芭蕉について
 

芭蕉、泉三郎を思う

文治の燈篭
泉三郎によって寄進された鉄製
の燈篭(鹽竈神社の拝殿脇)。

医王寺

佐藤庄司一族の菩提寺医王寺。
源義経の義臣佐藤継信・忠信
兄弟の墓がある。

泉ヶ城跡
泉三郎忠衡の居城「泉ヶ城」跡
泉三郎(泉の三郎、和泉三郎)とは、奥州藤原三代秀衡の三男忠衡のことである。

文治3年(1187年)に秀衡が病で急逝したのち、二男泰衡は、秀衡の遺言に従って源頼朝から平泉に逃れていた義経をかくまうが、頼朝の激しい圧迫に逆らえず、己が家臣を大将に義経を急襲した。これに対し、泉三郎忠衡は、父の意志を継いで最後まで忠義を尽し義経の力となったが、義経が自刃した約二ヶ月後、兄泰衡によって攻め殺された。

芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)、松島への舟行前に、鹽竈神社に詣でた。芭蕉は左宮・右宮の拝殿脇に建つ鉄製の燈篭に目を遣り、扉に刻まれた「奉寄進 文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」の文字に釘付けとなった。

文治3年7月といえば、義経と頼朝の軋轢が奥州藤原氏と幕府との睨み合いにまで発展し、立て続けに義経引き渡しの宣旨・院宣(朝廷からの命令を伝える公文書)が平泉に下されたころであったことから、忠衡による燈篭寄進は、平泉の平穏と義経の無事を懇願しての行為であったことが推測される。

義経を深く思慕した芭蕉は、道中、義経記などで伝えられる義経所縁の地で幾度も足を止めている。義経最期の地・平泉までわずか数日となった塩釜の地においては、忠衡に繋がる500年の記念物を目の当りにし、当然のことながら感慨を深くした。

芭蕉は「おくのほそ道」で、忠衡を「勇義忠孝の士」と称え、次のように書き記している。
神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。

芭蕉は、これから4日後の5月13日(新暦6月29日)に高館を訪れ、志を遂げずに散った義経主従を追想し「夏草や兵どもが夢の跡」の句を絶唱した。

中尊寺の北西に、「平泉舊蹟志」に「琵琶柵跡、戸河内村に在り。往昔貞任が後見成道が居城の跡なり。中尊寺の北にあたる。里俗此所を泉三郎忠衡が居所なりと傅へり」と書かれた泉三郎忠衡の居城「泉ヶ城」の古跡がある。

「おくのほそ道」と塩釜/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と塩釜
元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)〜5月9日(新暦6月25日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 八日
朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山興井
野田玉川おもはくの橋浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかま(お釜神社の写真)を見ル。宿、治兵ヘ法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。
 
一 九日 
快晴。辰ノ尅、鹽竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。
一 八日
朝の内小雨降る。午前10時頃より晴れ。仙台を立つ。十符菅と壺碑を見る。午後2時頃、塩釜に着き、湯漬け飯など食す。末の松山、沖の井、野田の玉川、おもわくの橋、浮島等を見物して帰る。見物の前に鹽竈のかまを見る。治兵衛宅に宿す、法蓮寺の門前。加衛門の紹介状あり。銭湯有り、入る。
 
一 九日
快晴。午前8時頃、鹽竈明神を拝す。帰宿後、出船。千賀ノ浦、籬島、都島等、所々見て、正午頃松島に着船。

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第14集 芭 蕉 と 塩 釜
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