第一次芭蕉庵から第三芭蕉庵まで
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
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1.入庵前の芭蕉の動向

芭蕉が、後に江戸で出版されることになる「貝おほひ」の原稿を携えて伊賀上野を立ったのは、寛文12年(1672年)29歳のときであった。江戸到着後、最初に足をとどめたところについては、日本橋本舟町の名主卜尺方、小田原町の杉山杉風方などの説がある。卜尺は、芭蕉が京都の北村季吟に学んでいるときに出会った同門の俳友であり、杉風は、日本橋で「鯉屋」という名の幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた門弟である。

杉山杉風について

芭蕉が北村季吟から連歌俳諧の秘伝書「埋木」の伝授を受けた翌年の延宝3年(1675年)5月、東下していた談林俳諧の中心人物・西山宗因(梅翁)を歓迎する百韻俳諧が江戸本所で興行された。連衆は、桃青(芭蕉。本俳席が文献上「桃青」号初出)の他、芭蕉が一時執筆役をつとめた幽山(高野直重)や、「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句で知られる山口信章(素堂)、木也、吟市、少才、似春などの面々だった。

芭蕉は、この西山宗因を「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳(貞門俳諧の祖)が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(去来抄)と高く評価し談林俳諧に傾注した。以降、芭蕉は次のような経緯の中で次第に頭角をあらわし、延宝5年(1677年)または同6年に万句興行を果し、俳諧宗匠として立机することになる。

延宝3年(1675年) 32歳
○広岡宗信編「千宜理記」に「伊州上野宗房」として発句六句入集。
○内藤露沾判「五十番句合」に発句二句入集。

延宝4年
○山口素堂と両吟で天満宮奉納二百韻を興行し「江戸両吟集」として刊行。
○北村季吟編「続連珠」に発句六句、付句四句入集。

延宝5年
この年から4年間、神田上水(小石川上水)の工事に携わる。
○内藤風虎主催「六百番俳諧発句合」に二十句入集。
○伊藤信徳と山口素堂との三吟百韻を興行。

延宝6年
○前年からの信徳、素堂との三吟三百韻が「江戸三吟」と題して京の書肆寺田重徳から刊行。
○調和系俳人の「十八番発句合」の判者をつとめる。
○「江戸通り町」、「江戸新道」、「江戸広小路」、「江戸十歌仙」などに入集。

そして延宝8年(1680年)に、杉風、卜尺、嵐亭(嵐雪)、螺舎(其角)らの門人が名を連ねる「桃青門弟独吟二十歌仙」(実際は総勢21名)を刊行して桃青門の存在を世に問うなど、芭蕉は、江戸俳壇の中で確固たる地位を築きはじめていた。

 




 

 

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2.第一次芭蕉庵

しかし、この年の冬、芭蕉は突如として宗匠生活を捨て、江戸市中から深川の草庵に転居した。なぜ芭蕉が隠棲の道を選択したかについては、同年冬の「しばの戸」から、内なるものが垣間見られる。それは、名誉欲や利欲の渦巻く俗世間からのがれ、深川、草庵、隅田川といったシチュエーションの中に自らを誘い、清貧を礎にした漢詩文中の世界を自己の現実生活で体現しようとした芭蕉の心中である。

こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手(くうしゅ)にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。
しばの戸に茶をこの葉掻くあらし哉


[解釈] 江戸市中にわび住まいをして9年の歳月を経たところで、住まいを深川のほとりに移した。白楽天が「白氏長慶集」の中で「中国の都長安は昔から名誉と利得の地で、手ぶらでお金を持たずに歩くことなどできないところだ」と書いたのを分別わきまえたことと思えるのは、この身が貧しいためだろうか。
お湯をわかしたい気持ちを知ってか知らでか、嵐が、しばの戸(草庵)まで燃料となる木の葉を掻き集めてきてくれている。侘びしく暮らしていると風までが身内のように思えてしまうものだ。(解釈:LAP Edc. SOFT)

芭蕉が棲み家とした草庵は、もとは杉風所有の生簀(いけす)の番小屋だったもので、天明5年(1785年)の「杉風句集」に「此方深川元番所生洲(いけす)の有之所に移す。時にばせを庵桃青と改られ候」とある。

