置されている。

輪王寺には、国指定重要文化財になっている全8幅の家康の画像が所蔵されているが、これは三代将軍家光が夢の中で見た家康の姿を狩野探幽に写させたもので、茶紋服、白衣、装束、茶紋服頭巾、白頭巾を身に付けた家康像が描かれている。

輪王寺の別院に徳川家光の霊廟・大猷院がある。家光は慶安4年(1651年)4月20日、48歳にして江戸城で没し、「・・・死後も魂は日光山中に鎮まり、東照公のお側近く侍り、仕えまつらん。・・・慈眼堂(天海大僧正廟所)の傍らに葬るべし」の遺言に従って、慈眼堂の北側の大猷院に埋葬された。家光350年忌にあたる平成12年(2000年)の4月5日から11月30日まで、350年間、立ち入りを堅く拒んできた家光の墓所・奥の院が一般公開された。

輪王寺の文化財としては、大猷院の本殿、相の間、拝殿、および大般涅槃経集解が国宝に指定され、輪王寺本堂、大猷院唐門、慈眼堂拝殿、開山堂などが国指定の重要文化財になっている。



【本文監修】 日光山輪王寺


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第18集 芭 蕉 と 日 光
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