芭蕉について
 

出立日についての論議

「おくのほそ道」では、深川の採荼庵を出立したのが「弥生も末の七日」、すなわち3月27日ということになっている。

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。(おくのほそ道)

一方、旅の行程などを仔細に書き記す随行日記に基づけば、深川から船に乗り込んだのが3月20日で、「巳ノ下尅」(午前10時〜午前11時)に千住に到着。その一週間後の27日に、江戸から9里ばかり離れた春日部に宿したことになる。

  巳三月廿日 日出、深川出船。巳ノ下尅 千住二揚ル
一 廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。(曽良随行日記)


深川からの出立日が、「末の七日」、「廿日」と二者間で相違することについては、長きにわたって論議され、これまでに種々の見解が示されている。
  

おくのほそ道の27日 日記の20日 見解の要旨
A 真実 誤り 「おくのほそ道」の27日が真実で、日記の「廿日」は、「七」が脱字したものである。
B 真実 真実 共に真実。曽良だけが何らかの事情で20日に深川を立ち、千住にしばし逗留。芭蕉とは27日に千住で落ち合い、当日連れ立って旅に出た。
C 虚構 真実 「おくのほそ道」の27日は虚構(フィクション)で、日記の20日が真実である。
D 誤り 真実 「おくのほそ道」の27日は書き誤りで、日記の20日が真実である。
E 真実 予定日 「おくのほそ道」の27日が真実で、 日記の20日は、出立前に予定日として書き留めたものを曽良がそのまま放置したものである。

 
こうした中、岐阜の門人安川落梧に宛てた下記の「三月廿三日」付の書簡が見つかり、出立日に関わる芭蕉の動静の一部が明らかとなった。

書簡の日付と文面の「此廿六日江上を立ち出で(今月26日に隅田川を立って)」から、芭蕉は、遅くとも23日までは採荼庵に居住し、23日の時点では、3日後の26日に深川を立つ予定であったことが判明したのである。

予定日がなぜ一日ずれたかについては依然として不明だが、本書簡の発見によって、芭蕉は、恐らくは天候などの都合から、旅立ち予定の26日を翌日に変更し、「おくのほそ道」の通りに「末の七日」に採荼庵を離れたとする見方が有力となった。

御同境又三郎殿御下りの砌(みぎり)、芳翰(ほうかん)に預り、殊に小紙一束堅慮に懸けられ、忝く存じ奉り候。愈(いよいよ)其元(そこもと)俳諧も隆盛の由、御手柄感心斜めならず候。野生、とし明け候へば又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上(こうしょう)を立ち出で候。みちのく・三越路の風流佳人もあれかしとのみに候。
はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着
(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。此人なん、妻を具しむすめを持たりければ、草庵のかはれるやうをかしくて、
草の戸も住みかはる世や雛の家
三月廿三日              ばせを

(芭蕉真筆安川落梧宛書簡。三国路与謝野晶子紀行文学館所蔵)

とは言え、日記などから窺える曽良の人柄から推して、「巳三月廿日」は、書き誤ったものとは考え難く、やはり、上表の「B」のように、3月20日に何らかの事情で曽良が一人で深川を立ち、7日後の27日に千住で芭蕉と落ち合ったと考えるのが真実に近いように思われる。
 


「おくのほそ道」と千住/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と千住
元禄2年(1689年)3月20日(新暦5月9日)・・・日記に書かれた出立日
曽良随行日記<原文> 現代語
  巳三月廿日
日出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。
  巳三月廿日
日の出、深川出船。午前10時半頃千住に揚る。

出立日については、上の「
出立日についての論議」を参照。
 

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第15集 芭 蕉 と 旅 立 ち
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