「元番所」の位置は、むかし「三つ股」と呼ばれた小名木川と隅田川の合流点付近の岸辺で、延宝8年(1680年)に描かれた「江戸方角安見図」(東京都公文書館所蔵)で確認できる。芭蕉の「寒夜の辞」に、庵の地理にふれた「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ」のくだりがあるが、北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」はまさにこの光景を描き出している。

小名木川の向こう岸に、当時、鹿島根本寺住職の仏頂禅師が1年半ほど寓居していた臨川庵があり、芭蕉は禅師の知遇を得、朝夕参禅する日々を送った。この後、芭蕉の作品には、李白、杜甫などに詩精神を学んで得た漢詩文調の作風に加え、「佗」の詩情が色濃く投影されるようになる。

抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫(僧などが持つ杖)をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。

(「芭蕉と仏頂禅師について-芭蕉由緒の碑」より)
  
芭蕉は、庭先から船や雪をかぶる富士山が眺められたことから、杜甫の「
窓含西嶺千秋雪 門泊東呉万里船(窓ニハ西嶺千秋ノ雪ヲ含ミ、門ニハ東呉万里ノ船ヲ泊ム)」を想起して庵を「泊船堂」と名付け自らの号としたが、天和元年(1681年)の春に、門人の李下(りか)から贈られたバショウの株を庭に植えたところ、大きく茂って近隣の名物となり、草の庵は誰言うとも無く「芭蕉」の号で呼称された。

芭蕉翁絵詞伝-深川芭蕉庵

芭蕉は、天和2年(1682年)の春、望月千春編「武蔵曲(むさしぶり)」の中で自らも「芭蕉」と名乗り「芭蕉翁桃青」と署名した。芭蕉は、この年の秋、風雨にたたかれる庭のバショウを題材に「芭蕉野分して」の句を吟じている。

老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたゝびこの句を侘て、屋漏の句作る。其世の雨を芭蕉葉にきゝて、独寝の草の戸。
芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉


[解釈] 老杜(杜甫)の「芽屋秋風ノ破ル所トナル歌」(秋風があばらやを吹き飛ばした)と題する詩句の中に「牀頭、屋漏リテ乾ケル処無キニ、雨脚ハ麻ノ如ク未ダ断絶セズ」(枕もとあたりは、雨漏りで乾いたところがなくなっているというのに、雨あしは麻糸を張ったように降り、まだ止もうとしない)とある。坡翁(蘇東坡)は、後年この句を侘びしく思って、自らも雨漏りの詩句を「牀牀、漏ヲ避ク幽人ノ屋」(寝床という寝床を雨漏りから避けなければならない、この世捨て人の家は。)と書いている。古人がしたためた雨音を芭蕉の葉に聞きながら、一人寝する草の戸(草庵)で一句詠んだ。
嵐吹く一人寝の夜に、芭蕉の葉が風にあおられ、雨に叩かれている音が聞こえてくる。家の中はといえば、まさに老杜や坡翁が体験したと同じように雨が漏っていて、なんとかたらいで凌いでいるありさまだ。このような句を詠むひとときを味わえるのも、草の戸のわび住まいならではと念じる一夜である。(解釈:LAP Edc. SOFT)

暮れも押し詰まった天和2年(1682年)の12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火が発生し、火は折からの北風にあおられ深川まで燃え広がった。「芭蕉」なる新たな俳号を授けた芭蕉庵であったが、「八百屋お七の火事」ともいわれるこの火事で草庵は全焼し、芭蕉は厳寒の中、焼け出されることとなった。

芭蕉翁絵詞伝-深川芭蕉庵類焼

江東区史によれば、火事は午の上刻(午前11時ごろ)に発生し、下谷、浅草、本所から本郷、神田、日本橋にも飛火し、大名75家、旗本166家、神社47社、寺院48宇を焼き尽し、千人を超す焼死者を出した後、翌朝卯の下刻(6時ごろ)ようやく鎮火したという。

其角の「芭蕉翁終焉記」に、大火の様子などについて「深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、これぞ玉の緒のはかなき初めなり」と書かれている。

 




 

 

