芭蕉と仏頂禅師について
 

仏頂禅師について

仏頂禅師は、寛永19年(1642年)常陸国に生まれ、8歳で冷山和尚の鹿島根本寺(茨城県)に入り禅門の道を歩みはじめた。明暦元年(1655年)、14歳の春に、諸国の名僧との出合いを求めて旅に出、延宝2年(1674年)、33歳の時に冷山和尚から根本寺を受け継ぎ、二十一世住職に就任した。

当時、徳川家康によって寄進された根本寺の寺領50石が鹿島神宮に取り上げられていたが、これを不服とした禅師は、就任を機に寺社奉行に訴え出た。この時の江戸の仮住まいとなったのが、承応2年(1653年)に冷山和尚が結んだ深川大工町の臨川(りんせん)庵であった。
訴えから7年を経た天和2年(1682年)、41歳のときに勝訴で解決を見ることとなったが、禅師は寺領が返還されたのちに頑極和尚に住職の座を譲り、根本寺を離れた。

禅師は、元禄8年(1695年)臨川庵を寺とするため幕府に請願し、18年後の正徳3年(1713年)、「臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺」の山号寺号が許可された。これが臨川寺の創始である。

芭蕉と仏頂禅師とのかかわり

芭蕉が江戸市中から深川の草庵に移ったのが延宝8年(1680年)の冬で、このころ仏頂禅師は、鹿島神社との係争で江戸に出て臨川庵に仮住まいをしていた。芭蕉は深川に住んで間もないころに禅師と運命的な出会いをし、川向うの臨川庵に参禅する日々を送った。

臨川庵の境内に建つ「芭蕉由緒の碑」(下記)に「抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。」とあり、熱心に参禅する芭蕉の様子がうかがえる。禅師との交渉期間は、禅師が係争に勝訴するまでの1年半ほどの間と思われ、これを契機にして、芭蕉の作風に「佗」の詩情が色濃く投影されるようになっていく。

貞亨4年(1687年)8月14日、芭蕉は、曽良、宗波とともに鹿島に旅し、根本寺山内に閑居する仏頂禅師とともに、観月のひと時を過ごした。「鹿島紀行」には、はるばる月を見に来たのに、月の光、雨の音といった情景がしみじみと心に感じられ、句を案じることができないなどの心情とともに、月見をした当日の様子が書き記されている。

昼ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。
 おりおりにかはらぬ空の月かげも
  ちぢのながめは雲のまにまに  和尚
 月はやし梢は雨を持ながら    桃青
 寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
 雨にねて竹おきかへる月見かな  曽良
 月さびし堂の軒端の雨しづく   宗波
(鹿島紀行)

松尾芭蕉の旅-鹿島紀行
 

栃木県大田原市の雲岩寺地区に、禅宗の四大道場の一つとされる臨済宗妙心寺派の名刹、雲巌寺がある。仏頂禅師から、修行時代雲巌寺の山中にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌を傍らの岩に書き付けた、と聞いていたことから、芭蕉は黒羽滞在中に禅師の山居跡を訪ね、このときの紀行を次のように「おくのほそ道」に記した。

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
    むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
(おくのほそ道)

雲巌寺の仏頂禅師庵跡

禅師は雲巌寺四十五世徹通和尚と親交が厚く、晩年は雲巌寺で山庵を営んだが、正徳5年(1715年)、病によりこの山庵で没している。享年74歳であった。
雲巌寺に、「前住根本臨川開山仏頂南和尚禅師」、「生徳五乙未年十二月廿八日於山庵化」と書かれた位牌がある。
 

臨川寺境内の石碑

臨川寺の境内には、「芭蕉由緒の碑」と「墨直しの碑」が建っている。「芭蕉由緒の碑」の碑文は次の通り。
 


芭蕉由緒の碑
抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫(僧などが持つ杖)をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。しかるに、翁先だちて遷化し給ひければ、禅師みづから筆を染めて、その位牌を立置れける因縁を以て、わが玄武先師、延享のはじめ、洛東双林寺の墨なをしを移し、年々三月にその会式を営み且、梅花仏(各務支考)の鑑塔を造立して東国に伝燈をかけ給ひし、その発願の趣意を石に勒して永く成功の朽ざらん事を爰に誌すものならし。
文化坊応一 以中坊待買 礎石坊四睡
(あらすじ)臨川寺は、むかし仏頂禅師が構えた寺で、そのころ芭蕉が朝夕赴いた参禅道場である。禅師が芭蕉の位牌をかいた因縁から、美濃派の俳人で小石川白山門前に住む神谷玄武が、各務支考(芭蕉門人)により京都双林寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に石碑を建て、毎年3月に墨直会を催した。また支考の碑も建てた。

次の「墨直しの碑」は、上の碑文にあるように、神谷玄武が各務支考建立の碑を模写して臨川寺に建てた碑で、他に、神谷玄武の「玄武佛」碑(左)、各務支考の「梅花佛」碑(右の円柱形の碑)が建てられている。「墨直しの碑」の碑文は次の通り。     
墨直しの碑 我師は伊賀の国に生れて、承応の頃より藤堂家に仕ふ。その先は桃地の党とかや。その氏は松尾なりけり。今また四十の老をまたず武陵の深川に世に遁れて世に芭蕉庵の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり俳諧は遊びて行脚の便を求てといふべし、されば松島は明ぼのの花に笑い、象潟はゆふべの雨に泣とこそ。富士吉野の名に対して吾に一字の作なしとは古しへを、はばかり今ををしふるの辞にて漂泊すでに廿とせの秋くれて難波の浦に世をすみはてにけむ。其比頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとどめて、かの木曾寺の苔の下に、
千歳の名は朽ざらまし。東花坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法縁をむすびて道に七字の心を伝ふべきと也。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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[特 集] 芭蕉と深川界隈
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