「塩釜の浦」と源融について
末の松山と塩釜の浦
塩釜の浦(千賀の浦)

芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、午前中に仙台を立って十符の菅や壷の碑を見物し、午後2時ごろ塩釜に到着した。食事の後、多賀城に戻り、末の松山などの歌枕を精力的に訪ね歩いている。

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。 (おくのほそ道)

八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴

ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。 (曽良随行日記)

「末の松山」は、古より陸奥を代表する一流の歌枕として慕われ、特に三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌は、つとに知られる。「末の松山」は、「愛の契り」に触れた歌に多く詠まれ、この歌も、愛を誓いながら去っていった女性に、別れが不意なるものであったことを「浪が届くはずもないこの末の松山に波が越えてくるようなもの」と比喩して伝えたものである。

芭蕉は、松の間々(あいあい)に広がる墓原に身を置いて、白楽天の「長恨歌」の一節「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝」を想起し、「はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごとき」と人の世の哀れを歎いた。その時、浄瑠璃の一場面を再現するように、塩釜の浦に晩鐘が鳴り響いた、というのである。今は、建物が立ちはだかり末の松山から塩釜の海を眺めることはできないが、高台の少ない多賀城にあっては、ここが海原を見晴らす絶好の場所だったのだろう。

千賀の浦とも呼ばれる塩釜の浦は、昭和30年代に行われた湾内埋め立てによってかなり狭くなり、昔、湾内にぽつりと浮かんでいた籬島(まがきじま)は、今では、陸地から20mほどの位置にまで接近している。芭蕉を迎えた千賀の浦の星月夜に、侘びと幽玄の美を醸した籬島は、今、塩釜を出航する観光遊覧船の拡声器から、松島「八百八島」の一番手として、「わがせこを宮こにやりてしほがまのまがきのしまの松ぞこいしき」(古今和歌集 東歌)の歌とともに紹介されている。

五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。 (おくのほそ道)

近世と現代の鹽竈神社界隈 戦前の絵葉書に見る籬島 現在の籬島 塩釜湾の航空写真
   

源融と塩釜の浦

源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたる。「三代実録」の貞観6年(864年)3月8日の条に「正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使」とあり、融は、陸奥出羽按察使の任にあったが、「続日本後紀」等の文献により、直接任国に行くことを免除された「遥任」であったことが知られる。しかし、これによらず、かつての多賀城の周辺に、源融にまつわる神社や古跡が散見されるのは、どのような背景からだろうか。

むかし、東北地方は西国の人々にとって「道の奥」すなわち未知の国であり、少々恐れを抱きながらも憬れの地であり、こころ惹かれる土地であった。その一端をうかがわせるエピソードが、鴨長明の「無名抄」に書かれている。これによれば、歌人として知られた橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を12個の長櫃(ながびつ)に収めて持ち帰ったところ、大勢の人がその土産を見るため、二条の大路に集まっていたという。

五月五日かつみを葺く事  (中略)此為仲、任果てて上りける時、宮城野の萩を掘りとりて長櫃十二合に入れて持ち上りければ、人あまねくききて、京へ入ける日は、二条の大路にこれを見物にして人多く集まりて、車などもあまたたちたりけるとぞ。(無名抄)


しかし、源融にとって、陸奥への思いは深く、こうした土産や土産話では充分に満足できなかったと見えて、加茂川にほどちかい六条辺り(六条河原)の自邸の庭に、わざわざ海水を運ばせて塩釜の浦の景色をこしらえ、藻塩を焼く風雅を楽しんだ。源融は、こうした振舞いから河原左大臣と呼ばれるようになり、「庭に作った塩釜」の話は、宇治拾遺物語や伊勢物語にも取り上げられ、広く知られるところとなった。

今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのおかしき事を尽して、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門、たびたび行幸ありけり。
(宇治拾遺物語  巻第十二  十五 河原院融公の霊住む事)

むかし、左のおほいまうちぎみ(大臣)いまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな(在原業平)、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ

わたしは塩釜にいつ来ていたのだろう。朝なぎの中、釣りに出ている船はこちらに寄ってきてほしい。

となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。
(伊勢物語 第八十一段)


このように、源融が自邸に塩釜の浦を築き上げ、さらには、上の通りに「おもしろきをほむる歌」を詠む趣向の最後に、在原業平が「塩釜にいつか来にけむ」の歌を詠んで、模擬の塩釜を実景と見まごうばかりと過大に評価した。

○「塩釜にいつか来にけむ」の歌は、「続後拾遺和歌集」や家集「在原業平集(在中将集)」にも見られる。
河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ 業平朝臣
(続後拾遺和歌集) 
ひたりのおほいまうちきみ、かも河のほとりに家をおもしろくつくりて、神な月のつこもり菊の花さかりなるころ、みこたちおはしまさせて、ひゝと日、酒のみ遊びしたまふ、この殿のおもしろきよし人々よみけるに
しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ
(在原業平集)


こうなると、かの塩釜が京でも見られるとのうわさが広まり、橘為仲の萩の話のように風流人が興味津々で融の庭に集まってくる。紀貫之もそうした中の一人と見えて、次の歌が古今和歌集に採録されている。

河原左大臣の身罷免りて後、かの家にまかりてありけるに、塩釜という所のさまをつくれりけるを見てよめる、
君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな
河原左大臣がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった「塩釜」は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ。
(古今和歌集 巻十六)


こうして、源融は、時の流れとともに「実際に陸奥に赴いた経験があり、塩釜の風雅を語れる」人間として伝播し、その結果、陸奥各地に融にまつわるさまざまな伝説が生まれることとなり、遂には、「融公 (中略) 塩浦の勝を愛慕し、其美を当時に繁揚す。塩浦第一の知己と謂つべし。此地に祠して祭る」(鹽勝松譜)として、源融を祭る神社まで存するに至った、と思われるのである。

本村浮島高平囲に大臣宮(おとどのみや)の旧跡がある。大臣宮は第五十二代嵯峨天皇第十二の皇子源融を祭ったものだと言い伝えられている。明治四十一年までは石のお宮があったが、今は浮島神社に合祀されて大なる礎石だけが残っている。(中略) 塩釜町赤坂を下りて西町に入る右上に塩釜公園あり、俗に融ヶ岡とも称し、此処より融が塩釜の景を眺望したところだといっている。
(三塚栗川編纂 多賀城村郷土の伝説と秘話   昭和9年山王尋常高等小学校刊)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第14集 芭 蕉 と 塩 釜
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