芭蕉について
 
芭蕉、壷の碑を見る
(以下の内容は事実を考慮しないフィクションです)
芭蕉翁絵詞伝
 「芭蕉翁絵詞伝」( 義仲寺所蔵)
元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)のこと。

朝方降っていた雨が10時ごろ止んで日が射しはじめると、芭蕉一行は5日間逗留した仙台を離れ塩釜の宿を目指した。途中、歌枕として知られる「十符の菅」を見物し、芭蕉はそこを通る、いかにもここが「みちのく」といった趣の細道を、強く心にとどめた。

半時(はんとき)ほど前まで城下にいたことが本当かと思わせるほど閑静な山際の里をあとにし、芭蕉は、塩釜への街道を東へ急いだ。加右衛門が描いてくれた絵地図には、多賀城の古跡の内に一つの立石が見られ、それが、かの「壷の碑」だという。

西行法師が「むつのくのおくゆかしくそおもほゆるつほのいしふみそとのはまかぜ」と詠み、多賀城にゆかりある古人が千年の昔に刻印したという碑石が、

この先にあるのだ。「壷の碑」は、むかしから幻の碑、謎の碑として伝承され、歌僧寂蓮も「みちのおくつぼのいしぶみありときくいずれかこひのさかひなるらん」(夫木和歌抄)と詠んで、この不明の碑に心を寄せている。

芭蕉は、歩を進めながらこれまでの旅を振り返る。江戸を立って早40日、恋路をたどるように方々古人の跡を追い巡っても、結局は、「山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみ」(おくのほそ道)と覚え、歳月とともに移り行く万物の無常を儚んだ。

頬をなでる風に潮の香りが混じるようになるころ、曽良は地図をながめながら、橋を渡るとまもなく「壷の碑」に行き着くことを芭蕉に伝えた。ほどなく、2人は市川橋という木橋を渡る。橋を渡って2丁ばかり歩くと、街道から脇道へそれる追分のところに「壷の碑」の道標が見られた。

浮き立つほどの高まりを感じながら、道標が教える右の小道を行くと、小高い丘の登り口に厚みのある立石がぽつねんと建っている。丈は6尺を越えているだろう。碑は一面苔むして文字を読むことができない。そこで、上部に生えた苔を払ってみると、そこには三千風の「松島眺望集」に見たあの「西」の字が大きく彫られている。芭蕉と曽良は、同時に、「これだ」と言って互いに顔を見合わせた。

碑文の内容は予め承知していたものの、芭蕉は自身の目で確かめたいとの思いに駈られ、碑面を覆っている苔を撫でるように払った。すると、左下に石碑建立の日付を刻する「天平宝字六年十二月一日」の文字が現れた。「天平宝字六年」といえば、元禄2年から数えて遥か930年ばかり昔にあたる。

すべてのものが影を無くし流れて行った中で、この碑だけが不易にして、千年の歳月に堪えて多賀城の地に残っている。数々の戦が繰り広げられたこのみちのくの地も、今はすべてを忘れたかのように静まり返っているが、この「壷の碑」は、幾度も戦いの雄たけびに身をすくめ、そして、城の炎上に身を焦がしたのだ。しかし、それでも里には春がめぐり来て、歌合わせや蹴鞠(けまり)に遊ぶ朗らかな声が碑に響き渡った、そんな時代もあったことだろう。

今、このように千年の歴史を刻む記念物に出会えたのも、命長らえて行脚しているからとしみじみ思われ、旅の苦労も忘れ、泪が止めどなく流れた。

芭蕉は、苔を払った「壷の碑」から、かすかに平安の歌詠み人の声を聞いたように思った。
 


「おくのほそ道」と多賀城/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と多賀城
元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 八日
朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山興井野田玉川おもはくの橋浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかま(お釜神社の写真)を見ル。宿、治兵ヘ法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。
一 八日
朝の内小雨降る。午前10時頃より晴れ。仙台を立つ。十符菅と壺碑を見る。午後2時頃、塩釜に着き、湯漬け飯など食す。末の松山、沖の井、野田の玉川、おもわくの橋、浮島等を見物して帰る。
見物の前に鹽竈のかまを見る。治兵衛宅に宿す、法蓮寺の門前。加衛門の紹介状あり。銭湯有り、入る。

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第13集 芭 蕉 と 多 賀 城
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