杉山杉風について
 

芭蕉の経済的庇護者として知られる杉山杉風(さんぷう)は、正保4年(1647年)江戸日本橋小田原町に生まれ、「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営み豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。本邸は小田原町にあったが深川に多くの土地を所有していた。

通称鯉屋市兵衛、藤左衛門、時に鯉屋杉風と称し、採荼庵、五雲亭、蓑翁などと号した。杉風は宝井其角、服部嵐雪とともに芭蕉門下の代表的俳人となり、對雲や南峯は「芭蕉と蕉門十哲図」に杉風を描いている。

芭蕉が、延宝8年(1680年)に江戸市中から移り住んだ第一次芭蕉庵は杉風所有の生簀(いけす)の番小屋が提供されたものであり、「おくのほそ道」の旅を終えてからの第三次芭蕉庵も、杉風が同門の枳風とともに出費して築いたものだった。
  
 ○第一次芭蕉庵から第三芭蕉庵まで
 ○「おくのほそ道」の旅の途次、芭蕉が須賀川宿で書いた杉山杉風宛書簡
 

杉風が芭蕉の門弟となった年代は不明だが、寛文12年(1672年)に芭蕉が江戸に下った直後とも言われ、延宝6年(1678年)の「十八番発句合」の判詞に芭蕉は「予が門葉杉風」と記しているので、遅くともこのころまでには芭蕉傘下に入っていたことになる。延宝8年(1680年)、芭蕉は、門弟20名による「桃青門弟独吟二十歌仙」を刊行し蕉門の存在を強くアピールしたが、卜尺、嵐亭(嵐雪)、螺舎(其角)らとともに杉風もその名を連ねた。

杉風は、次第に疎遠または離反の門弟が増えていく中にあり、最後まで蕉風を貫いた数少ない門弟の一人で、(口述)遺書の中で芭蕉は、「杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候。」と、慈愛に満ちた言葉を遺している。

杉風の俳人としての動向は次の通りである。
  
延宝3年(1675年)の高政編「俳諧絵合」に入集。
延宝6年(1678年)の不卜編「江戸広小路」に入集。
延宝7年(1679年)の言水編「江戸蛇之酢(じゃのすし)」に入集。
延宝8年(1680年)の「桃青門弟独吟二十歌仙」に入集。
延宝8年(1680年)に「常盤屋之句合」を著わし、芭蕉、同本に判詞と跋文を記す。
天和3年(1683年)の其角編「虚栗(みなしぐり)」に入集。
貞享3年(1686年)の仙化編「蛙合(かわずあわせ)」に入集。
貞享4年(1687年)の其角編「続虚栗」に入集。
元禄4年(1691年)の去来・平兆編「猿蓑」に入集。
元禄7年(1694年)の子珊編「別座鋪」に入集。
元禄7年(1694年)の野坡・利牛・孤屋編「炭俵」に入集。

杉風は享保17年(1732年)6月13日に86歳で死去し、遺骨は築地本願寺内成勝寺の墓所に納められたが、寺院が関東大震災で被害を受けたため移転し、現在杉風の墓は世田谷区宮坂の伏見山成勝寺にある。成勝寺は、保延5年(1139年)、崇徳天皇の御願寺として創建された寺院で、平安時代後期、京都で六勝寺に数えられた旧刹である。成勝寺は、元和7年(1621年)に建立された江戸海辺御坊地内の十八か寺の中核寺院として、同年伏見から江戸に移転している。

杉風と女優山口智子さんについて

栃木市の倭町に、創業100年を越える老舗旅館「ホテル鯉保(こいやす)」がある。当旅館を経営する山口家は杉山杉風の子孫にあたり、女優の山口智子さんは同家の長女。

「ホテル鯉保」には「杉風」という名の和風レストランがあり、同ホテルの案内書に「日本料理 "杉風"は、鯉保の先祖である鯉屋藤左衛門の俳号により名付けました。藤左衛門は江戸寛文の頃、屋号を鯉屋と称し幕府と他の諸侯に魚類を納めるお納屋を営み、俳聖芭蕉が江戸に来た当初から師弟の関係をもち、芭蕉の生活面における支持者として深いゆかりをもち、蕉門の高弟として高く評価されております」と書かれている。

(「ホテル鯉保」は、平成17年8月に営業を閉じています。)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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[特 集] 芭蕉と深川界隈
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