千住宿・旧日光街道を歩く
 

千住宿について
  


富嶽三十六景

江戸名所百景

現在の千住大橋

旧日光街道(右)

千住宿再現

  
千住の開発は古く戦国期以前にさかのぼり、宿として成立した慶長2年(1597年)には既に千住大橋が架けられていた。その後、千住宿は新田の開発によって更なる用地拡充が図られ、慶長6年(1601年)に始まった徳川家康の街道整備事業で幕府の統治下に入り、三代将軍家光の頃の寛永2年(1625年)に日光街道の初宿に指定された。

東海道品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿の1つに数えられた千住宿は、当初、千住一丁目から五丁目が宿として機能していたが、万治元年(1658年)に掃部宿・川原町・橋戸町(現在の千住仲町・千住河原町・橋戸町)が、万治3年(1660年)に現在の荒川区小塚原町・中村町が千住宿に加わり、これらを総じて千住宿と称した。天保15年(1844年)の「日光道中宿村大概帳」には、その規模が「宿内町並 南北三十二町一九間、人別九千五百五十六人、家数二千三百七十軒、本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒」と記されている。

「千住」の地名については、本陣跡付近の勝専寺の寺伝に、「開基兵部政勝が父なる新井図書政次は鎌倉頼朝公に仕え居たりしが、建仁元年所領を捨てて、当所に蟄居せしものなりと云ひ伝ふ。政次一日荒川の辺に至て戯れに網を打ちしが、網水底深く沈みて容易に上らず、強いてこれを引くに、千手観音の像一網にかかりたまヘリ。政次且つ驚き且つ喜び、奉じ帰りて家に安置し、供養信仰す。後ち政勝に至って、当寺に移安し奉りしものなり。自来この土地を呼んで千手と称へしものなるが、千住と名づけたるはその後ちのことなり」とあり、千手観音に由来することが書かれているが、他にも、この地が平安時代のころ「千寿村」といわれたことや、足利将軍義政の愛妾千寿の出生地であること、千葉氏が住んでいたことなどが由来として伝えられている。

千住河原町
  
 


やっちゃ場・南詰

やっちゃ場・屋号

歴史プチテラス

旧道と大師道

やっちゃ場・北詰

  
荒川区から隅田川を跨いで千住河原町に入る国道4号線は、千住大橋の北200mほどのところでやや細い道と分岐する。これがかつて千住宿を貫いた旧日光街道で、五間の寸法で築かれた道幅は今も受け継がれている。千住河原町はかつて青物市場「やっちゃ場」として名を馳せたところであり、旧道を歩くと、民家の玄関先に手作りの屋号を掲ぐ珍しい光景が処々で見受けられる。

「やっちゃ場」の名称は、せりのときの掛け声が由来といわれ、往時は、そこかしこから元気のいいせり売りの声が聞こえたのだろう。千住の「やっちゃ場」は戦国時代にはじまり、江戸期には農産物の集積場として繁栄し、荷車や船を使って越谷、草加、川越方面の農家からも出荷されたという。

町内を横断している京成電鉄のガードから150mほど行くと、やや奥まったところに白壁のまぶしい蔵「千住宿歴史プチテラス」がある。この蔵は千住に数多く現存する蔵の1つ、江戸時代後期に建造の横山家(千住四丁目)の蔵を平成5年(1993年)に解体移築したもので、現在、区民ギャラリーとして広く活用されている。

プチテラスから7、8m先の旧道の左側に「旧日光街道」、「是より西へ大師道」の文字を刻む道標が目にとまる。当地点は、佐野大師・川崎大師と並ぶ日本三大師のひとつ西新井大師への道の起点であり、大師道は江戸から参詣に出向く際の幹道として使用された。

千住仲町
  
 


千住仲町南詰

仲町(右側)北詰

一里塚跡

増補行程記

高札場跡

  
墨堤通りを挟んで千住河原町の北隣りに千住仲町がある。当地は、江戸時代はじめに新田の開発を行い掃部堤を構築した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)の名にちなんで掃部宿と呼ばれたところであり、後年商業の中心地として栄えた。現在も様々な店が軒を連ねる旧道界隈には、千住大橋の造営にも功績を残した吉胤の墓や、千住七福神の一つ仲町氷川神社、一里塚跡、高札場跡などがある。