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3.第二次芭蕉庵

住まいを失った芭蕉は、支援者の杉風も罹災したことから窮地に陥ったが、天和3年(1683年)夏、秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで甲斐の谷村に移り、5月まで逗留した。同年6月、其角編「虚栗」に「栗と呼ぶ一書、其味四あり。」ではじまる跋文「芭蕉洞桃青鼓舞書」を書き与え、当時の俳諧観を吐露している。

松尾芭蕉の総合年譜と遺書-天和3年(「芭蕉洞桃青鼓舞書」)

同年の9月、知友山口素堂が新庵の建築を願って作成した「芭蕉庵再建勧化簿」により、門弟や友人ら総勢52名から寄付金が集められ、これを元手に第二次芭蕉庵が第一次芭蕉庵とほぼ同じ位置に建てられた。その住所について下里知足著「知足斎日々記」に「深川元番所、森田惣左衛門屋敷」とある。

松尾芭蕉の総合年譜と遺書-天和3年(「素堂筆勧化文」)

新庵はこの年の冬に完成。芭蕉は、新築の芭蕉庵に入った感慨を、落ちそうで落ちない枯れ柏葉を己の生き様に例え「ふたたび芭蕉庵を造り営みて 霰(あられ)聞くやこの身は元の古柏」(続深川集)の一句を捻っている。芭蕉40歳の時であった。芭蕉は、貞享元年(1684年)以降、この新庵を拠点に人生すなわち旅であることを実践し、杜甫や西行といった先人が旅によって風雅に迫った境涯を体現するべく、東へ西へと漂泊した。

野ざらし紀行
貞享元年(1684)8月、門人千里(ちり)を伴い「
野ざらしを心に風のしむ身かな」を矢立の初めとし、故郷、伊賀上野に向かって旅立った。前年に亡くなった母の墓参を兼ねての旅でもあった。東海道から、伊勢、伊賀上野、当麻、吉野山、大垣、桑名、熱田、名古屋、伊賀上野(越年)、奈良、京都、大津、水口、鳴海 と旅し、木曽路から甲州路に入り、貞享2年4月末、江戸に戻った。この旅の紀行は「野ざらし紀行(甲子吟行)」としてまとめられた。

松尾芭蕉の旅-野ざらし紀行

鹿島紀行
貞享4年(1687年)8月14日、月見と鹿島神宮参詣を兼ねて、曽良と宗波を伴い鹿島へ旅立った。旅中、根本寺前住職の仏頂禅師をその山内の住まいに訪ね、止宿している。本紀行を綴った「鹿島紀行(鹿島詣)」は、同年8月25日に成立した。


松尾芭蕉の旅-鹿島紀行

笈の小文
貞享4年(1687年)10月11日、旅を前にして其角亭で送別句会が開催され、10月25日、「笈の小文」の旅に出た。江戸から、鳴海、豊橋、渥美半島、伊良湖崎、熱田神宮、伊賀上野(越年)、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪と巡り、貞享5年4月20日、須磨、明石を訪れ、須磨に一宿したところまでの紀行が「笈の小文」としてまとめられている。

更科紀行
貞享5年(1688年)8月11日、8月15日の「中秋の名月」を見るために、蕉門越人(えつじん)とともに岐阜から信濃国の更科へ旅立った。木曽路を登って更科の姨捨山へ行き、長野から浅間山の麓を通って江戸に戻った。この旅の紀行が「更科紀行」である。古来、更科から鏡台山や姨捨山にかかる月を見るのが風流とされており、多くの旅人が当地を訪れている。

江戸歌舞伎・市川宗家の基礎を確立した柏莚こと二代目市川団十郎(1688〜1758)は、この第二次芭蕉庵における芭蕉の生活ぶりについて、台所に2つのかまどや10個の茶碗、庖丁があって、柱に米が2升4合ほど入るふくべ(瓢箪で作った器)が2つ掛けてある、米は門下の者がつぎ足してくれたが、空になると芭蕉自ら求めに出かけた、芭蕉は当時40歳前後だったが60歳ほどの老人に見えたそうだ、などと「老の楽」に記している。これは、実際に庵を訪れたことのある蕉門の小川破笠が、享保20年(1735年)2月8日、柏莚に語ったものである。

