河合曽良の生涯と墓所正願寺
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡 「芭蕉と旅立ち

曽良の生涯と芭蕉との関わり


山寺の曽良像

白河市の曽良像

福島市の曽良像

松島の曽良句碑

平泉の曽良句碑


曽良は、深川芭蕉庵の近隣に居を構え、芭蕉とは朝夕なく来往する間柄であった。元禄2年(1689年)に「おくのほそ道」の旅の同行者に選ばれ、その2年前にも、宗波とともに鹿島への観月の旅に同行している。元禄7年(1694年)5月、伊賀上野に帰郷する芭蕉を箱根まで見送ったが、これが芭蕉との最後の旅となった。

貞亨3年(1686年)に書かれた芭蕉の句文「雪丸げ」や「おくのほそ道」の日光の章段から、師弟のつきあいの一端をうかがい知ることができる。

曽良何某は、此のあたりちかく、かりに居をしめて、朝な夕なに訪(と)ひつ訪(と)はる。我くひ物いとなむ時は柴折くぶるたすけとなり、ちゃを煮る夜はきたりて氷をたたく。性隠閑をこのむ人にて、交金を断つ。あるよ、雪を訪(と)はれて、
きみ火をたけよき物見せむ雪まるげ ばせを (若人編「花膾」)

曽良という人は、深川の私の庵の近くに仮住まいをしており、朝に晩にと訪ねてきてくれるし、また私も曽良の家を訪れる。私が炊事を営むときは柴折りを焼(く)べて煮炊きの手伝いをしてくれるし、夜に湯を沸かしてお茶を立てるときは、寒さで氷になったしまったものを叩いてかき割ってくれる。性来、静かに暮らすことを好む人で、曽良とは「断金の契り」のたとえの通り、深い友情の間柄だ。ある夜、雪の中訪ねてきてくれたので、一句詠んでさしあげた。
曽良よ、いつものように火をたいてくれないか。君によいものを見せてあげよう。ほら、雪をころがしてつくった雪まるげだよ。


曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。(おくのほそ道)

曽良は河合氏で、名を惣五郎という。深川の芭蕉庵と軒を並べるようにして住み、家事の労を助けてくれている。このたび松島や象潟を共に眺めることを喜び、さらには旅の辛さをいたわってくれようとして共に旅立ち、その朝に黒髪を剃って墨染めの僧衣をまとって姿を変え、惣五を宗悟に改めた。

曽良は、慶安2年(1649年)、信濃の上諏訪に高野七兵衛の長男与左衛門として生まれた。6歳の時に父母が亡くなったことで母の兄の河西徳左衛門のもとで養われ、後に母方の親戚にあたる岩波家の養子となったが、11歳のとき養父母を相次いで失った。20歳のころ、元禄15年(1702年)まで長松山大智院の第四世住職をつとめた叔父の良成を頼って伊勢長島に出、岩波庄右衛門の名で藩主松平良尚に仕えた。

後に長島を離れ、20歳後半頃江戸に居を移した。江戸では、神主の資格を得るため、後年幕府の神道方となった吉川惟足のもとで学び、延喜式、古事記、日本書紀、万葉集などで国学の知識を身につけ、さらに、神道の修得と平行して地理学も学び、この時代の学問が「おくのほそ道」の旅で最大限に発揮された。

曽良は、「おくのほそ道」の旅を終えた3年後の元禄5年(1692年)5月、岱水とともに第三次芭蕉庵の設計を行ったが、芭蕉は完成した新居を大変気に入り、「芭蕉を移すの詞」の中で次のように記している。

杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭垣厚くしわたして、南に向ひ池に臨みて、水楼となす。地は富士に対して、柴門景を追うて斜めなり。淅江の潮、三股の淀にたたへて、月を見るたよりよろしければ、初月の夕べより、雲をいとひ雨を苦しむ。

杉の柱がたいへん美しく削られ、竹づくりの枝折戸は風情があって心地よく、よしでつくられた垣根は厚く築かれ、南に向かって池に臨んで、水楼のようである。敷地は富士に面していて、芝の門はその景色をさえぎらないように斜めに建てられている。淅江のような潮は三つまたの淀に満々と湛え、月を見るにふさわしいので、三日月の夕べから、雲や雨が観月の邪魔をしないかと不安である。


晩年の宝永7年(1710年)3月、曽良は62歳の時に巡検使の随員として九州に旅したが、芭蕉が没して17年後の同年5月22日、壱岐の勝本で病に倒れ客死した。曽良の墓は勝本の能満寺にあるが、没して30年を経た元文5年(1740年)、河西周徳により、故郷諏訪の正願寺にも曽良の墓標が建てられた。
 

曽良の墓所正願寺と「剃捨て」句碑
  


正願寺山門

正願寺本殿

曽良記念碑

曽良の墓標

墓標の辞世句

曽良の墓所正願寺

正願寺は、正式には桑原山不断院正願寺といい、つつじやあじさい、ふじなど四季折々の花が楽しめるところから「花のお寺」として知られている。創建については不明だが、室町後期から安土桃山時代にかけて甲州や信州の寺々を創建・再興した岌往(ぎゅうおう)上人が永禄5年(1562年)に再興したとされる。

両側にあじさいが植栽された参道を行くと山門があり、その先に本殿がある。本殿に向かって左側に曽良の「ゑりわ里て古き住家の月見かな」の句が彫られた曽良記念碑が建ち、そこから本殿裏手に廻ると辞世の句「春に我乞食やめても筑紫かな」を刻む曽良の墓がある。墓を建立した河西周徳(1695年〜1753年)は、曽良の養父となった徳左衛門の子で、曽良の甥にあたる。

正願寺には、曽良と同郷の作家新田次郎ら著名人の墓があるほか、「おくのほそ道」の旅で曽良が使用したとされる「笈」や愛用の「文台」、「すずり箱」が保存されている。

「剃捨て」の句碑

芭蕉は、「おくのほそ道」の日光の章段の中で曽良の「剃捨て黒髪山に衣更」の句を記している。芭蕉が「『衣更』の二字力ありてきこゆ」(おくのほそ道)と称えたこの句の碑は、当の黒髪山(男体山)がそびえる日光には無く、唯一、諏訪湖近くの中洲福島に建立されている。

句碑は、曽良や同郷の俳人宮坂自徳などの句を刻む合同句碑として建てられている。

         

剃捨てて黒髪山の故露もかへ (曽良)  曽良(合同)句碑-右端

剃捨てて黒髪山の故露もかへ  曽良
唐土へ雲吹き拂へ十三夜    自徳
春立つや富士の白雲出でにけり 素檗
湖へ出久かたの田植かな    若人

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第15集 芭 蕉 と 旅 立 ち
スタートページ

Copyright(C) 2000-2002  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.