一里塚は、里程を明示する目的で、日本橋を起点にして街道の両側に一里刻みで土を盛ったもので、一里は36町(約4km)に統一され、両方の塚には崩壊を防ぐために根張りのよい榎が主に植えられた。宝暦元年(1751年)の「増補行程記」から、千住の一里塚が、木は片方だけながら塚は両側にあったことが知られるが、文化3年(1806年)の「日光道中分間延絵図」や幕末ごろの織畑家文書「千住宿宿並図」では、片方の一里塚のみが描かれている。

高札場は、幕府や藩から出される法令・規制を記すお触書(おふれがき)や重犯罪人の罪状を記す板札を、人目を引く辻などに掲げたところである。

千住一丁目から五丁目と荒川
  
  


問屋場等跡碑

千住宿本陣跡碑

旧日光街道

吉田家住宅

横山家住宅

  
南北1km余りの一丁目から五丁目一帯は、千住宿として最も早くから機能したことから宿の行政や宿泊地の中心として発展した。

一丁目の南詰近くに「千住宿 問屋場 貫目改所跡」の標柱がある。問屋場(といやば)は宿の事務担当機関として街道を往来する旅人のために駕籠や人馬の継立などを行ったところで、足立信金本店と旧区役所の敷地がその跡地にあたる。その向かい側に飛脚宿と馬寄場が設置され、北側の貫目改所では、幕府が規定する荷重量についての検査が執り行われた。

三丁目の「千住宿本陣跡」の標柱が建つところは、大名や幕府役人、日光を往復する門跡などが宿泊した施設跡で、広さは、標柱のところから西は千寿本町小学校前の通りまでを占め、面積は約361坪、建坪120坪であったと記録されている。

四丁目に、宿場町風情を今に伝える二軒の旧家がある。一軒は、江戸中期から代々、絵馬や行灯、凧を描いてきた際物問屋の絵馬屋・吉田家で、もう一軒は江戸時代から続いた紙問屋「松屋」の横山家である。横山家の家屋は江戸時代後期の建築とされ、玄関の柱に残っている傷跡は官軍と戦った彰義隊が刀で斬りつけたものという。旧道を取り囲むように軒を連ねる現代風建築物の中にあって、威風、あたりを払うかのように佇む江戸の遺構は、今後も、宿場町のシンボルとして永く保存されることになるのだろう。
  


増補行程記

旧道と水戸街道

左折する旧道

千住新橋へ

荒川と千住新橋

  
千住宿は、日光街道(奥州街道)、江戸と水戸を結ぶ水戸街道、江戸と喜連川を結ぶ下妻街道の分岐点になっており、四丁目の北詰から右折し東に延びる道がかつての水戸街道である。五丁目の中ほどから左(西)に折れる道が旧日光街道道の延長で、下妻街道は、旧道を直進したが荒川放水路の開削で寸断されている。

荒川は、開削工事が行われるまで大した川幅をもたない河川だったが、明治43年(1910年)の大洪水を契機に現在の川幅まで拡張された。「荒川」の呼び名は、もともと千住大橋が架かる現在の隅田川に付けられていたもので、明治期の河川法でも「荒川」と称されている。川幅拡張後、その川の放水路ということから「荒川放水路」と名付けられた。新河川法が制定された昭和40年(1965年)、この放水路が「荒川」、千住大橋の架かる川が「隅田川」の公称となり現在に至っている。

隅田川については、昔は、「隅田川」、「宮戸川」などのほか、流域ごとの呼び名があって、千住付近では「千住川」や「荒川」、吾妻橋から下流付近では「大川」、浅草付近では「浅草川」などと呼ばれていたが、昭和40年に「隅田川」の呼称に統一された。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第15集 芭 蕉 と 旅 立 ち
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