桃青深川のはせを庵、へつゐ二つ、茶碗十を、菜切庖丁一枚ありて、台所の柱にふくべを懸けてあり、二升四合程も入べき米入なり、杉風文鱗弟子の見次にて、米無くなれば又入れてあり、若弟子よりの米、間違ひて遅き時ふくべ明けば、自ら求めに出られしが、其頃笠翁子(破笠)は二十三か二十四の時の由、翁(芭蕉)は六十有余の老人と見えし由、其頃翁は四十前後の人か、(中略)嵐雪なども、俳情の外は翁をはづし逃げなど致し候由、殊の外気がつまりて面白からぬ故なりと、翁は徳の高き人なり、今大様翁の像に衣をきせ候へ共、笠翁の覚え候由、常に茶の紬の八徳のみ着申され候、(中略)翁の仏壇は、壁を丸く掘ぬき、内に砂利を敷き、出山の釈迦の像を安置せられし由、机一脚、まのあたり見たりとの笠翁物語り。 (老の楽)

貞亨5年(1688年)の9月30日に年号が「元禄」となり、その半年後の元禄2年(1689年)2月(旧暦)末、芭蕉は「おくのほそ道」の旅を前にして第二次芭蕉庵を手放し、出立の日まで杉風の別墅採荼庵で仮住まいをした。採荼庵は仙台堀に架かる海辺橋の南詰にあった。芭蕉は、翌月27日早朝、ここを立って見送りの門人とともに仙台堀に浮かぶ船に乗り、隅田川をさかのぼった。

採荼庵 ○「おくのほそ道」への旅立ち

 




 

 

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4.第三次芭蕉庵

元禄2年(1689年)8月21日に「おくのほそ道」の旅を大垣で終えた後、芭蕉は伊賀上野や膳所、京都など上方を漂泊。その間、義仲寺に逗留していた芭蕉のもとに、杉風から、第二次芭蕉庵の再入手を試みたが資金繰りに難渋し、実現できなかった旨の書簡が届けられた。

芭蕉は、元禄4年(1691年)9月28日、居住地を失ったまま江戸へ旅立ち、同年10月29日に到着した。帰着直後の芭蕉の所在については、11月13日の曲水宛の書簡に「いまだ居所不定に候」とあるが、5日後の18日に書かれた中尾源左衛門・浜市右衛門連名宛書簡には「宿は(日本橋)橘町彦右衛門と申すものの店にて」と記されている。芭蕉は、この彦右衛門の借家で元禄5年(1692年)の正月を迎えた。

同年の5月になって、杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により、旧庵の近くに第三次芭蕉庵が新築された。この庵は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を離れるまでの丸2年間の住まいとなった。以下は、一株から育てた芭蕉への思い入れを綴る「芭蕉を移す詞」の全文である。

菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる。荷葉は平地に立たず、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るばかりなり。人呼びて草庵の名とす。旧友・門人、共に愛して、芽をかき根をわかちて、ところどころに送ること、年々になむなりぬ。一年、みちのく行脚思ひ立ちて、芭蕉庵すでに破れむとすれば、かれは籬の隣に地を替へて、あたり近き人々に、霜のおほひ、風のかこひなど、かへすがへす頼み置きて、はかなき筆のすさびにも書き残し、「松はひとりになりぬべきにや」と、遠き旅寝の胸にたたまり、人々の別れ、芭蕉の名残、ひとかたならぬ侘しさも、つひに五年の春秋を過ぐして、再び芭蕉に涙をそそぐ。今年五月の半ば、花橘のにほひもさすがに遠からざれば、人々の契りも昔に変らず。なほ、このあたり得立ち去らで、旧き庵もやや近う、三間の茅屋つきづきしう、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭垣厚くしわたして、南に向ひ池に臨みて、水楼となす。地は富士に対して、柴門景を追うて斜めなり。淅江の潮、三股の淀にたたへて、月を見るたよりよろしければ、初月の夕べより、雲をいとひ雨を苦しむ。名月のよそほひにとて、まづ芭蕉を移す。その葉七尺あまり、あるいは半ば吹き折れて鳳鳥尾を痛ましめ、青扇破れて風を悲しむ。たまたま花咲けども、はなやかならず。茎太けれども、斧にあたらず。かの山中不材の類木にたぐへて、その性たふとし。僧懐素はこれに筆を走らしめ、張横渠は新葉を見て修学の力とせしなり。予その二つをとらず。ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。
 
