江戸時代の長旅と芭蕉の旅姿
 
札場河岸公園の芭蕉像

交通機関が発達した現在、長距離の旅といっても飛行機や新幹線を使えばあっという間に目的地に到着できるようになっているが、昔は、長旅となると途中で命を落とすことさえ覚悟し、近親者や友人は今生の別れといった思いで次の宿場まで見送ったといわれる。
 

「おくのほそ道」には、旅立ちの際の心情が「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と書かれ、結びの地大垣では、無事帰った芭蕉を前に門人らが「蘇生のものにあふがごとく」喜んだとある。
 

現在、かなりの数の旅のガイドブックが出版され書店の本棚をにぎわしているが、江戸時代においても、全国的に街道の整備が進められ旅の安全性が高まるようになると旅人が急増し、名所案内本や旅の手引書が刊行されるようになった。中でも人気を集めたのが、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や文化7年(1810年)に出された八隅廬菴著「旅行用心集」で、「旅行用心集」には、旅の

心得が道中用心61ヶ条としてまとめられているほか、里数や関所、旅装束、携帯用品、毒蛇に噛まれたときの注意などが詳細に記されている。

当時の旅装束は、時代考証が行き届いているテレビの時代劇ドラマで見られるが、芭蕉の「おくのほそ道」の旅姿については、上の芭蕉像(札場河岸公園)に見るような僧衣をまとったものと言われ、「おくのほそ道」ゆかりの地に建つ芭蕉の像は大概同じような姿で造られている。
読売新聞社編の「奥の細道を行く」には、長期逗留した黒羽浄法寺家の子孫の話として、芭蕉が身に付けた道中袴は木綿製で裏地は絹だったことが書かれている。絹にすることで、袴が肌にまとわらず歩きやすくなるという利点があった。

上の像に見られる道中笠は、日よけや雨よけに役立つほか、頭を衝撃から守るのにも役立った。道中笠は菅で編んだものが多く、三度笠も同様である。三度笠は顔面を覆うほどに深く作られたもので、飛脚がこの笠をかぶって江戸と京都・大坂(大阪)間を月に3度往復したことからこの名がついた。

「おくのほそ道」の草加の章段に「痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞など・・・」とあるので、芭蕉は、直弟子許六の行脚図に見られるように、紙子(紙製の衣服)やゆかたなどを入れた風呂敷の包みを「痩骨の肩」にかけたともとれるが、芭蕉が「おくのほそ道」を執筆中の元禄6年(1693年)に、弟子の許六が描いた「芭蕉行脚図」では芭蕉はほぼ「身すがら」である。

旅の折、芭蕉は僧がお経や布施物を入れて用いる頭陀袋を携帯し、「おくのほそ道」の雄島が磯の章段で「旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり」と、頭陀袋のことを書いている。上の写真で腰あたりに見えるのがそれである。

当時の旅人は、往来手形、手帳、矢立、手拭い、着替え(ゆかた、帋子)、雨具、扇子、油紙、煙草、鏡、糸針、提灯、ろうそく、火打道具、懐中付木、麻縄などの旅道具を振り分け荷物にして携帯した。長旅で往来手形の次に大事なのが草鞋で、草鞋は悪路のため消耗が激しく予備のものを携帯するのが常だった。太平記に「御足かけ損じて草鞋みな血に染まれり」とあり、当時の旅人が草鞋の緒にすれて足を痛める「草鞋食い」に悩まされたことが窺い知られる。

「おくのほそ道」の仙台の章段で「風流のしれもの」と書かれた嘉右衛門は、芭蕉に染緒がついた草鞋を二足餞別として差し出しているが、これなどは足にやさしく、以後の旅を楽にするものとなったのだろう。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第16集 芭 蕉 と 草 加
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