草加宿について
 
千住宿から越ヶ谷宿までの新旧ルート
河川は現在の呼称・流域で表示
徳川家康は慶長6年(1601年)から全国的に街道の整備を行ったが、当時、奥州街道の千住〜越ケ谷間は、沼地が多いため遠回りを強いられ、花俣から八条(八潮市)に出て、古利根川と元荒川の自然堤防伝いに越ケ谷に出るという迂回ルートだった。

慶長11年(1606年)になって、宿篠葉村(松江町)の大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、瀬崎から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、草原を開いて、千住〜越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。このときの新道の築き方が「草加」という地名の由来とも言われる。


新道が完成するとこれを利用する旅人が急増し、新道沿いには茶店や旅籠屋など、旅人相手の商いを目指す人々が集いはじめ、活気ある町場が形成されていった。
こうして旅人が増大していく中で、人馬を千住から越ケ谷まで長距離継立てすることが困難となり、寛永7年(1630年)、草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ケ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。これについては、草加に宿駅を置くよう幕府に願い出た大川図書の功績も伝えられている。

当時、新道沿いには1つの村で宿を編成できるほどの大きな集落がなかったため、南草加、北草加、吉笹原、原島、立野、谷古宇、宿篠葉、与左衛門新田、弥惣右衛門新田の9か村が組合立で草加宿を成立させたとされているが、近年になって、宿組についてはこの時期までに与左衛門新田、弥惣右衛門新田が存在していなかったとして、7か村の組合立だったことも主張されている。

開宿当初の規模は、戸数84軒、南北の距離685間、伝馬役人夫(人馬の継立て役)25人、駅馬25頭といわれ、旅籠屋の数5、6軒、他に豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、他はすべて農家だった。
しかし、芭蕉が「おくのほそ道」の旅で草加を歩いた元禄2年(1689年)ごろになると戸数は120軒に増え、正徳3年(1713年)に草加宿総鎮守として神明神社が建てられ六斎市(毎月6回、定期的に開かれた市)が開かれるようになると、草加宿は近郷商圏の中心地として急速に発展した。

享保13年(1728年)には、伝馬役人夫が50人、駅馬が50頭となって開宿当初の2倍まで増加し、天保14年(1843年)になると飛躍的な規模拡大が見られ、「宿村大概帳」によれば、草加宿の街道沿いには余すところなく家々が軒を連ね、本陣と脇本陣が設けられ、さらに旅籠屋は67軒(大2軒、中30軒、小35軒)にまで増加し、総人口は3619人になったという。
草加宿は、このような経過をたどりながら日光道中有数の宿場町として発展を続けたが、舟運が盛んになるにつれて河岸問屋との対立も生じている。

草加宿の位置は、南は草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から、北は神明一丁目の草加六丁目橋付近までと考えられており、昭和12年に開通した県道足立・越谷線の西を「箪笥の取っ手状の道」が走っているが、この道こそが草加宿の核となり、芭蕉と曽良が歩を進めた旧日光街道である。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第16集 芭 蕉 と 草 加
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