[現代語訳] 菊は東の垣で栄え、竹は北の窓で「此の君」となる。牡丹は、紅色と白色のどちらがよいか論じられるなど、俗人にけがされている。はすは平地にはそだたず、水が清らかでなければ花は咲かない。いずれの年であったか、すみかをこの境、深川に移したとき、芭蕉を1株植えた。ここの風土が芭蕉の生育に適したのだろうか、1株が数株に増え、葉が茂って庭を狭め、萱(かや)の軒先も隠してしまいそうである。人が芭蕉庵と呼ぶので、これを草庵の名にした。旧友や門人は、ともに芭蕉を愛し、芽をかいたり根を分けて、あちらこちらに送ることが毎年のこととなった。ある年、みちのくに行脚することを思い立ち、芭蕉庵はもはやうち捨てることになったので、芭蕉の株を垣根の外に植え替えて、庵の近くに住む人に、霜除けや風除けなど、くれぐれも頼みおいて、とりとめもなく心の赴くままにつづった中にもこのことを書き残し、西行がそのむかし「松はひとりになりぬべきにや」といって残される松を哀れんだと同じように、遠くに旅をしながらも芭蕉への気がかりが積もって、人々との別れ、芭蕉への名残、ひとかたならぬ侘しさも、ついには5年の歳月を過ぎて、再び元気に育っている芭蕉に会って涙を流すのである。元禄5年の5月半ば、古歌に詠われた、人を懐かしむ「花橘」は以前と同じように近くから香っているが、これと同じように人々との通じ合いも昔と変わってはいない。やはり、この近辺を立ち去ることができず、旧庵からやや近いところの、三間の草庵としてはふさわしいものである。杉の柱がたいへん美しく削られ、竹づくりの枝折戸は風情があって心地よく、よしでつくられた垣根は厚く築かれ、南に向かって池に臨んで、水楼のようである。敷地は富士に面していて、芝の門はその景色をさえぎらないように斜めに建てられている。淅江のような潮は三つまたの淀に満々と湛え、月を見るにふさわしいので、三日月の夕べから、雲や雨が観月の邪魔をしないかと不安である。名月の装いのために、旧庵にあった芭蕉をまずこちらに移した。その葉は七尺余り、あるいは葉が風に吹かれて半ばで折れて鳳凰の尾が痛ましい姿になったようであり、また青扇が破れたようであり、なんとも風が憎らしい。たまたま花は咲くが、華やかではない。茎は太いが斧で切られることはない。荘子の「此ノ木不材ヲ以テ其ノ天年ヲ終ルヲ得タリ」にあるように、山中にあって使用されない木の類は、天年を全うすることになるので尊いものだ。僧懐素は芭蕉の葉に文字を書き、張横渠は芭蕉の勢いのある新しい葉から修学の姿勢を学んだ。私はそのようなことは行わず、ただ、芭蕉の葉のかげで遊び、風雨に破れやすいのを愛するのみである。
(現代語訳:LAP Edc. SOFT)
 




 

 

5.第三次芭蕉庵のその後

江東区史によれば、芭蕉が元禄7年(1694年)10月12日に旅先の大阪で没した後、第三次芭蕉庵は杉風らによって保護されていたが、元禄10年(1697年)に、芭蕉庵のあった元番所から六間堀にかけての一帯が、飯山藩松平忠喬の屋敷に取り込まれ、その後、芭蕉庵の周辺は松平遠江守の屋敷となった。芭蕉庵は、屋敷内に旧蹟として保存されたが、幕末から明治にかけて消失したという。

それから半世紀ほど経過した大正6年(1917年)、台風がもとで江東区などの海岸域に大津波が発生し、このとき、稲荷神社が建つ江東区常盤1丁目3番付近で芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が発見された。これより、東京府は大正10年、当地を芭蕉ゆかりの庵跡に指定し、同神社に石蛙を祭って芭蕉稲荷とした。芭蕉庵跡地の「証人」となった石蛙は、現在、近隣の芭蕉記念館に保存・展示されている。

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