草加宿・旧日光街道を歩く
 

草加市について

草加市は埼玉県東南部に位置する新興工業都市で、江戸時代には千住の宿に次ぐ日光街道第二の宿駅・草加宿として繁栄し、さらには灌漑用水の開削や新田開発などを行って江戸幕府の台所を支える穀倉地帯となり、幕府の直轄領として発展した。
市政施行は昭和33年(1958年)11月で、当時3万5千人ほどであった人口が、団地建設や交通の利便性が高まったことなどによって急激に増加し、平成11年(1999年)には22万余人を数えている。
当地を南北に貫いた日光街道は、今、県道足立・越谷線として整備されているが、高砂1丁目から「草加せんべい発祥の地碑」が建つ「おせん公園」のところまでが旧日光街道(旧道)として残されている。近代化への営みが往時の面影を少しずつ失わせたことは確かだが、旧道を歩くと、今も草加宿の名残をとどめるところを目にすることができる。

草加宿南端の地蔵堂

日光街道第二の宿駅は、この旧道沿いに築かれ賑わいをみせたが、その南端に位置したといわれるのが草加市役所前の地蔵堂である。近代的な街中の一角に取り残されたように鎮座する地蔵堂は、江戸中期、豪商大和屋・浅古半兵衛が邸内に建てたものと伝えられ、堂内には石造りの地蔵菩薩立像が安置されている。

草加神社の標柱

地蔵堂から北に向かって100mほど進むと、宿場町の雰囲気がただよう旧家の北側に、大正4年(1915年)に建立された草加神社の標柱が見られる。草加神社は旧南草加村の鎮守で、明治42年までは氷川神社と称していた。本殿は天保年間(1830年〜1844年)、拝殿は江戸末期の建立と伝えられる。石造りの鳥居には、「氷川神社」の旧名が掲げられている。
草加神社の道標からやや北に進むとあさひ銀行の前に、「日光街道 葛西道」と彫られた標柱が見られ、更に進むと、草加駅東口の駅前通りとの交差点に行き着く。交差点の信号機の下に、路線の起点や終点、経過地を表示するための「道路元標」が建っているが、設置年代は不明である。

草加宿下三町の鎮守・八幡神社

交差点から70mほど行くと、旧道の右側に誉田別尊(ほんだわけのみこと。応神天皇)、菅原道真、保食神(うけもちのかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする八幡神社の鳥居や参道が見られる。
八幡神社の創立年は不詳とされるが、「草加見聞史 全」には、享保年間(1716年〜1736年)に稲荷神社として創建され、安永6年(1777年)ごろ稲荷社に八幡を合祀して草加宿下(シモ)三町の鎮守となったことが記されている。当神社は明治42年(1909年)4月、草加神社に合祀された。

享保年中、土産田家二代の某(なにがし)、己が所有の宅地内に稲荷社を祀りて信仰す。同家三代の安永6年(1777年)神明宮守、安房隠居して土産田家に入る。当時、神明宮へ二本松奥方より寄附ありたる八幡の御尊像を携え行き稲荷社へ合祀して八坂神社と称し、宿下三ヶ町の鎮守となしたる。(草加見聞史 全)

拝殿に、文政9年(1826年)草加宿の野口(武蔵屋)金蔵が描いた龍の天井絵が見られる他、昭和56年(1981年)に市の文化財に指定された獅子頭一対が社宝として所蔵されている。

おせん茶屋

八幡神社から500mほど行くと道の右側に「おせん茶屋」がある。ここは、草加せんべいの祖といわれる「おせんさん」にちなんで名付けられた小公園で、園内には、宿場の雰囲気が漂う茶店風の休憩所や高札を模した掲示板などがあり、休憩所の前には「日光街道」の標柱が建てられている。
      
おせんさんは、草加宿の茶屋で旅人相手に団子を売っていたが、おいしいと評判の団子も時には売れ残る日もあり、団子の処分に頭を悩ませていた。そんな折、おせんさんに一人の旅人が、団子をうすくのして乾かし、焼いて売ることを勧めた。旅人が教えた通りに焼いて店に出したところ、日持ちがして、携帯でき、そのうえ美味しい「堅餅」が大評判となり、いつしか草加の名物になったという。

このような、穀粉をゆでてから焼いて(または揚げて)つくる菓子の製法は、遣唐使が中国から持ち帰ったものといわれ、起源は1000年以上前にさかのぼる。

大川図書の墓がある東福寺と大川図書

おせん茶屋の向かい側に松寿山不動院と号する東福寺の参道入口がある。入口に「松寿山」、「東福寺」と刻む1対の石柱が建ち、山門までの長い参道が続いている。川口市安行原・密蔵院満福寺の末寺、東福寺は、僧賢宥により開山され、草加宿の開発を手がけた大川図書(ずしょ)が慶長11年(1606年)に創建したと伝えられる。境内には、山門、本堂、大師堂、護摩堂、鐘楼が建ち、四脚門切妻造りの山門、本堂の彫刻欄間、柱上に彫刻を施された鐘楼は市の文化財に指定されている。広大な墓地の一角に大川図書の墓や江戸落語を中興した石井宗叔の墓がある。
      
東福寺を創建した大川図書は、小田原北条氏に仕え、土本氏を名乗る武士であったが、天正18年(1590年)に小田原城が落城したことで浪人となり岩槻に移った。その後、朋友の関東代官伊奈備前守忠次の計らいで一時谷塚村に住んだが、後に、宿篠葉村に移り住み、草加宿を開く立役者となった。この功績により幕府から「名字帯刀」を許され、草加宿で宿役人などの職が与えられた。図書は新田の開発や農業の振興などにも大きな功績を残している。

住吉2丁目の県道足立・越谷線沿いに図書に連なる大川家の屋敷があり、入口の前には、大川家が2度にわたって明治天皇の行在所になったことを記念する石碑が建てられている。

草加宿の総鎮守・神明神社

旧日光街道と県道足立・越谷線との分岐点付近に、天照大神を祭神とする神明神社がある。神明神社は、「風稿」の中で「宿内の惣鎮守として土人市神と称す、村持」と書かれ、「草加見聞史 全」によれば、元和(1615年〜1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりで、正徳3年(1713年)草加宿組9ヶ村の希望により宿の総鎮守として現在地に移されたという。

天保年間(1830年〜1844年)に社殿を焼失したが、弘化4年(1847年)に再建され、明治34年(1901年)と昭和52年(1977年)に修繕が施されて現在に至っている。上記の八幡神社と同じ明治42年(1909年)に草加神社に合祀された。

おせん公園

おせん公園」は神明神社の北側にあり、その脇を伝右川が流れている。公園にはせんべいに見立てた「草加せんべい発祥の地碑」が建ち、その隣には、せんべいを焼くときに使用する火箸に見立てた角柱の碑が建てられている。
おせん公園前の横断歩道を渡り、伝右川に架かる「草加六丁目橋」を渡ると、芭蕉像や望楼が建つ「札場河岸公園」にたどり着く。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第16集 芭 蕉 と 草 加
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