大神神社(室の八島)について
 

大神神社について

社伝によれば、大神(おおみわ)神社は、倭大物主櫛玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)を主祭神とし、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、瓊々杵命(ににぎのみこと。咲耶姫の夫)、大山祇命(おおやまつみのみこと。咲耶姫の父)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと。咲耶姫の子)を配神とする神社で、創建は神武天皇からかぞえて10代目の崇神(すじん)天皇のころとされる。
崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国平定のときに、大和国三輪山(奈良県桜井市)に鎮座する日本最古の神社、大和国一之宮三輪明神・大神神社の分霊を奉斎し、民の平安と戦勝を祈願したのが始まりと伝えられている。

大和国一之宮三輪明神・大神神社のホームページ:http://www.oomiwa.or.jp

7世紀後半、下野国府が当地に置かれ、国司が下野国の延喜式内社(平安初期の朝廷の儀式や制度などを記した「延喜式」の神名帳に官社として登録されている神社)の神々を大神神社に合わせ祭って惣社(総社)としたという。
ちなみに、惣社(総社)とは、国司が国内の神社を管理することが任務となっていたため、国府または国府の近くに一の宮・二の宮(諸国の上位1、2位につける格式ある神社)を一同に集めて祭った神社の称号である。

大神神社は、天正12年(1584年)に皆川広照と北条氏直との戦いで焼失したが、三代将軍徳川家光が日光参詣で立ち寄った際、あまりの衰退ぶりを目の当たりにし、諸大名に多数の金品を寄進させるとともに、自らも社領三十石を献じ、杉の苗木一万本を寄進して社殿を復興させた。その後、大正15年(1926年)になって、社殿の老朽化にともない大改修が行われ現在に至っている。

歌枕「室の八島」について

大神神社は古来「室の八島」ともいわれ、境内の、水を張った池の中に石橋や朱塗りの橋が架かった島が8つあって、それぞれの島に筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒山神社、香取神社が鎮座している。

なぜ「室の八島」と言われるかについては、曽良の言葉として「無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申」と「おくのほそ道」の本文に書かれている。
室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。 (おくのほそ道 「室の八島」の章段)

これは、古事記にある「一夜で懐妊したため貞操を疑われた木花咲耶姫が、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室に入って火を放ち、燃え盛る炎の中で無事に彦火々出見命ら三柱を産み落とした」という神話に依るもので、大神神社が「かまど(古くはかまどを『やしま』といった)のごとく燃え盛る無戸室」で出産した咲耶姫を祭っていることから「室の八島」と呼ばれるようになったことを説明している。

かまどを意味した「やしま」が「八島」に変わって境内に8つの島が築かれ、周囲の池から煙の如く立ち上がる水蒸気がかまどからの煙に見立てられたが、正徳4年(1714年)に刊行された貝原益軒の「日光名勝記」には、当時、池に水は無く、したがって水蒸気が立ち上がる景も見られなかったと記されている。

また、「おくのほそ道」に「又煙を読習し侍もこの謂也」とあるように、室の八島を詠む歌は、上の神話の謂れから煙にちなんだものにする習わしがあった。

「詞花集」 藤原実方
いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは

「新勅撰集」 藤原定家
暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば

「新拾遺集」 大江匡房
煙たつ室の八島にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける

「このしろといふ魚を禁ず」とは

「おくのほそ道」の中で、室の八島の謂れに続けて「このしろといふ魚を禁ず」という件(くだり)がある。これは、ニシン科の魚でコハダとも呼ばれる「このしろ」を焼くと人体を焼いたときの匂いがするとされたことから、火の中で貞操を証した木花咲耶姫を慮(おもんばか)って、大神神社がこれを禁忌しているということを叙しているのだろう。

「目でみる栃木市史」には、「室の八島にまつわる伝説」として次のような「このしろ伝説」が記されている。

下野国に、むかし、五万長者と呼ばれる長者がおり、長者には常陸国の国司に嫁ぐことを約束した娘がいた。ある日、下野国に流離(さすら)い着いた孝徳天皇の子有馬皇子が長者の家に住み込み、いつしか娘と恋仲になった。国司は婚姻の約束を果たすよう長者に催促するが、すでに娘は有馬皇子に心が移ってしまい長者は途方に暮れる。そこで思い立ったのが娘を死んだと見せかけて国司に婚姻を断念してもらうことだった。偽りの葬儀で、長者は棺(ひつぎ)に「子の代(このしろ。子の代わり)」として「つなし(ニシン科)」とニラを入れて野辺送りをした。すると、これを焼いた匂いが人を焼いたときと同じ匂いのため、国司は娘がほんとうに死んだものとあきらめ、常陸国に帰って行った。いつしか「つなし」は「このしろ」とも呼ばれるようになった。むかし、大神神社で行われていた毎年9月9日の「つなし」を焼いて捧げる神事は、この謂れによるという。(要約)

また、安永7年(1778年)に刊行された芭蕉研究家・高橋(蓑笠庵)梨一著の「奥細道菅菰抄」には、上と似た内容の「このしろ伝説」が記されている。

むかし此処に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。国の守これを聞給ひて、此むすめを召に、娘いなみて行ず。父はゝも亦たゞひとりの子なりけるゆへに奉る事をねがはず。とかくするうちに、めしの使数重なり、国の守の怒つよきときこえければ、せむかたなくて、娘は死たりといつはり、鱸魚(ろぎょ。スズキの別称)を多く棺に入て、これを焼きぬ。鱸魚を焼く香は、人を焼に似たるゆへなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍るとぞ。歌に、あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん。此事十訓抄にか見え侍ると覚ゆ。このしろは、子の代にて、子のかはりと云事也。此魚上つかたにては、つなじと云。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第17集 芭蕉と室の八島
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